第2話 真っ赤な口唇

第二章・『真っ赤な口唇くちびる


 列車から降り、僕は母に遅れまいと、ホームから階段を駆け上っていく。

 名古屋駅と比べると閑散としているため、一段飛ばしで上がっていくことができる。

 母は僕が付いてくるのが当然とばかり、キャリーバックをゴロゴロと転がして、後ろを気にすることなく連絡通路を足早に進んでいく。グレーのスゥーツで身を固めた母は、どこからも隙がなく見える。

 母の背中を追いながら、こうやって一緒にどこかへ出かけることは久しぶりだと、気がついた。

 そもそも、物心がついてから、家族でどこかへ出かけたという記憶がない。

 小学校の低学年の頃は、友達から、親に遊園地などへ連れて行ってもらった話を聴く度に、羨ましくてしょうがなかった。

 父親は、休日は朝から東海研修所に籠もっていたし、母は買い物へ行く時くらいしか出かけはしなかった。そのため、小学校も高学年になると、家族でどこかへ出かけるという願いを諦めてしまい、寂しさも感じなくなっていた。

 ただし、ディズニーランドだけは一度も行ったことがないだけに夢が膨らんでいて、高校生になったら、ショウノスケとタケと一緒に行こうと約束している。

 改札を抜けると、母は、『アルプス口』と看板が出ている出口に向かい進んでいった。僕はバックパックを背負い、勉強道具も入れているため重くなっているが、それのベルトを両手で握り、連絡通路から階段を下りだした。

 下りきってみて、駅西へ出てみると、辺りが暗いことに驚いた。

「何もないの……」

 思わず呟いてしまった。何もないというのは、主立った店が見えないということだ。駅前は繁華街だと決めつけているので、うらぶれていると感じられるのだ。

「東口の方は賑わっているけどね」

 母は、何かを探すように辺りに視線を走らせながら、説明した。

 ロータリーの周りには低い屋根の家しかなく、頭上を覆う暗さと併せて、寒さが急に迫ってくる。

 母も、寒さのため身を引き締め、街路灯で所々照らされている駐車場の方を、注意深く見つめている。

「サキちゃん……」

 囁き声がこちらに流れてきた。声がした方へ顔を向けようとしたら、

「おっちゃん……」

 と、母が応えたので、思わず母の顔を見つめてしまった。

 母は顔の表情を崩し、声をかけてきた方へと駆け出していく。

 その仕草に呆気にとられてしまった。しかも、母は、その、『おっちゃん』と呼ばれた男から、『サキちゃん』と呼びかけられたのだ。

「サキちゃん、て……いくつやねん」

 十歩ほど離れたところに、二つある降り口の中央付近に、おっちゃんと呼ばれた男は立っていた。

 背は、ヒールを履いた母と同じくらいに見えたが、ずんぐりした体型で、厚手のブレザーを羽織っているため首がないように見える。丸顔で、おっちゃんというより、おじいちゃんと呼べそうな男だ。しかも、夜なのに、ハンチング帽を斜めに被っている。

 母は男に駆け寄ると、両手を伸ばし、相手の両肩を軽く叩いた。

「元気だった?」

 母の声が聞こえてきた。その言い方は、若い女性の親しみの籠もったもので、僕にとって始めて聴いた声音だ。

「おかげさまで。サキちゃんも元気そうで、嬉しいです」

 低く囁くねぎらいの声で、この人は母のことを大切に思っていたのだと、察しられた。

「教嗣、おいで」

 母は振り返ると、僕を手招きした。

バックパックを背負い直し、二人に近づいていく。

「わたしの、息子、のりつぐ」

 母は、男の顔を見つめ、真顔で紹介した。

「中学生ですか……」

 不思議なことに、男は僕の顔を見ることなく、母に尋ねた。

「そう、四月で、三年生になるの」

 そう説明し、僕に男を紹介した。名前は藤田博ふじたひろしといった。

「いまは、宿舎の管理を任されています」

「そう……」

 母は少しだけ眉間に皺を寄せた。何かが気に障ったのか、藤田の顔を見つめたまま黙ってしまった。

 僕は母の顔を見て、眉間に皺を寄せる仕草がとても美しいと思った。普段、家では、母はほとんど表情を表さないから、新鮮に見えるのだ。

「タクシーで行きますが、よろしいですか」

 自動車免許を持っていないものですからと、藤田は申し訳なさそうに弁解する。

「ぜんぜん」

 そのはじけた言い方も、僕にとっては、始めて聞く母の声であった。

 藤田に促され、タクシーに乗り込む。

「いまはどこにお勤めですか?」

 ロータリーを出て、片側二車線の道路に入ったら、助手席に腰かけている藤田が首を回して、後部座席に座っている母に質問してきた。

「的場の名古屋支店」

「的場に、ですか……」

「所長の紹介で」

「……はい、はい」

 母は、岩村の名前を口にせず所長と呼んだ。色々助けてもらって感謝しているのだが、信用していないことがうかがわれる。だが、藤田は、安心したように何度かうなずいた。

 三人を乗せたタクシーは、町中から田舎道へと入っていく。整備された二車線の道路だが、周りは闇で、思い出したように設置してある街路灯がオレンジ色の柔らかい光を垂らしている。

 いったいどこへ連れて行かれるのかと、不安が頭をもたげげてくる。

「どのくらいかかるのですか?」

 僕は体を乗り出し、藤田に尋ねた。

「あと十五分ほどかかると思います」

 藤田は振り返り、母に答えた。またしても僕の顔を見なかったため、なんとも割り切れない気持ちを抱いてしまった。

「トモヨさんは、いらっしゃるの?」

 暗い外を眺めながら、なんでもなさそうに母は尋ねた。

「お泊まりになっていません。明後日の式典の朝、おみえになると思います」

「でしょうね……」

 母の口調は変化に富んでいる。それは日常では考えられないことだ。

「トモヨって?」

 母は答えないだろうが、藤田なら教えてくれると思い、その名前を口に出した。

「教主様でございます」

 藤田は頭をひとつ下げ、答えた。

 僕の背中に電気が走った。母は教主を「トモヨさん」と呼んだからだ。藤田は、頭を下げながらも、さも当然のような受け答えをした。おまけは自分で、教主を呼び捨てにしてしまった。

「この時期は、家津羅さんのおかげですよ……」

 タクシーの運転手が、バックミラーで母の顔を盗み見しながら、話し始める。

「うちらもそうですが……宿も一杯ですしね、明日以降、土産屋さんも弁当屋さんも賑わいますでしょうし、ありがたいことですね……。大型バスも、百台くらい来るでしょう」

「それは大袈裟でしょう」

 フッと鼻から息を抜き、母が応える。

「盛っちゃいましたね、すいません。でも、小さな町ですから、かやま町は……。これといった産業はないですから……。ほんと、家津羅さんと的場さんのおかげですよ」

 母に話を聞いてもらえたのが嬉しいのだ、というように運転手は何度もうなずいた。

「まとばって……お母さんが勤めている?」

 名古屋にあるのに、なぜなのかと母の顔を窺った。

「あなたが飲んでいる薬を作っている工場があるの」

「同じ町にあるの……」

「前も話したでしょう。的場の社長とアキラさんは、義兄弟なのよ」

 アキラさんと言われて、誰? と思ったが、それは口に出さなかった。すぐに教祖のことだとわかったからだ。母は、以前も、アキラさん、と呼んだことがあることを思い出した。

 母は、二人の教祖を、〃さん〃付けで呼ぶのだと改めて知ったら、スゲー! と、尊敬する気持ちが湧いてきた。

 東海研修所・所長であった父でさえが、教祖のことは、『彰様』、もしくは『教祖様』と呼んでいた。

 なれなれしい言い方を、周りの人が聴くとどう感じるのだろうかと知りたくなり、前を窺ってみた。案の定、タクシーの運転手はお尻をシートにくっつけ直し、姿勢を正した。VIPを乗せていたのだと悟り、緊張したのだろう。

 藤田は姿勢良く腰かけたまま、

「的場製薬の社長も、アキラさんと申します」

 と言った。

「字は違うけどね」

 母が補足した。

「そのアキラさんも、明後日の式典には出席なさるそうです」

「そうなの?」

 母は体を乗り出して、確認した。

「はい」

 かしこまって藤田は肯定した。それで、そのことには何か特別な意味があるのだと、僕は記憶に刻み込んだ。

 と同時に、『三国志』が浮かんできた。『義兄弟』という言葉に触発されたのだ。もっとも、僕の知っている三国志は、コンピューターゲームの『真・三國無双』のことであるが。

 ちなみに、居間にはPS3が置いてあり、真・三國無双をプレイするのだが、一度だけ、深夜トイレに起きたとき、母が暗いなかで、コントローラーをカチャカチャ鳴らしているのを目撃したことがある。そのときはとても不気味に感じてしまい、話しかけることはできなかったのだが……。

 タクシーは国道から右折し、小川を渡り、山の中へと入っていく。

 山道なのだが二車線の道路はきれいに整備されていて、なにより、街路灯が狭い間隔で設置されているため、道路を隙間なく照らしている。国道よりも明るいのだ。

 山の壁面に沿って、うねった道をタクシーは登っていく。

 窓の外に目をやってみると、星が多く瞬いているのに気がついた。夜、星を見上げることは普段ないので、というより、星がほとんど見えないところに住んでいるため、しばらく窓の外を眺めてみる。

 星の一つひとつが目に突き刺さってくるほど澄んで見えることに感動すら覚えていた。

 すると、スウーっと身体がタクシーの窓から出て行って、夜空に浮かんでいるような感覚を覚えた。肉体は後部座席に着座したままなのだが、想像の域を超えて、夜空に漂い周りの景色を眺めているのだ。

 タクシーが大きなカーブを曲がったため、遠心力で身体がドアに押しつけられ、通常の感覚に戻った。 

 今の感覚は何だったのだろうかと戸惑っていると、フロントガラス越しに、とても大きな屋根が、下からの強い照明に照らされて、金色に輝いているのが目に入ってきた。

 切妻様式の先端が、船の帆先ほさきのように反っているのが、異様に映る。

 それはすぐに山の陰に入って見えなくなったが、家津羅会の大神殿だというのが、僕にもわかった。下からの照明は屋根に向かって交差していて、その先端は夜空の天まで届くのではないかと。

 タクシーは最後の大きなカーブを曲がり、広い平らな場所に入っていく。山の中腹に作られた大駐車場である。バスの区切りを示す白い線を何本もまたぎ、駐車場の端にある、校舎のような三階建ての建物の前で停まった。

「呼んでいただければ、いつでも迎えにあがります」

 タクシーの運転手は運転席から降りてきて、名刺を渡しながら深々と頭を下げた。

 僕はタクシーから降りて、整備された土手のような斜面にこしらえられた、三十段ほどの石の階段の前に立った。十人ほど横になって上れそうだと思われる。

 階段の上の両側には、宝生塔ほうしょうとうがあり、天辺と真ん中当たりから紫色の光を放っている。それを過ぎた先に、先ほどチラッと見えた大神殿があるのだとわかる。暗い空に光が漏れているからだ。

 視線を右に流すと、宿舎が建っていて、その奥には真っ黒に縁取りされた深い森が控えていた。

「来てしまった……」

 母は光の塔を見あげ、呟いた。

「絶対に行くことはない」、生前父は宣言していた。東海研修所の大広場で『告白』をうやうやしく掲げた父に、本部には行かないのかと尋ねたことがある。その時父は、「あそこは、伏魔殿だ」と吐き捨てた。

 ふくまでん……? 小学生であった僕にその意味はわからなかったが、いまなら理解することができる。〃魑魅魍魎が跋扈ばっこしている魔殿〃。PS3のホラーアドベンチャーゲームだと、そうなる。

 その場所へ、母と僕は乗り込んで来たのだ。

 高度の高い場所へ来たため、学生服の上に何も羽織っていない僕は、先ほどから震えているのだが、それは寒さだけではないのだ。

「本来なら、上にお泊まりになっていただくところなのですが、報告をしていないので、申し訳ありません」

 藤田が宿舎を示しながら、母に謝った。

「ぜんぜん。そんな気はないし、この子もいるから、気にしないで」

 母はさっさと宿舎へ向かう。

 三階建ての建物は、駐車場側に廊下があるため、廊下を照らす照明がすべて点いていて明るく見える。

 観音開きのガラス戸の前で母は立ち止まった。おもむろに振り返る。大神殿の方を今一度見あげる。

「あの石段を上って、神殿へ行くのでしょう?」

 厳しい表情の母を見て、尋ねた。

「違う。普段は、この建物の裏手から登っていくの」

「え? じゃあ、あの石段は?」

「例祭の時だけ」

「来たことあるの?」

 詳しいだけに、いぶかしんで、僕は確かめた。

「いいえ、一度もありません」

 さっときびすを返すと、ガラス戸が閉まらないように押さえている藤田に頭を下げ、母はロビーへ入っていった。

 たたきで靴を脱ぎ、用意されているスリッパに履き替え、僕はロビーへ上がった。

左手に管理室があり、正面に、階上と地下へ至る階段が見える。

「こんばんは、よく来て下さいました」

 母がロビーへ上がると、右側の廊下から、白い作務衣を着た初老の婦人と、割烹着を身につけた中年の婦人が現れた。

「おせわになります」

 少し驚いたようだが、母は丁寧に挨拶を返した。

羽根敦子はねあつこさんと砂畑則子すなはたのりこさんです」

 藤田は母に二人を紹介した。だが、母のことは、二人に紹介しなかった。

「教嗣さん、ですか?」

 割烹着の婦人が僕を指し、母に問いかけた。痩せて眼鏡をかけている婦人だ。

「ええ、不肖の息子です」

 母だけでなく、僕のことも知られているなんてと驚いてしまった。また、母の僕を紹介する言葉も。

「そうですか……大きくなられて……」

 羽根敦子と紹介された中年の婦人は、まぶしいものを見るように、眼鏡の中の細い目をなお細くして、僕を見つめている。

「私は、北陸研修所を任されています」

 小柄な砂畑は胸を張って母に自己紹介し、「東海研修所は、なかなか活動が盛んなのですものね」と羨ましそうな顔をした。

 母は薄い微笑みを返した。

「お部屋に浴衣が用意してありますから、よろしかったらお使いください」

 羽根が母に説明する。

 軽く頭を下げ、二人の婦人は戻っていく。

 二人に悟られないよう、母は、フーと長く息をついた。

「誰にも話していなかったのですが……」

 藤田はハンチング帽を脱ぎ、薄い髪を撫でながら弁解した。

「行きましょう」

 振り切るように、母は階段へと向かう。

 二人の婦人が去った方向から、賑やかな声が漏れてくる。長い廊下の先に、広い部屋がいくつかあるようで、若い人たちが大勢いるようだ。

 母と僕は藤田に促され階段を上っていく。二階には、同じような部屋が幾つも並んでいて、家族、もしくは個人が宿泊する階になっているのだと、説明を受けた。

「私は管理室にいますので。遠慮なく声をかけてください」

 母に部屋の鍵を渡し、藤田は階下へ降りていった。

 鉄製のドアを開けると、部屋は十二畳の和室になっているのがわかった。大きめの窓には厚手のカーテンが引かれている。小さな床の間があり、僕を驚かせたのは、教祖の大きな写真が掲げられていたことだ。

 スリッパを脱ぎ畳に上がり、その写真と対峙たいじしてみた。研修所にも飾ってあったが、それは小さな写真であり、昔見ただけなので、ほとんど忘れていた。

 『鳴沢彰なるさわあきら』、四角くいかつい顔をしている。髪はスポーツ刈りにしていて、彫りの深い意志の強そうな顔であるが、余裕の笑みを浮かべている。なにより目立つのは、少し奥に入った両目である。カッ! と、見開き、写真であるのにもかかわらず、見る者をひるませる力が籠っている。

 圧倒されてしまい、直に会わなくて良かったと、僕は胸をなで下ろした。

「会ったことある?」

 答えは知っているが、確認したかった。

「もちろん。私は彰さんの下で、働いていたの」

「家津羅会を創った人なのでしょう」

 母は少し考える。

「そうとも言えるし、そうでないとも言えるけどね……」

「どういうこと?」

「彰さんは……柱」

 そう言い、母は自分の言葉に納得したようにうなずく。

「はしら?」

「傍にいる人たちが、周りを作っていったのよ」

 なんとなくわかるような気がした。

「どんな人だった?」

 幼稚な質問かと思ったが、口に出してみた。

「明るくて、陽気で、声がでかい。地声が大きいうえに良く響くから、どこにいても聞こえてくるの。それと……周りにいると、みんなが楽しくなる、なった、ね」

 僕は母の表情を読み取ろうとした。期待に反して、というか、いつものように母は無表情であるが。

「目がね……」

「目?」

「目が、凄いというか……見つめられると……ふっと自分を忘れてしまうような強さがあった……」

「好きだった?」

「……え」

 思い切って質問した。

「彰さんのこと」

 フッ、と、母は笑う。

「感情なんてない。それに……」

「なに?」

「太陽だから。好きになると、燃えちゃうでしょう」

 そう言い切り、母はバックから着替えなどを出し始める。着替えるのだと思い、なぜだか遠慮する気が起き、部屋から出た。


「彰様は、とても大きな人なのだ……」

 父、敬太の言葉だ。研修所の祭壇を背にして正座して、同じく正座している僕に相対していた。

「あまりに大きな人だから、誰もがその一部しか見ることができない」

 東海研修所の畳敷きの大広間には、二人しかいなかった。

「ある人は、楽しい人だと言い、ある人は、面白い人だと言い、ある人は、怖い人だと言い、ある人は冷たい人だと言う。こういう人だと捉えることができない」

 僕にとっては、父もそういう人だった。

「〃光〃を、見たのだ」

 教祖にはその文句がついている。

「〃光りの世界〃なのかもしれないが……間違いなく、光を見たのだよ」

「父さんは見たことある?」

 幼い僕にとっては、父は教祖より大きな人物であってほしかった。

「見たことがない。たぶん、見ることはできない」

 答えが残念であった。

 父は、小さな朱色の冊子を祭壇の上から取り上げ、一礼した。僕に向き直り、開いた。

 『眞・しんしん』である。家津羅会の教義が記してある。教祖・彰が語った言葉が纏(まと)めてある。 父は読み始める。


「   すべては空である。

    すなわち、生まれることも滅びることもなく、

    きれいになることもよごれることもない。   」


 父の読む言葉は、広い部屋に朗々と響き、僕はいつも聴いているたびに眠くなってしまった。


「  我々の中に魂があるのではなく、魂の中に我々が在る。

   つまり、魂こそ宇宙そのもの。大いなる神である。


   宇宙は、存在しようとして存在するのではない。

   無意識という意識で宇宙は存在している。


   人は自己という意識が消滅すれば無意識の存在となる。

   存在するという意識を持たない存在。


   しかしそれは決して無ではない。それが空である。

   すべての始まりが、空の空。

   それこそが神であり魂である。   」


 未だに何のことかさっぱりわからない。たぶん、父も理解していなかったと思っている。ただ、〃眠くなる言葉〃、としてしか捉えていない。

「彰様はこうもおっしゃっていた。私の教えは、『哲学』だと。『復活の哲学』だと」

 道理で眠くなるはずだ。

 そして父は、厳粛な面持ちで冊子を閉じた。


 廊下の窓から外を眺めやると、何本もの水銀灯に照らされた駐車場が浮かび上がっている。明後日には、バスや乗用車がここを埋めてしまうのだ。

おがむ対象を必要としないのは、『救い』はその人の中にあるからだ、と彰様はおっしゃった」

 駐車場をぼんやりと眺めながら、またもや父のことを思い出していた。父の言葉だが、その父の言葉は彰の言葉であることを、僕は知っている。

「大切なのは心の平安。教義はそのための方便にすぎない。だから、掌充てあてであろうが、念仏であろうが、踊りであろうが、いっこうにかまわない。……わかるか、のりつぐ。なんと懐の深い宗教なのだ」

 父は熱く語っていたが、家の中では、いつも冷たい感じだった。だから僕は、父と研修所にいるときが好きだった。

 その父が、三年前の七月、雨の降る朝、研修所から出たときダンプに轢かれた。

 その前の晩、めずらしく父と母はケンカをした。というか、初めて、父と母が言い争うのを聞いた。

 僕は布団に入って寝ていた。すると、廊下を挟んだ父の部屋から、二人が声高に話しているのが聞こえてきた。何についてかわからないが、激しく言い争っているのだ。

 僕は飛び起きた。父が怒鳴っているし、母が泣いている。初めて、二人の感情的な声を聞いてしまったのだ。内容はまったくわからなかったが、父が何かを必死に訴えているのだけはわかった。それに対して拒否をしている母のようだった。

 僕は怖くなり、自分が壊れてしまうように感じ、布団を被り、耳を塞いだ。何が起こっているのか、どうなってしまうのかとても不安であったが、恐怖が先に立ち、布団の中で丸くなっていた。

 ふと気がつくと、隣の布団で母が寝ていた。静かに寝息を立てていたが、頬には涙の跡が残っていた。

 僕はそっと布団から起きあがり、気づかれないよう戸を開け、廊下に立った。息を殺し、父の部屋の様子を探ろうと聞き耳を立ててみた。

 何の気配も感じられないので、そっと父の部屋の戸を開けてみた。父はいなかった。乱れたままの布団が敷いてあるだけだった。

 僕は悟った。父は家を出て行ったのだと。ただし、行先はわかっていた。研修所にいるはずだと。だから心配はしなかった。

 翌日の朝、研修所へ行こうとした僕を、母が呼び止めた。

「これを、お父さんに渡してほしい」

 母は封筒を僕に手渡そうとした。手紙であることがわかった。怖くなってしまったため、内容を聞かなかった。僕は黙って受け取り、家を出た。

 研修所の引き戸を開け、靴を脱ぎ上がり、大広間の戸を開けた。父は祭壇に向かい正座をしていた。

「教嗣か?」

 振り返ることなく、父は訊いてきた。

「はい」

 緊張してしまい、父が座っているところまで、棒のようになって歩いていった。

「母さんが、これを」

 父の背中に向かい手紙を差し出すと、父は体を反転させ、僕と相対した。僕も正座をして、手紙を手渡そうとした。

 父は手紙を受け取らず、微笑んでみせた。僕にはその笑顔が怖かった。悩んだ末に辿り着いた境地を表しているようで。その決心は〃訣別けつべつ〃を意味しているのだと、理解したからだ。

 父は傍らに置いていた、『眞・心』を取り上げて、開いた。


「  男と女。

   身体のつくりも心のあり方も違う。

   ひとつとなり、喜びが生ずる。

   なぜ、喜びが生ずるか。

   それが〃愛〃だからだ。

   愛はあるものではなく生まれるものだ。形作るものだ。

   人はカタワで生まれてくる。

   愛を通じて、完全になるよう、学ぶわけだ。   」


 そう語り、父は朱色の冊子を閉じた。しばらく顔は伏せたままだった。

「ご飯は食べたか?」

 ようやく顔を上げると、僕を見て、ふたたび頬笑んだ。

 食べたと答えると、「遊びに行ってこい」と、父は言い、祭壇に向き直った。

 僕は立ち上がり、出口へと向かいかけたが、突然、激しく感情が湧き上がり、振り返った。

 悲しくなり、涙が胸の奥からにじみ出てくるようで、一度もしたことがなかったが、父に駆けより、背中を抱きしめたいという衝動に駆られた。離れたくなかったのだ。

 今日で、この朝で、家族が終わってしまうのだと予感され、父と離ればなれになってしまうのだと思われ、悲しくてしょうがなかった。

「お父さん!」

 できれば叫びたかった。僕は拳を握り、その衝動に震えながら耐えていた。

 父はため息を一つつき、封書から手紙をつまみ出した。そして、便箋を開いた。

 ビクッと背中が震えたのが認められた。勢い振り返った。僕の顔を見て驚いていた。

「どうしたの?」

「……いたのか?」

 ほうけたように僕の顔を見つめていた父の顔が、だんだん笑顔に変わっていくのがわかった。そのため、沸き立っていた感情が徐々に静まっていった。

 父は唐突に笑い出した。手紙をヒラヒラさせ、

「こっちへこい」と、手招いた。

 僕は父へ駆け寄り、畳の上に置かれた手紙を見た。

 小さな便箋に、短い文がつづられていた。


      『えにしを繋ぐ』


「えん……を……?」

 それだけしか読めなかった。

「えにし、とよぶ。えにしをつなぐ」

「えにし……どういう意味?」

「意味か……?」

 父は両腕を組み、しばらく悩んでいた。それでも、機嫌が良いのはよくわかった。

「そうだ」

 父はふたたび、『眞・心』を紐解(ひもと)いた。


「   なぜに人は生きるか。

    それは、縁をむすぶ。

    縁を築く。

    そのために人は生きているのだ。    」


「教祖様はそうおっしゃった。ということは、縁が理解できれば、人生の意義も理解できる、ということだ……ね」

 最後は自分の言い方が可笑しかったのか、笑い出した。その声を聞き、僕も嬉しくなった。

「意味はわかるよな。えんのことだから、人と人との関わりのことだよ。頭ではわかるのだけど、ここでわかっていないということなのだ」

 父は自分の胸を指した。

「教祖様は、事あるごとに、えにし、とおっしゃっていた。そうだ、お前の名前を考えて下さったのも、教祖様なのだぞ」

 僕は驚いた。そして、凄いことだと思った。

「のりつぐ、教えを承けつぐ、という意味だ。これこそ、縁、だよな」

 だけれど、僕にしてみると、なぜ父と母が自分の名前を考えてくれなかったのかと、不満でもあったのだが……。

「よし、家に帰るぞ。一緒に帰るか」

 父はそう言い、僕を伴って、大広間を出た。

 僕は嬉しくてたまらなくなっていた。それで、玄関から飛び出した。

 門をすぎ道路へ出て、父が来るのを待った。父は笑顔で玄関から出てきて、僕に手を差し伸べた。手を繋ぐため。

 と、その時、ガシャン! ガシャン! と、大きな音を轟かせながら、何かが近づいてくるのが聞えた。反射的に、音の方へ振り向いた。

 ダンプが目の前に迫っているのに気がついた。僕は恐怖に総毛立ち、凍りついてしまった。

 とたん、体当たりを受け飛ばされた。僕の瞳に、父が必死の形相で自分を見つめている姿が焼き着いた。

 瞬間、父の姿は暴走してきたダンプが消し去った。何かが潰れる音がして、ダンプのブレーキの音が悲鳴を発したように響き渡った。

 ガクン! ガクン! と、鉄のかたまりがのたうつ音が断末魔のように咆哮し、辺りは静まった。

 僕の目は、上半身だけになった父の姿を捉えていた。胸から下が引きちぎられていて、ダンプのタイヤからおびただしい血が流れ落ちている。どす黒くなった臓腑が辺りに散らばっていて、ねじれている腸が伸びようとするようにうねっていた。

 運転席が開き、厳つい男が降りてきた。僕を認めると、携帯電話を取り出し、なにやら話しだした。その冷静さが奇妙に映った。

 気がつくと、雨が辺りを濡らし、父の体に降りかかり、血を洗い流していた。

 人が集まってきて、見知らぬ人たちが僕に近づき声をかけてきたが、まったく何を言われているのかわからなかった。

 自分が駆け出して道路に飛び出したために、という想いに、胸が押し潰ぶされそうになっていた。

 婦人警察官がしゃがみ込み、名前を尋ねてきた。顔を向けると、警察官の肩越しに、母が突っ立っているのが見えた。

 僕は立ち上がり、駆け出した。警官が声をかけるのが耳に入った。僕は母に駆けより、胸に飛び込んだ。 

 傘も差さず、雨に濡れている母は、僕を抱きしめた。しかしその腕には力が入っていなく、いまにも倒れてしまいそうに感じられた。

「神様なんて……いない」

 母がそう呟いたのが、僕の心に染みついた。


 葬儀の日、遺族の控え室に入って来た父の母親、中野朝子なかのあさこから、母は罵倒された。

「あなたなんかと一緒にされたため、こんなことに……」

 溢れ出る涙を拭いもせず、僕の祖母は叫んだ。

「されたため……?」

 奇妙に感じつつも、腹立たしくてしょうがなく、僕は祖母を睨んだ。

 母は何も言い返さず、ただ黙って耐えていた。

 ただし、朝子も、夫、繁昭しげあきを二年前に亡くしており、僕の父、敬太が、家津羅会にのめり込んでからは絶縁状態だったため、辛かったのだと、後に知った。

 母はその日から、まったく笑顔を見せることはなくなった。

 葬式が終わり、父の遺骨を持ち葬儀場から出たところで、黒服を着た大きな体が、僕を呼び止めた。携帯の番号を記した紙を渡しながら、

「何か困ったことが起きたら、私を呼んで下さい」、と。


 僕は回想から醒め、涙を拭き、階段を上っていく。

 三階は二階とまったく同じ造りになっていて、部屋が並んでいるだけだった。気分が落ち込んでしょうがないので、何か面白い部屋、レクリエーションルームなどを期待していただけに失望し、一階まで一気に駆け下りていく。

 左へ回ると、ドアが開いていて、覗くと、大きな食堂になっているのがわかった。

 もう少し行ってみると、大部屋の前の廊下に、二十歳前後だと思われる男女数人がたむろしていた。全員、オレンジ色に白のストライプの入ったジャージを着ている。

 そのうちの一人の女性が僕に気がつき、声をかけてきた。

「青年部?」

 髪の長いとても綺麗な人で、僕はドギマギしてしまい、ただ首を振った。目がとても美しいと、飲み込まれてしまいそうに感じられる。

「いま来たの?」

「は、はい……」

 僕は舞い上がってしまい、声が上ずっているのが自分でもわかった。

 そう、と言い、そのきれいな人は連れの女性と顔を見合わせ、うふふ、と笑った。

 とても恥ずかしく、頭をひとつ下げ、部屋へと戻っていった。

 誰なのだろう……? あんなに綺麗な人も来ているのだ、と知れたら、僕の落ち込んでいた気分は、いっぺんに晴れてしまった。

 部屋へ入ると、母はいなかった。僕は学生服を脱ぎ、上下ジャージ姿になり、風呂へ入ろうと、下着とタオルを持ち階下へ降りていった。

階段から顔を出して廊下を覗き、先ほどの人がいないかと期待して見てみたが、誰もいなかった。

 風呂場は地下にあると聞いているので、階下へ降りようとした。手前の管理室から、母の声が漏れてきているのに気がついて立ち止まった。藤田と話をしているようだ。

 とても気になってしまい、廊下を窺い、誰もいないことを再度確認すると、管理室のドアに耳を近づけてみた。

「あのとき……絞め殺していればと、いまでも思います」

 いきなり物騒な話しを聴いてしまい、驚いて耳をドアから離してしまった。そのため、母が何と答えたのかはわからない。

「破門されて当然ですよ。よく決断されたと思います」

 誰のことなのだろうと頭を巡らしてみる。わかるわけはないのだが。

「まだ未練が残っているのですね。色々とたくらんでいるじゃないですか。手下はいますし」

「誰?」

「サワダです」

「ああ……」

 『サワダ』、思い当たらなかったが、その名前だけは覚えておこうと記憶に刻む。

「風呂へ行くの?」

 呼びかけられ、サッとドアから身を離した。見ると、先ほどの女性二人連れが、僕の後ろに立っている。

「は、はい……」

 バツが悪かったが、わざわざタオルを挙げてみせて、答えた。

「ついてきて」

 綺麗な人は階段を下りながら、誘ってくる。

「一緒には入らないけどね」

 と言って、連れの女性と爆笑した。

「いいんじゃない。女の子みたいだし」

 連れの女性が綺麗な人に話しかけた。僕は真っ赤になってしまった。

「ルージュを曳いている?」

 綺麗な人は振り返って、僕に訊いてきた。

 何を言われたのかわからず、思わず立ち止まってしまう。

「ここよ」

 男風呂の入り口を指さし、笑い合いながら、二人の女性は奥へと進んでいった。

 一人残された僕は、言われた意味をようやく理解し、慌てて否定しようとしたが、女風呂へ入ってしまったため姿が見えず、うなだれてしまった。



第三話に続く



        

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2025年12月12日 09:00
2025年12月15日 09:00
2025年12月18日 09:00

犀の角のように   第1部 縁の発動 リレイ飛鳥 @kentaisho

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