第2話 神々の楽園
厳かな雰囲気の中にも、どこか温かみを感じる教会。蝋燭の柔らかな光の中、整った黒衣の隙間から覗く色白の肌と、流れ落ちる銀の髪がほのかにきらめく。マリウスが思い描いていたどんな修道女よりもずっと、神秘的で、優しさにあふれた光景だった。
天使か、それとも――。
思わず、胸の奥の何かがほどけて、心を預けてしまいそうになる。その瞬間、横から水を差された。
「あまり女性を見つめすぎない方がいいぜ」
「えっ? あ、ああ、ごめんなさい」
修道女が指先で口元をそっと覆い、くすりと笑った。蝋燭の火が、その笑みをやわらかく照らし出す。
「ふふ、いいんですよ。では改めまして、私は
「僕はマリウス。チュートリアルの村から来たマリウスです。聞きたいことだらけなんです」
「そうですか。では」
「ってことで、俺はもういいかい? 仕事中なんだ」
ヘルナーさんは間髪を入れずにそう言い、視線をどこか泳がせていた。ここに長居するつもりはなさそうだ。
甘く乾いた匂いが、ふっと鼻をかすめる。
(……ああ。こういう場所じゃ、気まずいよな)
「迷い子を送り届けてくださって、ありがとう」
「……ここにはバートンに頼まれたからきただけだよ」
カテリナさんが彼に深々とお礼を伝えると、彼は気まずそうに耳の後ろをかいた。
足はもう、半歩だけ扉のほうへ向いている。
それから思い出したように、へらっと笑って手を振った。
「俺はヘルナー、ツィロルのしがない門番さ。マリウスくん、またな!」
言葉だけ残して、ヘルナーさんは足早に教会を出て行った。
見送ったまま振り返ると、マリウスはカテリナさんがほんの少しだけ寂しそうに目を伏せたのに気づく。
「何かあったんですか?」
「彼はこの場所がどうも苦手みたいでして。でも、今は他に話すことがあるのですよね?」
やんわりと話題を戻されたのだとわかる。
(今、向き合うべきなのは僕自身のことだ)
マリウスには、聞きたいことが山ほどあった。そのはずだった。けれど、いざ口を開こうとすると適切な言葉が出てこない。
頭の中に浮かぶのは、脈絡のない悪夢の断片ばかり。家が崩れ落ちる音だけが、やけに鮮明に耳の奥で鳴り続けていた。
どれもまともな話とは思えなかった。受け入れがたい現実だけが重なっていく。
沸々とした怒りと理不尽さだけが、胸の底から込み上げてくる。
(なぜ……なぜ、僕がこんな目に遭わなきゃいけないんだ)
感情が一気にあふれ出しそうになったその時、花のように甘い香りがふわりと漂い、やわらかな温もりに包まれた。それが、カテリナさんの腕からの抱擁だと気づいても、マリウスは身を引けなかった。いや、引きたくなかった。
胸越しに、彼女の心臓の鼓動がかすかに伝わる。背中をゆっくりと擦られ、耳元で「辛かったでしょう」と囁かれると、
(これが夢なら、どれだけ楽なんだろう)
人は温かい。あの村と同じように、この世界の人たちも確かに生きている。
だからこそ――あの地獄も、この温かさも真実であり、それがどれほど残酷なことなのか。今だけは、その意味を最後まで考える勇気を持てなかった。
どれほどそうしていただろう。やがて、マリウスは自分の呼吸が少しずつ落ち着いていくのを感じた。
「すみません」
「大丈夫ですよ。誰だって、感情的になる時くらいあるものですから」
カテリナさんは、最初に見たときと同じ柔らかな笑顔だった。あまりに穏やかで、彼女が感情的になる姿なんて想像もつかない。
(僕は取り乱してばっかりだ……)
けれど、今向き合うべきなのは、そんな自分自身だ。状況がわからない中で感情だけをぶつけても、何も変わらない。
マリウスは、『死んだら戻る』だけは胸の奥に飲み込んだ。
そんな荒唐無稽な話を、信じてもらえるはずがない。そのうえで村で起きた異変から、教会に来るまでを、一つひとつ、できるだけ丁寧に話していった。
「それが……あなたに与えられた試練なのですね」
穏やかな声の中に、どこか神聖な響きが混じる。その瞳には、これから待ち受ける困難への憂いと、試練を乗り越えられるという揺るぎない信仰が同時に宿っているように見えた。
カテリナさんはふっと遠くを見るような目をしてから、マリウスに向き直り、静かに告げた。
「お話を聞いて、私が力になれそうなことは二つだけ」
「ぜひ聞かせてください!」
手がかりなら、どんな些細なものでもよかった。
一番怖いのは、誰も何も知らない世界で、ただ一人取り残されることだ。
覚悟を固めるように視線を合わせ、言葉の続きを待った。
カテリナさんの瞳が、ほんのわずか揺れる。沈黙が一拍、伸びた。唇がかすかに結ばれ、次の言葉を選んでいる――そう感じた。
やがて彼女は息を整え、静かに口を開いた。
「聖典では神々の楽園を『チュートリアル』と呼ぶのです。
そして『迷い子は
マリウスさん、あなたのいた〝村〟は、そこなのではありませんか?」
今まで一度も聞いたことがない話だ。
「生まれ育った場所が神々の楽園だった、なんてことは……」
そう考えた瞬間、胸の奥に、針のような違和感が引っかかった。
思い当たる節が〝ない〟とは言えない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます