第3話 手がかり――異邦人

 自ら泥水をすすりたいと思う人なんていないだろう。

 父から冒険者の話を聞けば聞くほど、マリウスは村から出たいと思わなくなった。


 安全で、優しい村だった。


(それだけなら、どれだけ……)


 村を出た者のことを、まるで最初からいなかったかのように忘れていく。


 マリウスも例外ではない。他にも同年代がいたはずなのに、顔も名前も思い出せない。唯一、はっきりと心に残っているのは――ミリア。


 途端に寒気が走る。なら、迷い子となった者は覚えているのか、と。

 

「迷い子は、神々の楽園チュートリアルのこと忘れたりしないよね……?」


 カテリナの顔が初めて曇る。その反応だけで答えはわかってしまった。

 マリウスは後を追うように、首を横に振った。


「あなたはきっと特別で、記憶を持った不思議な迷い子」


 村のみんなやミリアも、自分にはない特別な力を持っているように思えて、それを羨ましく感じたことは何度もあった。


(だけど、こんなのあんまりだ!)


 〝特別〟だとか〝不思議〟だとかいう言葉は、今のマリウスには何の救いにもならない。優越ではなく孤独。『同じ境遇は他にいない』という宣告だった。


(もし、この世界にミリアも来ていたら。いや――)


 考えれば考えるほど足元が崩れていく気がした。だから、その先へは踏み込めなかった。今はただ、この理不尽を受け入れるしかない。そうやって心が蓋をする。


 ……それでも、答えだけは欲しかった。


「僕だけ、なの?」

「ごめんなさい……神託を授かった時、驚きとともに、とても酷なことだと思いました。みな、記憶がないから、この世界で生きることに違和感はありませんが、あなたは……」


 意識がふっと遠くなる。


「だ、大丈夫ですか?!」

「ははは、なんとか」


 膝から力が抜けかけた足を、どうにか自分で踏ん張った。今日という一日のうちに、二度も腰を抜かしたなんてことにはなりたくなかった。

 自分の姿を俯瞰した途端、思わず乾いた笑いが漏れる。


 本当に、冗談みたいな話だ。……でも、これが現実だ。


「話を続けてください」

「え、ええ」


 カテリナさんは戸惑った様子で、それでも真剣にマリウスを見つめている。その視線から逃げるように、マリウスはもう一度、話の続きを促した。


「もう一つは、迷い子のこと。迷い子は神々の楽園を通ってきた者達のことですが、人とは別に、人の形をかたどった存在もいます。彼らを異邦人エトランジュと呼んでいるのです」


 ヘルナーさんが、マリウスをちらりと見て『普通の人』と言っていたのを思い出した。


異邦人エトランジュ……?)


 初めて聞く言葉に首をかしげていると、カテリナさんは補足するように、言葉を重ねた。


妖精フェアリーは知っていますか?」

幻惑妖精イリフェアリーの話は、お母さんがよく聞かせてくれた。良いことしか言わない囁きには、ついて行っちゃだめって話」


 ついて行ってしまえば、気づいたときには魔物の腹の中。

 この話で一番怖いのは、幻惑妖精が誘うだけ誘って、最後まで姿を見せないことだ。だから誰も、幻惑妖精の存在に気づけない。


「それは魔物の妖精ですね。どの妖精も私たちと同じように、食べたり、飲んだり、眠ったりもします。ただ、彼らは突然現れては、突然消えていく。『精霊の世界に行っている』なんて言われていますよね。異邦人もそう、人の姿でありながら、異なる世界を往来できる存在――だから異邦人」


(異なる世界……)


 戻る方法のひとつなら、マリウスはすでに知っている。

 それは、――自分が死ぬこと。


 そうやってあの場所に帰れたとしても、待っているのは地獄の続きだ。


 ――なら。

 頭の中で、何かがカチリと噛み合う。


「異邦人なら、帰り方を知っているかもしれない!?」


 闇の中に、一筋の光が差し込んだ気がした。


「彼らと行動を共にすれば、何か手がかりが掴めるかもしれません」

「どこに異邦人はいるの!」

「多くの異邦人は……冒険者になっている、と聞いています」


(異邦人が……冒険者?)


 人と似ているなら生活を共にすることはあるだろう。

 けれど、その先がわからない。なぜ彼らは自分の世界へ帰らず、あえてここで剣を取って生きているのか。


 冒険者として生きる。――マリウスがそう決断することを、妙に〝最初から用意されていた〟みたいに感じた。

 

 理由は見えない。

 それでも。


「とりあえず、やってみるしかない!」

「はい、それがいいでしょう」


 カテリナさんはそう言って微笑んだ。教会に足を踏み入れた瞬間に見たのと同じ、穏やかで揺るがない笑みだった。


 マリウスは胸の中のよどが少しずつ洗い流されていくような感覚を覚える。今なら、『ここには神聖な何かがある』と言われても、素直に頷いてしまいそうだ。


 主に、修道女カテリナへの信仰心が、であるが。


「ありがとうございました」

「これも神の導きです。他には何かありませんか?」


 あまりに多くの言葉と現実を渡されて、頭の中はすでにはち切れそうだった。


「ないです。頭がもういっぱいで……」

「焦らないでくださいね。着実に進めば、道は拓けるものです」


 心配そうで、それでも信じてくれている眼差し。手を取られ、掌の上に布の袋がそっと置かれた。中から、金属が擦れ合う音が控えめに鳴る。


「三日分程度ですが、あって困らないと思います。迷い子には教会から支援をする決まりになっていますので、遠慮せずにどうぞ」

「本当に、いろいろありがとうございました!」

「どうかあなたに、アルマのご加護がありますように」


 扉が閉まりきるまで、マリウスの視線はカテリナさんの微笑みから離れなかった。


(また来よう)


 最初から最後まで、彼女は天使だった。

 

 マリウスは教会を後にする。星明かりの下、来た時には気づかなかった澄んだ空気と、ほのかに漂う水の匂いが感じられた。

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