第3話 芦沢家での催眠術パーティー

 芦沢はそれでも厳かな口調で残りの台詞を続けたが、2人の会話のベテラン対シロウトの滑稽さにとうとうやりきれなくなって、言った後からこんな大根役者を相手にしている自分がなお情けなくなった。


 [第2話から続く]




 翌日の月曜日の夜9時過ぎ、三田のK大学の巨大キャンパスのそばに建つ高層マンションの最上階の一画を占める芦沢家では、広い応接間にすでに7人の男女が集まって、〈催眠術の会〉と称するホームパーティが始まっていた。


 7人がくつろいでもまだ十分な余裕があるほど応接間は広々としている。


 部屋全体の照明を少し落とし、2つの壁面それぞれにスポットライトが当てられた1面の壁には、辻義郎の作ではない日本の新進気鋭の画家の抽象画が掛けられ、それと接する壁には魔除け代わりの般若はんにゃ小面こおもての対の能面が掛けられていて、2つの小さなライトに〈現代〉と〈過去〉とが対照的に浮かび上がっている。


 その2つの壁面の反射光が、僅かに不足気味の部屋全体の照度を補って、応接間を落ち着いた居心地のよい空間に保っている。


 テーブルにはケータリングサービス業者によってととのえられた豪華なつまみ類と酒が並べられ、各々おのおのがビールやウィスキーやシャンパンを飲んでいた。


 メンバーは最近売り出し中の作曲家と同伴者の女性歌手。

 そしてプロ野球の在京人気球団の四番打者と同伴者のクラブホステス。

 それに大きな黒メガネをかけた催眠術師と、ホスト役の芦沢と妻の美和子の7人である。


 芦沢夫妻を除く5人全員が芦沢の主宰する劇団の劇団員で、それぞれが役を振り当てられていた。


 何となく雰囲気の似た人間にそれらしいメーキャップを施せば、あの何事にも鈍感な辻夫妻の目をくらませるくらいは可能だと芦沢は考えていて、何度も台本を書き直し、入念にリハーサルをして今夜の本番に臨んでいた。


 特に催眠術師役の劇団員に芦沢は期待をかけていた。


 元々手品の心得は少しあるようだが、辻はともかく、キャサリンをほんの一瞬でも催眠状態に彼がさせることが出来るかどうか、あるいは皆が酒をしこたまキャサリンに飲ませて前後不覚状態にもってゆけるかどうかが、この〈催眠術の会〉の成否の鍵を握っていた。


 辻の方は酒を飲ませていい気持ちにさせておけばどうにかなる、というのが芦沢の立てた作戦だった。


 時計の針は9時を回ったが、来る予定のあと2組のカップルはまだ姿を見せてはいなかった。


 辻夫妻と、鰐口という映画監督役の劇団員と本物の女優山花千鶴の、ツーカップルである。


 映画監督と山花千鶴の遅刻は打合せ通りで、大芸術家気取りの辻が時間通りに来ることがないのも最初から芦沢の計算の中に入っていた。


 予定通りと言えばその通りなのだが、それでも芦沢は苛々した。


 芦沢はパイプの煙をくゆらせながら、応接間の広いガラス戸の向こうに続く品川方面の灯火を眺め、気分を落ち着かせようとした。


 今夜は一世一代の出し物になるに違いなかった。


 芦沢にとっては大げさではなく、自分の残りの全人生を賭けたものだと言えた。


 こんな計画を実行しなければならないほど芦沢が追い詰められたのは、そもそもはキャサリンを辻に奪われたことが発端だった。


 このマンションへもキャサリンは何度も泊まり、この大きなソファーやガラスのテーブルの上でも楽しみ、この窓から見える夜景が美しいと言い、壁に掛かった画や調度品の趣味も褒めてくれたので、てっきり自分の中に取り込んだと安心しきった矢先、別の男に釣り上げられたのである。


 その男がハリウッドスターのような世紀の二枚目なら諦めもしようが、選りに選って辻とは、と芦沢はそのことを考えるといまなお怒りに心が爆発しそうになる。


 芦沢が辻を許せないのは、辻が間抜けだからである。


 その間の抜け方が天然か演技かわからないところが、余計に芦沢の神経に障る。


 天然なら仕方ないが、演技だとすれば、この当代一と言われる名演出家を前に勝手な演技をするのは言語道断の所業である。


 しかしその怒りからも、もう少しで解放されるだろうと芦沢には思われた。


 演劇界のヒットメーカーと言われている芦沢が練りに練って台本を書き、今夜の舞台も用意した。


 美和子と結婚したのもキャサリンを失った傷心の日々の反動と、独り寝の寂しさも少しはあったが、実のところは美和子がキャサリンと友人付き合いをしているという理由の方が大きかった。


 キャサリンを取り戻すために美和子を利用して、その見返りとして芦沢は美和子を人気女優に仕立てる。


 阿吽の呼吸で美和子もその話に乗り、もしも成功すれば定期的に人気女優を作り出す芦沢伝説も継続中になる。


 彼にとっても美和子にとっても互いに損のない、しかもいいことだらけの取引とはこのことだった。


 しかし辻夫妻はなかなか来なかった。


 まあ、無頓着を装う芸術家時間とやらで遅れて来るのは許せるとしても、芦沢としては辻が打合せ通りにやってくれるかどうかが不安で、その悩ましさが吸い込んだパイプ煙草の煙に残って舌苔ぜったいをつついていた。


 実は芦沢は数日前に、辻に今夜のことを内々に打診していた。


 ある映画の試写会に辻夫妻が来るという情報を掴んだので、見たくもない映画だったが出かけて行って、餌を撒いてきたのである。


 芦沢は壁に掛かった時計を見た。

 9時30分になろうとしていた。


 「そろそろ来る頃だぞ。台本の台詞の意味を良く噛み締めて、絶対に主観を入れた勝手な演技だけはしないようにな」


 と、芦沢は皆に念を押した。



   ※※※※



 その辻は家を出る前から30分は遅れて行かなければ芸術家として示しがつかないと考えていた。


 時間厳守と芦沢には言われていたが、名の通った芸術家で時間に正確なヤツなどいなかった。


 時間だけでなく、約束そのものを反故にして平然としているばかりか、気分障害などという隠しておきたい精神疾患を大衆の前でさらけ出し、それが負の感情であるにもかかわらず、感受性という言葉に置き換えられて、デリケートな人間なのだから大目に見てやってくれよ、と逆に擁護されているヤツを何人も知っている。


 時間や約束事を守るということは常人にとっての常識事であって、既成の概念で凝り固まったその常識をひっくり返してなお新しい手法に挑んでゆかねばならない芸術家にとっては言語道断、腐臭の漂う食品みたいなもので、辻にしてみれば絶対に破棄しなければならない社会通念だった。


 だから辻も堂々と先人の例にならって遅刻を心がけた。


 時間に無関心を装う意識そのものがすでに時間に支配されているということなのだが、彼はそこまで気にしなかった。


 そんな考えに辻が凝り固まっていたものだから、いくらキャサリンがせっつこうが、トイレに立て籠もってじっとしゃがんでいたのだ。


 しゃがんでいつもなら漫画を見るところだが、今夜はメモを片手に自分がなすべきことを頭の中で繰り返し反芻していた。




 ・・・実は辻は数日前、或る映画の試写会で芦沢夫妻とバッタリ会い、ちょっと、と芦沢に呼び寄せられるままにこう切り出されていた。


 「辻くん、ぼくの家内をどう思う?」


 そう聞かれたが辻には芦沢の言っている意味がよくわからなかった。


 芦沢は芦沢で、どうせ辻にはぼくの言っている言葉の真意が分からないだろうと思って、具体的に説明した。


 「いやね。ウチの美和子が辻くんのファンなんだよ。君の画は美しいと、いつも聞かされる」


 「ほう~」


 辻は向こうでキャサリンと話している芦沢夫人の方を、ニヤニヤしながら眺めた。


 今夜の美和子は肩の露出した大胆なドレスを着ていて、その肩の細さと肌のきめ細かさは輝くようで、キャサリンのミルク色とは違った新雪のようなしとやかな純白に、涎が出そうになった。


 「そりゃあ嬉しいこってすが。芦沢さんのところもまだ新婚3ヶ月ですよねぇ」


 「それと君のファンという感情は無関係だろ。そうじゃないかね」


 「仰せの通りです。それで?」


 辻は唇を舐めながら目を光らせた。


 「美和子と付き合ってみる気はないかね?」


 「へぇっ?付き合うって、どこまで?」


 「そりゃあお互いに大人なんだからさ、成り行きに任せるより他ないじゃないか」


 「ヤッちゃって、いいんスか?」


 「いいも悪いも、美和子が君のファンだと言うのだからね」


 「そりゃあ、ぼくも幸せなこってすが」


 辻は目尻を下げてトロけた。


 「じゃあ、明日にでも詳しい打ち合わせをしよう」


 芦沢はそう言って夫人の方へ戻って行った。


 翌日、辻は芦沢と会って今夜の催眠術のことを聞いたのである。


 芦沢の話は簡単だった。要は辻が催眠術にかかった振りをすればいいだけのことである。


 「日曜の朝はどうせキャシーに引っ張られて教会へ行くのだろ。その時に誘うからな」


 「へいっ」


 辻は二つ返事で引き受けた。


 「あとはぼくに任せておきたまえ。台本も、演技指導も完璧な演出家だからね。それから当日は山花千鶴君も来るよ。どうやら君に気があるらしい」


 「あの山花千鶴が、ぼくに、ですか!」


 山花千鶴が会いたがっていると聞いて、辻は舞い上がってしまった。


 テレビや映画で活躍しているいま旬の女優さんだが、1度は現物を見てみたいと思っていただけに、辻の心は遙か彼方へすっ飛んで、北欧かどこかの森の中のログハウスで、すでに千鶴とベッドの中にいる光景を夢想していた。


 「ああ。ウチの美和子と山花千鶴と、両手に花だぞ。辻くんが催眠術にかかった時の台詞はここに書いておいた。これをよく覚えてくれたまえ。いいね、一字一句、間違えないように、な」


 そう言われて辻は芦沢からメモを突きつけられた・・・




 出発間際まで辻はトイレでウンウン唸りながらそのメモ書きを読み込んでいたのである。


 辻はキャサリンと共に約束の時間に少し遅れて芦沢のマンションに到着したが、部屋の前でふと時計を見るとちょうど9時30分だったので、まるで計算したような遅れ方に不満をおぼえてマンションの周囲をもう1周してこようかと考えたが、それより先にキャサリンがドアチャイムを押したので、仕方なくその場にとどまった。


 ドアが外側に開き、美和子が顔を出した。


 「あら~いらっしゃい」


 美和子が読点を省いた大仰な仕草でキャサリンを外国式に抱擁ハグして迎え、2人を応接間の方へ案内した。応接間には6人の男女がいた。


 応接間の入口に立ったキャサリンは、その場の異様な空気に戸惑った。


 芦沢夫妻を除いて初めて会う人ばかりだったが、そのせいだけではないような気がした。


 照明は暗いと思えるほど抑え気味だが、以前何度も泊まって知っているのでそのせいでもなさそうだった。


 強いて言えばBGMもすでに流れているパリコレクションのファッションショーで、打ち合わせもないままにいきなりキャットウォークの先頭に立たされたとでも言えばいいのか、そんなビミョーなカンジだった。


 だからキャサリンはその空気を嫌って、そっと辻を前面に押し立てた。


 結果、いきなり辻はその不細工な体躯さえも気にするひまもなく、キャットウォークの先頭に躍り出たような格好になった。


 「お、遅れて申し訳ない」


 応接間の入口で辻が誰にともなく謝った。「みんな、揃ったのかな」


 まだだよ、

 と芦沢が答えて、


 「鰐口先生が見えることになっているんだ」


 鰐口、と聞いたとき辻はガックリきた。


 30分どころか通常でプラス1時間、天気か気分次第でプラス2時間か約束そのものも消えてなくなるという、それでも悪評どころか日本映画界では皇帝、そして海外では巨匠とたてまつられている映画監督である。


 自分の到着にしびれを切らせたように、直ちに始まるものと思い込んでやって来たのに、辻は肩すかしを食らって、それでいっぺんに気勢を削がれてしまった。


 「ま、一杯りながら待ちましょうや、セーンセ。ぼくは初めから開始10時だと思っていますから」


 30代の優男やさおとこが、時間に遅れてやって来た辻を皮肉るように薄ら笑いを浮かべた。


 今や売れっ子の作曲家だと芦沢は紹介した。


 曲の題名を2、3挙げてアカペラで美和子が唄うと誰もが知っている歌だったので、キャサリンは目を輝かせた。


 続いて黒メガネの男が催眠術の大家、そして筋骨隆々男が在京人気プロ野球球団の4番バッターだと紹介した。


 一方辻はこれからの日本画壇を背負って立つ画家だと皆に紹介された。


 《ケっ、あんなこと言っているぜ。お調子者だな》


  キャサリンのお腹の中のタロケルが、美和子のお腹の中のヒミコと顔を見合わせて毒づいた 。


 昨日の内輪話で、芦沢は画家としてタロケルの父親を評価していないとヒミコから聞かされたばかりだったので、タロケルとしては余計に腹立たしかった。


 《ったくね。いつもはクソミソに貶しているくせにね。だから芸能人って、ヤなのよ》


 ヒミコも呆れたように鼻でわらった。


 《でも催眠術の会って、この仰々しさは何なんだ?何が始まろうとしているんだい?》


 タロケルもこの場の異様さは感じていた。


 《言葉通り、催眠術をかけるらしいわ。でも、みんな芦沢劇団の劇団員なのよ》


 《作曲家と野球選手じゃなかったのかい?》


 《ええ。真っ赤な偽者。それに歌手とホステスさんでもなくて、こっちも劇団員》


 タロケルはそれを聞いて不意に戦慄した。


 何が心を泡立たせるのかはわからないが、何か大変なことが起こりそうな悪い予感に身が、いやまだ受精卵の、その卵が凍った。


 とりもなおさずそれは母親のキャサリンがこの応接間に入ろうとして感じた一種の怯えと相通ずるものを、タロケルは母親のお腹の皮膚を通して感じていた。


 映画監督と山花千鶴を待つあいだ、辻はウィスキーの水割りを、キャサリンはシャンパンを飲んでいた。


 酒を作る役目は野球選手の女が一手に引き受けていた。銀座のクラブホステスという設定である。


 作曲家の女はこの頃めきめき売り出してきた歌姫と呼ばれる歌手役で、クラブホステスの下について酒を作る助手を務めながら鼻歌を唄い、そのせいに見せかけているのか、水とウィスキーの調合を微妙に間違えるやり方を演出して、ホステスに対する優越感をそれとなくアピールすることに抜かりはなかった。


 こんな自然な人間描写は芦沢演出の目立たないが、秀逸な部分である。


 辻とキャサリンにとっては芦沢と美和子以外は初対面だったが、テレビや新聞などで名前だけは聞き知った、広い意味での同じ業界人と言えたので、はじめに感じた違和感もすぐに消えてうち解けた。


 最初は不足していると思われた部屋の明かりにもキャサリンは慣れ、壁からはね返ってくる間接照明がどこか遠くの方で辺りを照らす街路灯のような淡い光にも感じられて、心地良かった。


 キャサリンはやはりこの場でもはなで、出来るだけ早く前後不覚に酔わせてしまえという芦沢からの指令もあって、皆がキャサリンのグラスが空くか空かないかのうちに巧いことを言って、どんどんシャンパンを注ぎ足していた。


 作曲家と芦沢の話すことは芸能界の女たちのことばかりで、キャバクラの女くらいにしかモテない設定の4番バッターと、キャサリンの監視が厳しくて以前のように女遊びもままならない辻が、舌なめずりをしながら聞いていた。


 これに美和子が加わって、女優間の極秘情報とやらを流している。


 そんなこんなでちょうど10時になった時、本当に計ったような1時間遅れで、これまた劇団員の鰐口監督役の役者が、本物の人気女優の山花千鶴をお供に悠然と現れた。


 [第4話へ続く]

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