犀の角のように   第1部 縁の発動

リレイ飛鳥

第1話 クールビューティー

     第一章・『クールビューティー』


 二〇一〇年三月二十七日。

 PM七時。

 窓の外は真っ暗だった。目を凝らしても何も見えない。時折、外へ漏れている車内の明かりが、線路脇の土手に当たって見られるくらいだ。

 ワイドビュー『しなの21号』

 夕方、名古屋駅を出発した頃は、暮れゆく街が、僕の落ち込みそうになる気分を慰めてくれていた。三日経てば戻ってこられるのだと。

 だが、山間に入り街灯りがなくなると、闇へ向かっているようで、憂鬱さが増してきたのだ。

 携帯音楽プレイヤーに入れてあるエグザイルも聴き厭き、イヤホンを外し、ぼんやりと車内が映っている窓を眺めるだけになっている。

 乗客は、僕と母親を合わせて十人もいない。シーリングライトがガランとした車内をまぶしく浮かびあがらせ、退屈さに輪をかけている。

「DSがあればな……」

 何度目かの呟きを放ってみる。もっとも、『脳トレ』しか入れていないが、こんなときには暇つぶしになるというものだ。

 それなのにと……。

 三日ほど出かけるだけだからDSは必要ないと、母が禁じたのだ。僕にしてみれば、三日も旅に出るのにDSが要らないとは信じられん、と反抗したかったが、一言も口に出さなかった。

「何時に着くの?」

「十九時四十五分」

 出発時も訊いていた。母の美咲みさきは表情を変えることなく、前を見据えて答えた。肩にかかる髪は、緩くウエーブを掛けてあるのだが、まったく揺れることはない。

「松本ですか……」

 通路を挟んだ隣の席に、スゥーツ姿のどこかのオヤジがだらしなく腰かけている。先ほどから、チラチラと母を盗み見しているのだ。話しかけるキッカケを探っているのだと、僕にはわかっている。

 そのオヤジ、最初に腰かけていた席は違っていた。それなのに、母を認めると移動してきたのだ、指定席なのに。

 母は姿勢よく腰かけて毅然としている。グレーのスゥーツで身を引き締めているが、胸の辺りが大きく膨らんでいて、白シャツのボタンが今にも弾けそうに見える。オヤジは母の顔と胸とを交互に見ている。乳房の大きさを測っているのだろう。

 ふと、オヤジと目が合った。オヤジは慌てて目をそらした。みっともないものだと思う。痛い目にあった中年の男もいるというのに……。

 退屈なうえに、詰め襟の学生服が窮屈で、しばしの躊躇ためらいいの後、脱ごうと決めた。

「いい?」

「なにを?」

 顔を向けることなく、母は訊いてきた。

「脱いでも」

「……のりつぐ」

 母は返事の代わりに僕の名前を呼んだ。おもむろに顔を向ける。思わず僕は背中を窓側に退いてしまった。

 大きな瞳が僕を捉えたからだ。自分の母親ながら、とても美しいと思う。ただし怖いのだけれど。

 『クールビューティー』と、どこで覚えてきたのか、友達の木村正之輔きむらしょうのすけは母のことを名付けた。

 友達が遊びに来ても、母は笑顔を見せたことがない。怒っているわけではないのだけれど、まったく愛想がないのだ。そのため、最近は友達も遊びに来なくなっている。

 メール友達の牟坂麻衣むさかまいも、母のことを美しいけれど蔭のある人だと、メールで送ってきた。スピリチュアル的には魔女ソーサラーの性質があるそうだとも記してあった。

 僕に言わせると、麻衣の方がよっぽど魔女っぽいと思っている。小柄でかわいらしく、斜めになって笑う仕草が自分的にはツボにはまっている。もっとも、陸上部の走り幅跳びの選手なのだが……。

 ちなみに、母の母である平内頼子ひらうちよりこが授業参観に来たとき、友達の竹林一輝たけばやしかずきは、「ハーフなの?」と、訊いてきた。僕の母方の祖母であるのだが、大柄で彫りの深い顔立ちをしていて、髪の毛もブラウンである。

 ある時、母に尋ねてみた。「おばあちゃんって、ハーフ?」、すると母は「そうだ」とうなずき、「長野と新潟の」と答えた。

 すぐにはわからなかった、母が冗談を言ったのだと。普段は軽口を叩かないだけに嬉しくなり、「髪の毛もブラウンだよね」と続けた。それに対しては、「染めているのでしょう」と、にべもなかったが。

 ついでに記すと、祖母の頼子は僕のことをとても可愛がってくれていて、携帯音楽プレイヤーも彼女からのプレゼントなのだ。

 何もすることがないので、学校のことを考えてみる。四月になると中学三年生である。担任の冨田とみたからは、真面目に勉強しないと高校に入れないぞと、脅されている。

 友達の竹林も、冨田が担任のままなのは「サイアク」だと嘆いている。若いだけにすぐ感情的になるし、受験に響きそうだと心配している。頭のいい奴だけに深刻なのだ。

 ふざけているわけではないのに、冨田が自分にきつく当たるには理由があるのだと、僕にはわかっている。

 夏休み前の家庭訪問で、冨田は始めて母の美咲を見て、のぼせ上がってしまった。うろたえてもいた。それを目撃されてバツが悪いのだ。もっとも、親身になってくれているともいえるのだが、僕にしてみれば、鬱陶しいだけだ。

 その点、いつもテンションの高い正之輔は、冨田が担任でもかまわないと言っている。

 ショウノスケは面白い奴で、僕が、三日ほど『家津羅会かつらかい』へ行くので遊べないと言ったら、「みんな禿げているのかい?」と訊いてきた。「なんで?」と尋ねると、「カツラかい!」と、ツッコミを入れてきた。タケは爆笑したが、僕は引きつった笑いしか返せなかった。さすがに茶化す気にはなれなかったからだ。

 家津羅会の名古屋研修所で、亡くなった父・中野敬太なかのけいたが白い作務衣を着て正座をして、祈っている姿が浮かんできた。その清々しさがとても懐かしいのだ。ただし、祭壇の上に掲げられた絵が不気味で、僕は直視できずにいた。


その絵は、人の姿をデフォルメして、線だけで描かれている。


頭の部分に○がしてあり、その中に『てん』と印されている。

胸の部分に△がしてあり、その中に『』と印されている。

下腹部に、□がしてあり、その中に『』と印されている。


 絵の横に、屏風が掛けてある。


   『しん』・『ぜん』・『』、と太い字で墨書きしてある。


 僕は夢の中で、その絵に追いかけられたこともある。

 何度父に質問しても、理解できなかった。

 ある時、『真』・『善』・『美』、を、「正しい行い」・「良い行い」・「美しい行い」に替えてもいいよと、父が解説してくれたことがあった。

 それを実践すれば、人は〃幸福〃になれるのだと。そのあと、教祖様がそうおっしゃったのだと、付け加えていたが……。

 その研修所にも三年行っていない。父が暴走してきたダンプに轢(ひ)かれ亡くなってから、母は教団と距離を置くようになっていた。のだが……。

 

 背中の辺りが汗ばんでいるため、背凭れから上体を浮かし、詰め襟から風を入れながら、それにしてもと考えてみる。

 暴走してきたダンプの運転手は居眠りしていたと供述したのだが、僕は見ていた。運転手がしっかり目を開けていたのを。だが、それを思い描くと、胸から下が潰されて、臓腑はらわたをアスファルトにぶちまけている父の姿が浮かんできてしまうため、やめた。

 ふと、麻衣にメールを出すことを忘れていたのを思い出した。

「いつ帰るのだった?」

「三十日」

 能面のようになっている顔を、母の美咲は少しだけ向けた。

 指折数えてみる。すぐに、その仕草が子供っぽいと、白けてしまった。

 三日も友達に会えないわけだ。しかも、その間、麻衣とはメールができないし、どうして自分も行かなければならないのかと、母に質問したかった。もちろん睨まれるから訊けないのだけれど。

「三日間の『祭り』」と、母は説明した。

「どういう祭り?」と、多少興奮気味に質問したのだが、「教祖が亡くなって七年目の祭り」とだけ答え、母は沈黙した。

 人が死んでなぜ祭りなのか、僕には理解できない。なおかつ、不気味なものを感じてしまい、それも憂鬱の原因になっている。

 父が亡くなって三年間、まったく教団とは関わりがなくなっている。たまに、名古屋研修所・所長になった、岩村智也いわむらともやとは顔を合わせることがあるが、それ以外はまったく関係なくなっている。

 この岩村という人に、母は助けられたことがある。

 スゥーツの上からも鍛えられた肉体であることがわかり、角刈りにしていて、頬に傷跡があり、目も鋭いため、誰がどうみても、『そのスジの人』に見える。ショウノスケは岩村のことを、『排他的水域』と呼んでいる。彼独特の表現であるため意味はわからない。

 岩村は、僕と母が住んでいるマンションの部屋の真下の部屋に住んでいる。九年前、結婚したのを契機に引っ越してきた。

 時々、岩村の娘、窓華まどかが部屋に遊びに来る。小学三年生の女子だが、僕のことを、「おにいちゃん」と呼んで、懐いているためだ。それでも、母の美咲は笑顔を見せない。一つには、岩村の妻、沙也華さやかが、母のことを快く思っていないからなのだが。

 ついでに記すと、僕たちの住んでいる部屋は、四階建てマンションの三階中央付近にあり、2DKの間取りである。八畳の和室を母が使い、僕は六畳の部屋に勉強机とベッドを入れている。

 居間兼食堂に固定電話が置いてあり、一ヶ月ほど前、一本の電話がかかってきた。

 電話に出た僕に、「君は……美咲さんの息子か?」と、シブイ声が尋ねてきた。「そうです」と答えた僕に、「歳は?」と、続けて質問してきた。ぶしつけな質問にムッとしてしまったので、それには答えず、「どなたですか?」と尋ねた。

 沈黙した男は、少し間を置き、「美咲さんに代わってくれ」と指示した。それも癇に障ったので、「どなたですか?」と、もう一度尋ねた。

 ふたたび黙ってしまったので、受話器を置きかけたら、「……オオイ」と、聞き取れるギリギリの声で答えられた。

 僕は、洗い物をしていた母に、「オオイという人から電話」と、伝えた。

 その時の反応は、まるでドラマのように見えた。母は、洗っていた大皿を落としたのだ、シンクの中に。

 ガシャン! と鋭い音が鳴った。しばし母は割れたお皿を見つめていた。僕に返事をすることもなく顔も上げなかったが、動揺しているのが伝わってきて、こちらも不安に駆られてしまった。

 母はサッと濡れている手を拭いて、受話器を受け取り、小さな声で、「はい」と答えた。それから、返事もしないで相手の話を聞いていたのだが、ただ一言、「ひなの?」とだけ返した。

 僕はテーブルに腰かけて、母の背中を見つめていた。耳をそばだてていたが、聞こえてきたのはその一言だけだった。

 電話を切った母は、エプロンのポケットから携帯を取りだし、ドアを開け出ていった。自分の部屋で話すのだろうと察した。

 好奇心を抑えられない僕は、「トイレ、トイレ」と、口に出して廊下に出て、母の部屋の前に立った。ボソボソと話しているのが聞こえてくる。内容はわからなかったが、一言、「オッチャンだけが頼り」と、強めに放った言葉が耳に届いた。

 僕は驚愕してしまった。母の甘えたような言い方に。生まれてこの方、母が誰かに甘えたような仕草を見たことがない。夫にさえ常に無表情で受け答えをしていた。

 その母が、「オッチャンだけが頼り」と言ったのだ。これは聞き間違えたのかもしれないと思ったが、それだけ、先程かかってきた電話がショッキングだったのだと、理解された。

 ついでに記すと、僕の家族はとても他人行儀な関係であった。父と母はお互いに、「美咲さん」「敬太さん」と呼んでいたし、母は父に対して笑顔を見せなかった。寝室も、父は一人で寝て、僕は母と一緒に寝ていた、父が亡くなるまで。

 ショウノスケの家に遊びに行ったとき、兄弟も多いが、狭い茶の間にショウノスケの家族が集まり、みんながてんでバラバラに大声で喋っているのに、面食らったことがあった。

 ショウノスケの母も、僕にタメ口で、「彼女はおらんのか!」と、大声で訊いてきた。そしてすぐに、ガハハハと笑った。僕にしてみると、なんでこんなにテンションが高いのか不思議でしょうがなかった。この家族はちょっと変なのじゃないかとさえ疑ってしまったが、うらやましくもあった。

 退屈しのぎに色々なことを考えているうちに、気持ちが高ぶってしまい、これはヤバイと感じた瞬間、咳が連続でほとばしった。

 僕は時々咳の発作に襲われる。『喘息息ぜんそくいき』だと診断されている。

「薬は飲んできた?」

 表情を変えることなく母が尋ねてくる。僕の顔を見ることはない。

「慌てていたから、飲まなかった」

「今、飲んでおきなさい」

 僕は棚に上げたバックパックから粉末が入った袋を取り出し、ペットボトルの水を口に含み、薬を飲み込んだ。

 『鎮咳粉ちんがいこ』という『的場製薬まとばせいやく』の咳止め薬である。四年前から飲むようになった。

 空咳からせきの発作に襲われ医者に行ったが、喘息ではないのでと、薬は処方されなかった。 父は心配し、教団の相談役である、的場製薬の社長、的場章まとばあきらに相談し、薬を直に送ってもらった。大きな箱いっぱいに入った千包にも及ぶ薬を。

 僕は時々その薬を飲む。どこかへ出かける際、体調の優れないときなど、朝に飲むようにしている。

 飲むと、すぐに気管がスウッとしてきて、息がしやすくなる。次に、鼻から額の奥にかけて、冷気が通じていく感覚が起きる。そのときなぜだか、毎回、頭が膨らんでいくような気になる。それはけっして不快ではなく、むしろ楽しくなっていくような感じなのだ。

 一つだけ問題なのは、咳の最中に飲む場合、薬が粉だけに口に入れた途端吹き出してしまうことがある。笑ってしまい、よけい苦しくなるのだが……。

「大丈夫ですか、息子さん?」

 ついに、隣のオヤジが口をきいてきた。話すキッカケを得たのだ。

「はい。おかげさまで」

 母は丁寧に答えた。男に顔を向けて。僕はチラッと男の顔を見た。赤ら顔で目尻が下がっている。

「どちらへ、出張ですか?」

 上がってしまったのか、オヤジは間抜けな質問をした。子供を連れての出張もないだろうにと。

「はい。かやま町へいきます」

「松本でなくって?」

「はい。家津羅会の教祖様が天へかえられまして七年が経ちました。家津羅会の太陽殿たいようでん聖天祭しょうてんさいが執り行われますので、それに出席いたします。私は教祖、あきら様にお仕えしていた者ですから」

 今まで聞いたことがない、涼しげな声で母は澱みなく答えた。

「あ、あ、そうですか……」

 男はそう答え、向こうを向いてしまった。たぶん、不気味に感じたのだ。関わるべきではないと判断したのかもしれない。

「あれっ……違う席だったのかな……」

 間抜けついでに男はそう呟くと、席を立って行ってしまった。

 母の美しさには、中年男が冷静さを失ってしまうあやしさがあるのではと、同情気味に分析する。

 すると、二年前の六月の夜が蘇ってくる。胸の底からどす黒い憤りが、鼻血の匂いを伴って湧き上がってくる。

 母が勤めていた会社の上司が、厚かましい顔をした、ポマードで撫でつけた髪の毛をテカテカ光らせている中年男が、夜の十時頃に尋ねてきた。

 酒を飲んでいたのはあきらかで、玄関のドアを開けたとき、酒の匂いがプーンと鼻先まで漂ってきた。

「明日の会議に必要な資料を渡すのを忘れていてね」と、男は言い訳をした。緊急なのだと。

 僕は母を呼びにいった。すぐに、自分の部屋に入った。

 しばらく玄関で押し問答しているのが聞こえていた。早く帰ってくれればいいのにと、ドキドキしながら窺(うかが)っていた。しばらくの後、ドン! と、床に倒れる音が響き、「やめて!」と、母の短い叫びが聞こえてきた。

 僕は部屋を飛び出した。玄関の廊下で、母が男に押し倒されていた。必死に起きあがろうと抵抗しているが、男は母の両手を押さえ、シャツを引き裂こうとしていた。ボタンが飛び跳ね、ブラジャーが外されそうになっていた。

 僕は、「やめてください!」と叫んで、男に飛びかかり、背中を退かせようとした。力のある男は僕を片手で突っぱねた。

 僕の体は飛ばされ、壁に頭を打ち、軽い脳しんとうを起こし、呆然と眺めているだけになってしまった。

 やめて! と叫びながら必死に男を押しやろうとしている母だが、力が及ばす、シャツが剥がされ肩が丸出しになってしまっていた。乳房も片方がさらけ出されている。男はその乳房を掴み、片手で自分のズボンのベルトを外そうとしていた。

 呆然と眺めている僕の頭に、父がダンプに轢かれ半身だけになり、道路にさらしものになっている場面が飛来した。それに被さるように、葬儀場から外へ出た僕に、スッと近寄り、「何かあったら私に連絡しなさい」と囁いた声が蘇った。

 跳ね起きた僕は居間に駆け込み、受話器を取った。記憶している番号を押した。

「母を、母を助けてください!」と必死に訴えた。

 後日、それを思い出すと不思議なのだが、受話器を置いたとたん、玄関のドアが、バッ! と開いた。

 玄関を覆いつくす大柄な男がおもむろに入ってきた。太い腕を伸ばし、母に跨っている男の襟首を掴み、引き剥がした。

 大きな男は、まるで猫を運ぶかのように、母を襲った男を吊り下げたまま、玄関から出て行った。

 玄関のドアが、バタン! と閉まった。「な、なにをする!」「助けて!」「離してくれぇぇぇぇ」と、男の怯えた声が小さくなっていった。

 母は起きあがり、肩で息をしながら、玄関に鍵を掛けにいった。さっと振り返り、僕を見つめた。

 髪の毛は乱れ、口から少し血を垂らし、肩口の破れたシャツから、ブラジャーの紐が外れて、片方の乳房をさらけ出していた。それを隠そうともせず、僕を睨んだまま、「あなたが呼んだのか?」とだけ訊いてきた。「大丈夫?」と尋ねようとした僕は息を飲まれてしまって、小さくうなずくしかできなかった。

 母は、「そう」とだけ言って、シャツを引き上げ、部屋へと入ってしまった。少しすると、室内から、すすり泣く声が聞こえてきた。

 僕は心臓の鼓動が喉からあふれ出そうで、堪えきれず廊下にへたり込んでしまった。あとは、空咳の発作に襲われなければいいのだがと、不安と闘っていた。

 母の上司であった男がその後どうなったかは知らない。〃埋められた〃、などということはないだろうが、母は会社を辞めたため、どうなったのか知りようがなかった。

 翌日、学校からの帰り道、僕は三年ぶりに『東海研修所』へ行ってみた。父が亡くなってからは一度も訪れたことのない施設だ。元は公民館だったのを借り受けした、木造平屋の建物だ。

 建物の前の道で、父はダンプに轢かれた。おそれていたのだが、実際来てみると、胸裏にその場面が迫ってくることはなかったし、辛くもなかった。ただし、お礼を言うために尋ねてきたのだが、研修所へは入られなかった。

 この施設は、父の面影とともにあまりに想い出が多すぎて、石の門を過ぎ、両開きの引き戸の前で踏み段石に両足を載せたら、動けなくなってしまった。

 背中を軽く叩かれた。振り返ると、白い上下の作務衣を纏った大きな身体が覆い被さっていた。

「あ、あの……」

 僕は圧倒されてしまい、挨拶ができなかった。

「入られますか?」

 体躯に似合わず、岩村は丁寧に勧めてきた。

「いや……その……昨日は……」

「窓華が、会いたがっていまして、ぜひ、遊びに来て下さい」

 僕の感謝の言葉に被せ、岩村は娘の話をし始めた。

「なかなかお邪魔できないようで……なんせ、娘の頼みなものでして……」

 強面こわおもての男から恐縮そうに頼まれて、僕は当惑してしまった。

「あ、はい……」

 結局、お礼を述べることもできず、頭を何度も下げて、その場を去った。

 色々な想いで頭の中が一杯になってしまったからか、門を出て道路を歩き出したら、フワッと体が浮き上がるような感覚を覚えた。足が軽くなり地上を離れ、頭から空へ引き上げられるように感じられたのだ。

 周りの景色が遠のいていく気配があり、それでも自分はしっかりと歩いていて、そのことが不思議でしょうがなかった。

 それを思い出し、その感覚は、陸上のトラックを走っている際に起きた、〃あれ〃と同じだと気がついた。

 陸上部の二百メートル走者である自分が、夏の地区大会の予選で走っていた際に起きた感覚だと……。


 おなじみのJRのメロディーが車内に流れだした。

「まもなく~松本~、お降りの方は~」

 僕は物思いから醒めた。車窓に目をやると、暗闇にいくつもの町の灯りがまたたいていているのに気がついた。到着したのだ、街に。

 外を眺めていた両目の焦点が窓に移る。母が真剣な眼差しで外を眺めているのが映っている。

 振り返らず、母の表情を探ってみる。顎を引き、目を少しだけ細め、唇が引き結ばれている。何かの決意を胸に秘めて街の灯りを見つめているのだと、察せられた。


                                   

                                    第2話に続く




        

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る