第4話 酒飲みの口実
町へ向かって湖畔沿いを歩く。
闇の中、マリウスが湖面へ視線を落とすと、さざ波が岸辺を撫でる音だけが耳に届いた。水の匂いが冷たく、鼻の奥をくすぐる。
さっきまで熱くなっていた頭が少しずつ冷めていくにつれて、代わりに、どうしようもない孤独が静かに迫ってくる。足音さえ、自分を追い立てるみたいだった。
(これからどうすればいいんだろう)
修道女の前では拓けたように見えていた未来が、一瞬で萎んでいくのを感じる。教会の灯り、あの香り、あの抱擁――思い出すほどに、外の闇が濃くなる。
今の自分の状況に、まだ実感が湧かなかった。あるのは硬貨が入った布袋と、オラルのくれた短剣だけだ。
知らない町。知らない言葉。知らない明日。
(いや……)
もう一つ。いつも持っていた革袋の中には、深い青色の魔石――『宿命のタリスマン』が入っていた。夜道の暗さにもかかわらず、むしろ闇の方が引き立ててしまう。不気味なほどの存在感。握ると冷たいのに、掌の奥がじり、と熱を持つ気がする。
(これが元凶なんじゃ?)
思えば、受け取ってから悪夢が始まった。本当にお守りなのか。守るどころか、引き金だったんじゃないか。疑念は晴れず、何か恐ろしい〝モノ〟に見えてくる。――父が手渡した瞬間の、あの顔を思い出すのに。
(こんなもの!!)
マリウスは湖畔へ向かって宿命のタリスマンを投げようとして……止めた。腕は上がったのに、指が開かない。
呪われていたとしても、父から貰った大切なものに変わりはない。感情に任せて捨てられるはずがなかった。捨てた瞬間、何かが切れる気がした。
(父さん、みんな……)
今はこれだけが、自分と神々の楽園との繋がりに他ならない。力を失くした手で宿命のタリスマンを革袋へ落とし入れ、口を固く結ぶ。革が擦れる音がやけに大きく聞こえた。
ひたすら町の明かりがある方へ歩いていく。
気づけば木の家が立ち並ぶ場所に来ていた。窓の隙間からは橙の灯り。笑い声。食器が触れ合う音。
ちょうど夕食の時間だろうか。食べ物のいい匂いが辺りを漂っている。人が暮らす場所に来た――それだけで肩の力が抜け、遅れて腹の虫が鳴り始めた。そんな時だった。
「おーい、マリウスくん。こっちこっち!」
聞き覚えのある声がマリウスを呼ぶ。『BAR』と書かれたお店の外テーブルから、細身の男が手を振っていた。陽気な声に、近くの客たちがちらりと視線を向けてくる。
見知らぬ街で、自分の名前が呼ばれる。心臓が少しだけ跳ねた。
「あ、えーと……ヘルナーさん?」
「えらく掛かったな~」
座るように促されて腰を掛けると、さっきまでの視線は興味を失ったかのように引いていった。頬を赤く染めたヘルナーさんが酒瓶を掲げて、にやりと笑う。
今にも『どうだ一杯?』とでも言ってきそうだ。
父がお酒を飲みすぎた時の顔を思い出す。そして、母に『飲みすぎでしょ!』って怒られる流れまで、勝手に頭が繋げてしまう。
(あれ……そういえば仕事中じゃなかったっけ?)
「ははーん、マリウスくんまで俺がサボってるように見えるのかい?」
「あ! もう終わったんですか?」
「ノンノンノン」
ヘルナーが指を左右に振って否定する。
この余裕のある動きが、妙に腹立たしい。
(これだから酒飲みは……)
マリウスが閉口していると、ヘルナーさんは痺れを切らしたのか、勝手に話を進めた。
「正解は、マリウス君を待っていたのさ」
「……なんで?」
つい素の口調が出てしまった。ヘルナーさんはそれを気にした素振りも見せず、今度は小声で「これはここだけの話だぞ」と呟く。周囲に聞かれたくない話なのかもしれない。
マリウスはテーブルに身を乗り出し、顔を近づけようとして――。
「イタッ!!」
有無を言わさずに喰らったのはデコピンだった。額の一点がじん、と熱い。マリウスは額を押さえながらヘルナーを睨んだ。
「なにすんだよ!」
「そういうところが危ないって、伝えにな」
言葉の意味がさっぱりわからなかった。なぜ?という疑問と不信感が募る。
だが、そう言った時の彼の目だけは、酒に濁ってはいなかった。ふざけているのに、芯が硬い。怒りを露わにしたマリウスの態度が〝正解〟だとでも言うように、「それそれ」とヘルナーは続ける。
「良し悪しを判断できないなら、まず疑え。無理に受け入れようとすんな。いい子ちゃんになりすぎなんだよ」
「じゃあ誰を信じればいいのさ」
ヘルナーが満足そうに酒を呷って、短く答えた。
「自分だろ」
「ぐーたらが何言ってんだい」
ふいに背後から割って入ったのは、皿を片手にした年配の女性だった。艶のない赤茶の髪を後ろで束ねた彼女は、いかにも手慣れた様子で料理をテーブルに置いていく。
芳ばしい香りが横切り、大皿にはこんがりと焼けた魚がふっくらと横たわっていた。皮の焦げ目が、灯りを受けて艶めく。
「ツィロル名物のマスの焼き魚! 酔っ払いの説教より、美味いもん食べた方がなんぼかいいわよ」
「ははは、違いねぇな」
「え、あ、でもお金が……」
村でも物と交換ができる硬貨はあったが、ここでは何が何枚必要か全くわからなかった。袋の重さが急に心細い。
「ヘルナーの奢りに決まってるじゃない」
「まあそういうこった。遠慮すんなよ」
「ほらほら、冷めちゃうわ! まずはお食べ!」
そこまでお膳立てをしてもらって、食べない理由はもうない。マリウスは「ありがとう」と伝えると、焼き魚を頬張った。
絶妙な塩気が口に広がった後、脂の乗った身がそれを中和して、甘さへと変わっていく。ほろ、とほどける身。舌が追いかけてしまう。
「うまい!!」
空きっ腹にこれほど旨いものを入れられたら、一口で済むわけがない。二口、三口と無性に噛りつく。
その後も次々と料理は運ばれてきた。温かい汁、パン、香草の匂い。食べるたび、体の芯に〝生きてる感覚〟が戻ってくる。
「満足したか?」
「うん……もう満腹」
胃袋が満たされると、心に余裕ができるものだ。さっきまで突っ張っていた背中が、椅子へと預けられる。
マリウスは彼がなぜここまでしてくれるのか、ようやく疑問が形になった。
「なんでヘルナーはここまでしてくれるの?」
「んー……迷い子とは縁があってさ。もう返せない借りを返してんだ」
これまでの軽快な口調とは違って、歯切れが悪かった。わざと薄く笑って誤魔化している――そんな感じ。
ただ、そんな空気もなんのその、「いいか、この一回きりだぞ? じゃないと俺の財布が持たないからな!」と、すぐにヘルナーはおちゃらけだした。
こんな他愛もないやり取りが、今のマリウスにはありがたかった。
闇の中で固まっていた心が、少しずつほぐれていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます