湖畔の町編

宿命の回帰者

第1話 迷い子

「チュートリアル?」


 中年の男は眉間に皺を寄せたまま、隣の細身の男に目配せした。


「おい、聞いたことあるか」

「ねえな」


 即答だった。

 二人とも当たり前のように、ただ事実として切り捨てた。細身の男が困ったように笑い、肩をすくめる。


「この先は魔物の領域だ。村なんてあるはずがねぇ」

「……まあしかたない。怖い目に遭ったなら、まず中に入れ」

「そんなはずない! 絶対にあるんだ!」


 マリウスは中年の男に詰め寄った。胸の奥を冷たい感覚が突き刺す。魔物の大襲撃モンスターウェーブは、もう始まっているかもしれない。ここで立ち止まっている時間はない。


「急がないと、間に合わない!」

 そう言うが早いか、マリウスは踵を返して駆け出そうとした。

 だが、その瞬間――。


「っ……!」


 力強い手が肩を掴んだ。咄嗟に身をよじって抜け出そうとする。けれど握力は鉄のように硬く、まるで岩に固定されたみたいに動けない。


「落ち着け」

「離せよ!!」

「そんな身なりで夜の森に入ったら死ぬって」

「今、君だけが戻っても意味があるのか、よく考えてみなさい」


 男たちの言葉が頭の中に叩き込まれる。肩に置かれた手の温もりが、これが現実だと突きつけてきた。視界の端がかすむ。


(僕は……助けを呼ばなきゃいけないのに)


 全身の力が抜けていく。膝が折れそうになった体を、広い胸とがっしりした腕が抱き止めた。


「安心しなさい。おじさんが冒険者ギルドへ伝えておくから」


 言葉は確かに届いていた。それでもマリウスは何も言えない。膝に手をついたまま、息をするのさえ重かった。今は自分の無力さを、ただ飲み込むしかなかった。


(それで本当に間に合うのか――聞けなかった)


「ヘルナー! この子を教会に連れていってくれ」

「ったく、人使いが荒いな……」


 そう言うなり、中年の男がマリウスの体を抱え上げた。ふわりと浮いたかと思うと、別の腕に支えられる。マリウスはヘルナーと呼ばれた男の背に乗せられていた。

 背中越しに、ほのかな酒の匂いが鼻をかすめた。


「俺が持ち場を離れたら問題になるだろ?」

「違いねぇ」


 軽く笑う声が響く。体が揺れ、視界がゆっくりと流れ始めた。ぼんやりと夜空を仰ぐ。月明かりだけが、確かにそこにある。


 背中に揺られながら、マリウスの視線は自然と門の向こうへ向かった。傾斜の先に、大きな湖と街の明かりが三日月の形に広がっている。水面に映る光が静かに揺れ、滲んだ。水辺に寄せ集まった蛍みたいに――綺麗だった。


「いい眺めだろ? 俺はここから見える街の景色が好きなんだ」


 マリウスは素直に頷けなかった。綺麗だと思っても、自分だけがそれを味わうことを許せるわけがない。

 だから精一杯の意地を張って、ヘルナーさんに告げた。


「……もう、一人で歩けます」


 覚束ない足取りで坂を下る。

 すると彼が「あそこだ」と、街の入口から少し外れた場所を指さした。細長い建物が見える。近づくほど、石造りの壁が夜に沈み、教会は荘厳な気配をまとっていた。その壮麗さに圧倒され、ここへ足を踏み入れていいのか、場違いな気がした。


「なんで教会に行くんですか?」


 湧き上がった疑問に足を止めて尋ねる。


「ああ、迷い子まよいごがいたら教会に連れていけって、冒険者の決まりがあってな。……まあ俺は、もう冒険者をやめてるんだが」

「僕は迷ってるわけじゃないです」


 はっきり言うと、男の表情がぴくりと動いた。困ったように唇を結び、やがて小さくため息をついて頭をかく。


「稀に、異世界いせかいから来る者もいるんだよ。君はっぽいけど、状況は同じだ」


(異世界……?)


 聞き馴染みのない言葉だ。言葉通りなら、あり得ない。

 それでも今は『村なんて最初からなかったのかもしれない』という疑念が、胸の奥でじわじわと育っている。マリウスは〝異世界〟という単語を、都合よく飲み込んだ。


 ただ、なぜこの世界に来てしまったのかは分からない。

 もし何か掴めるのなら――教会を訪ねる価値はある。


「……教会に行ってみる」

「そうか。無理に連れていきたくはなかったから、よかったよ」


 ヘルナーさんは安堵したように顔を緩めた。



 重厚な鉄の蝶番が付いた木の扉に手をかけ、ゆっくり押し開く。ギィ――と軋む音が静かな夜に響いた。マリウスはその音に一瞬ためらい、それでも促されるまま中へ足を踏み入れる。


 最初に感じたのは、木の匂いだった。ほのかで、あたたかい。


 石造りの重厚な外観とは対照的に、内部は質素ながらも温もりのある空間だった。木の床は歩くたびに小さく軋み、横に長い木の椅子が祭壇へ向かって整然と並ぶ。木のぬくもりが、静かに満ちている。


 そして最前列には、頭まで黒衣をまとった人物の後ろ姿があった。

 あの人が修道女シスターなのだろうか。ミリアが母親を自慢していた時、敬虔けいけんな信徒の特徴まで語っていたのを思い出す。


「カテリナさんは祈りの最中だから、少し待とう」

「いえ。ちょうど今、終わったところです。ヘルナーさん――そして、不思議な迷い子よ」


 カテリナと呼ばれた修道女はゆっくり立ち上がり、こちらへ向き直って微笑んだ。

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