第4話 辻画伯夫人キャサリン、催眠術で洗脳される

 そんなこんなでちょうど10時になった時、本当に計ったような1時間遅れで、これまた劇団員の鰐口監督役の役者が、本物の人気女優の山花千鶴をお供に悠然と現れた。


 [第3話から続く]




 監督は還暦を何年か前に過ぎたといわれているが、夜でもサングラスを掛けっぱなしにした傍若無人な振る舞いと、古着のようなラフなポロシャツ姿はとてもそんな風には見えない。


 強いて挙げれば皺を刻んだ渋みのある顔と、伸びるに任せた長髪に混ざる白髪の数がわずかにそれらしい年齢を感じさせるが、それにしても50歳半ばといった風情である。


 監督は辻のように遅れて済まなかったなどとはひと言も言わなかった。


 まるで自分の撮影現場で、全ての準備が整ったあと、カチンコの拍子木が鳴り、〈アクション〉コールをするために登場したといった観さえあった。


 それでいて若造の作曲家なんぞには皮肉のひと言さえ言わせない威厳を感じさせ、芦沢は劇団員たちのその演技に満足していた。


 辻はもちろんこの監督とは初めて会うのであって、この男が劇団員であることを知るよしもなく、皇帝とか巨匠とあがめたてまつられている鰐口監督の凄さとオーラに、ただただ圧倒されるばかりだった。


 あのサングラスの奥の目でドヤしつけられればどんな大物俳優だってビビってしまうだろうし、あしを開けと命令されて抵抗出来る女優など誰1人いないに違いないと思われた。


 その皇帝が辻にだけはおもねるように挨拶したのに、辻はまた面食らった。


 芦沢と作曲家と野球選手にはそれぞれ〈クン〉付けで呼んだのに、辻にだけは〈初めまして、辻サン〉と言ったのだ。


 辻に較べれば監督の方が貫禄も役者も何枚も上に見えるのだが、監督からしてみれば世間様から芸術家と格付けされている辻に対して自分はどんなに頑張っても大衆娯楽の供給源に過ぎないというコンプレックスがあり、その引け目を料理のソースのように自己紹介に絡めた、それはそれで見事な遣り取りだった。


 こんな台詞回しも芦沢の得意としているものである。


 監督の辻へのおもねりを空気で察したお供の女優山花千鶴が、〈いつ誘って下さってもいいわよ〉と抜け目なく追従したので、辻はいっぺんにヤニさがって、キャサリンにまたまたお尻を強く抓られた。


 こちらは本物の女優さんである。


 これが初対面の男を虜にするコツなのだろうが、まだ二十歳はたちそこそこであるにもかかわらず、千鶴は鰐口監督の酒を女房気取りで作りながらもその潤んだ目で恋人を見るように、辻をじっと見つめていた。


 それからやっと催眠術師の出番がやってきた。


 彼はまずみんなに指の運動をさせたが、これは催眠術にかかりやすい人とそうでない人を見分ける運動で、すでにここから催眠術は始まっていて、これから先の場面はお定まりの描写で退屈なので省く。


 ・・・・・


 ・・・・・


 トップバッターには銀座のクラブホステスが選ばれた。


 選ばれたというよりも、芦沢の演出通り皆が尻込みして顔を見合わせたあと、席の低そうなホステス嬢に視線を集めただけである。


 で、省略。


 ・・・・・


 催眠術師はホステス嬢が催眠状態に入ったのを確認すると、彼女の過去をたずねていった。


 6年前大学を卒業したことで、年齢が明らかになった。


 「大卒のホステスさんなのね。でも年齢よりも若作りね」


 作曲家と同伴してきた歌姫がわざとらしく驚いてみせた。


 そうは言ってもまだまだそういう面では純朴な辻とキャサリンと、わざと田舎者を演技している野球選手は、今から何が起こるのかと半信半疑で目を凝らして見つめていたが、世慣れした皇帝と作曲家と女連中は懐疑的というよりも、はっきりと冷笑を含んだ目でそんな場面の進行を眺めていた。


 こんな目線の対比のさせかたも、芦沢演出の妙である。


 そしてついに催眠術師はホステス嬢の意識を二十数年前の胎児時代に戻すと、その前を辿って前世を呼び出した。


 ホステス嬢の前世はイングランドに広大な領地を有し、エイヴォン河を外堀に構えた城郭も美しい城で、多くの召使いになしずかれて暮らす伯爵夫人だった。


 晩年、夫と共にクィーンエリザベス二世号で世界周遊の旅に出て、香港から横浜へ向かう途次急逝して、日本人に生まれ変わったという。


 ホステス嬢に関してはざっとこんなところだった。


 彼女は催眠術を解かれてからみんなにその事を聞かされて、自分に連綿と続いている魂の不思議さに驚いた演技を完璧にこなした。


 《ヒミコ》


 と、タロケルは美和子のお腹の中のヒミコに話しかけた。


 《これでパパやママもボクたち胎児に記憶というものがあって、親たちのことを全て見ていることに気づくだろうよ》


 《そうね。私たちが何も知らないと思ったら、大間違いよね》


 また催眠術が始まったので、タロケルとヒミコは耳を澄ませた。


 2番目に4番バッターがかかって、東北地方の木こりの生まれ変わりであることが判明した。


 それから少し休憩したあと、次に名乗りを上げたのは歌姫と呼ばれている歌手役の女だった。


 何事にも先へ先へと気を回す性格を見事に演技して、この場の序列から自分の番だと判断すると、皆の視線が集まるのを嫌って自らが手を挙げたのである。


 「年齢は21。初体験は16よ」


 と、彼女は先手を打った。


 その顔や言葉の端々には芦沢演出を忠実に守って、ホステスなんかに負けてなるものか、と言わんばかりの対抗心がむき出しに現れていた。


 歌姫もコロっと催眠状態に落ちた。


 彼女の前世は日本の一流商事会社の会長夫人だった。


 催眠術師はそこまでたずねて終わりにすると、彼女を1度現世に引き戻して、再び腕の上げ下げをさせた。


 そして何度目かに彼女の腕を空中で不自然な形で止めると、皆にこう言った。


 「今、本当の催眠状態に入りました」


 「今、入ったって、どういうことですか?」


 歌姫を連れて来た作曲家が、台本通り怪訝な顔を作ってたずねた。


 「さっきまでは、彼女の演技ですよ」


 催眠術師が嗤笑ししょうした。


 「なるほど。かかった振りをしていただけですか。それで先生は騙された振りをして、改めてかけなおしたというわけですか」


 芦沢がしたり顔で頷いた。


 「そうです。もう終わりだと言ったから安心したのでしょう。さあ、彼女のことを探ってみますか」


 催眠術師はそう言って黒メガネの奥の目を光らせた。


 嘘をついた罰として催眠術師が吐かせたところによると、歌姫の男出入りは凄まじかった。


 この若さですでに3桁に達する数に皆が呆れたり、目を丸くしたりした。


 作曲家がとたんに不機嫌になるのを見て鰐口天皇が、憚ることなく失笑した。


   ※※※※※


 その夜、辻夫妻が自宅マンションへ帰ったのは夜が明けてからだった。


 辻は今夜の出来事に興奮して急に創作意欲に駆られたのか、帰る早々アトリエ代わりに使っているひと部屋へ閉じこもってしまった。


 一方、寝室に置いてきぼりを食ったキャサリンも催眠術にかかったせいか妙に気持ちが高ぶっていて、今夜ばかりは睡眠導入剤代わりに辻とアレをして快楽の底に沈まなければとても寝付けそうになかったが、辻が仕事場へ閉じこもってしまったので仕方なく寝酒にブランデーをまた1杯引っかけて、ベッドに入った。


 そして自分で自分を慰めた。


 気持ちがスッキリするとキャサリンは、酔いと疲れのためにすぐに深い眠りに落ちてしまったが、お腹の中のタロケルは逆に目が冴えて眠るどころではなかった。


 芦沢家での出来事を振り返っていたのである。


 あれから催眠術はキャサリンと辻の番になって、キャサリンの前世は日本人であることが判明した。


 米国へ留学した日本人女子大学生が現地で交通事故に巻き込まれて不慮の死を遂げ、米国人に生まれ変わったらしかった。


 らしかった、


 というのは、キャサリンは皆にすすめられるままにシャンパンを飲み、その酔いのためか催眠術のせいかわからなかったがほんの少しウトウトとして記憶が飛んでしまい、そのあとその場の皆がそうだと言ったから、それを信じたのである。


 「それでキャシーの日本語が上手な訳がわかったわ」


 と、美和子がシナリオ通りに、しみじみとした口調で口火を切って続けた。


 「だってまだ日本に来て2年ちょっとでしょ。もう何年も住んでいるみたいに上手なんだもの」


 「そう言えば、そうだな。日本語は世界で最も難しい言語と言われ、英語圏での外国語習得難易度ランキングでもカテゴリーファイブ、つまり堂々の断トツで1位だが、こうも易々と自分のものにしているところをみると、元々キャサリン君の魂に日本語が刷り込まれていたのかもしれないな」


 芦沢も長々と講釈をつけて頷いた。


 キャサリンはそう言われて、しかしハイスクールの時から何年も日本語のレッスンを重ねて上達していたのだが、そもそも日本に興味を持ったことからして、前世と関わりがあるのかもしれない、と勝手に思い込んだりしていた。


 そして辻の前世は売春婦だった。


 戦後の焼け野原で進駐軍を相手に体を売って情夫に貢いでいたが、情夫が他に女を作ったのを知って逆上して無理心中を図り、35才の生涯を終えたという気性の激しい薄幸の娼婦である。


 情夫はそのとき一命を取り留めた。


 それを聞いて鰐口監督が、


 「日本人の生まれ変わりのキャサリン君が今こうして日本で暮らしているのもそうだが、前世で進駐軍を相手に春をひさいでいた辻サンが、現世では金髪美人に夜毎大サービスを受けているのだからなぁ。因縁とは何と不思議なものなのだろうねぇ。いや、因縁なんて悪い言葉ではなくて、えにしと言うべきだな。不思議な、不思議なというよりもきっと天命に近いえにしなのだろうなぁ」


 と感嘆した口調でため息をつけば、歌姫のことでちょっと大人しくしていた作曲家が、


 「辻センセの売春婦って、一体どんな顔をしていたのかなあ」


 などと減らず口を叩き始めた。


《ねえヒミコ》


と、タロケルは話しかけた。《催眠術って、やだね。過去のことも全部バラされちまうぜ》


 タロケルは催眠術の凄さに驚いていた。


 こんな調子で催眠術にかかった日には、過去は何もかも洗いざらいに喋らされてしまう。


 《あら、これはヤラせよ。催眠術師も劇団員なんだもの。でも手品か何かの心得はあるらしいけれどね》


 《でもボクのママを見たかい。本当に催眠術にかかっていたよ。日本人の生まれ変わりだってさ》


 《あら、あんたのママは何にも喋っちゃいないわ。ウトウトしていたんだもの。もっとも、催眠術というから眠っちゃうのかもしれないけれど、もしかしたらあんたも眠っちゃった?》


 《そうかも。ママがシャンパンを飲み過ぎたせいで、きっとボクまで酔っ払っちゃったんだ》


 《本当のところはね、芦沢さんがそんなことを言ったからあんたのママもそう思い込んでいるだけなのよ。アンタのママは何も喋っちゃいないわ》


 《じゃあパパの売春婦というのは?パパは完全に催眠術にかかったようだけど》


 《あれは芦沢さんの書いた台本の台詞通りにあんたのパパが喋っただけ》


 《ということは、パパはグル?》


 《ええ。グルもグル。大グルよ》


 《なあ~んだ。でも、どうしてこんなことをするんだい?》


 《う~ん。芦沢さんが母を売り出すためにアンタのパパの名前を利用するらしいわよ。アンタのパパも喜んで協力したって話よ》


《パパの名前を?パパの名前にそんな神通力があるのかい?》


《さあねぇ》


 タロケルは芦沢のマンションを出るが出るまでヒミコとそんなことを話していた。



  ※※※※



 辻が5日間アトリエに閉じこもって一気呵成に描き上げた作品は150号の大作で、〈花唇かしん〉と表題された。


 その下に〈子宮内から見た女性器と外界〉、とサブタイトルが添えられていた。


 先日の催眠術で胎児に逆戻りした時の感覚を、表したものらしい。


 そもそも催眠術自体がヤラセで、辻もそれに乗って一芝居打ったのに、彼はその場の雰囲気に飲まれてすっかりその気になって、1つ足らない人種たちというのが裏看板の芸術界の人間そのままに、自分も胎児に戻ったと思い込んでいた。



 ・・・アトリエに籠った辻はイーゼルを立てると、いきなりカンバスに直接筆を当てた。


 本来の仕事のやり方はスケッチブックに水彩で縮小版を描いて、それを心ゆくまで仕上げた上でカンバスへ複写するという手法を取るのだが、いきなりカンバスに心の丈をぶつけるように直接筆を当てたのである。


 こんな気持ちになったのは辻にとっても久々のことだった。


 何を描こうと考えなくても内から描きたいものが湧水ゆうすいのように筆先に溢れ出て、筆が機械のように自動的に動いてカンバスに色を埋めてゆくのである。


 この、自我の中に閉じ籠もることにかけては一種天賦の才を持った絵描きは、仕事をし始めると際限さいげんがなくなり、アトリエ内の簡易ベッドで仮眠をして、夜も昼もなく描き続けて、5日間ぶっ通しで部屋に籠もっていた。


 仕事の邪魔をされるのが厭でアトリエ内にベッドを持ち込み、トイレも作り、食事は監獄の独房ように小さな窓口からそっと差し入れられていた。


 しかも腹一杯好き放題食べると眠たくなるので、鎌倉時代の禅寺のように一汁一菜にとどめられた。


 そんな時の辻にとっては時間も世界もキャサリンさえも無意味な存在になり、描き疲れては眠り、目覚めてはまた描き続けるという繰り返しは、天体の運行が自然に行われて昼と夜が繰り返すのに似ていた・・・



 6日目に創作を終えてアトリエから出てきた辻の、精も根も尽き果てて廃人のようになった姿を見て、キャサリンはビックリした。


 辻はキャサリンを見るなりいきなり挑みかかったが、そのまま昏倒して丸々1日24時間眠り続け、目覚めて今度は2日間キャサリンをベッドからおろさなかった。


 まだ絵を描いていた時の興奮状態がゆるゆると続いていて、ちょうど焚き火のあとの残り火が燻って時おり火を出すように辻の体は幾度となく発火して、そのたびの常軌を逸した求めぶりのせいで、寝室はペイントだらけになった。


 キャサリンはその宇宙空間のブラックホールを描いたような抽象的な画からは何の美醜も感じなかったが、絵具もまだ生乾きのままの作品を画商が発表するや否や、芸術界からは絶賛の声が上がった。


 [第5話へ続く]

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花 唇 kashin 押戸谷 瑠溥 @kitajune

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