いつもと変わらない日々。誰も来ない荒れ果てた社の屋根で、ぼうっと街を見下ろしていた。最近また体が軽くなっただろうか。あと五十年もこの体が持つかどうかすらわからない。



 だからと言って、なにかやりたいことがある訳でもなかった。何百年も前からずっと一人でここに座っていたのだから、消えるとわかっても悲しくもない。



 人の子が来る気配がして、遠くにあった視点を側に戻す。時々探検隊などと称した集団が来ることはあるが、今回は違う。女の子、それも泣いているようだ。



 泣いているのはまだいいだろう。幼い子供が泣くことは当然。しかし、なぜここに。



 少女は鳥居の前まで辿り着き、神社を見て涙に濡れる目を見開いた。くりっとした大きな目。その目は、まっすぐと呼子神のことを見ていて。



「おりないとあぶないよ……?」



 膠着している僕にかけられたのはそんな言葉で、素直に降りてしまった。



「君はなんで……」



 見えるの、という言葉を飲み込み、口にしたのは別の言葉だった。



「なんで泣いているの?」



「あのね、ココがいないの」



「ココ?」



 ペットか何かだろうか。少なくともここには来ていないのだが。



「……変なかっこ」



 突然そう言われて、困ってしまう。もちろん現代に生きる子供には見たことがない姿なのはわかるが、話が唐突すぎやしないだろうか。よほど気になるのか近づいてきて胸に二つ付いた白い総菊綴を触ってきた。感触が気に入ったのか、両手でもんでくる。



「さ、触れるの?」



 触れられたという事実に驚いて、思わず声に出してしまった。少女が怪訝な顔を向けてきて、咳払いする。



「何でもないよ……」



 ごまかしながら、泣き止んでくれたことに安堵する。泣かれていたら、どうしたらいいのかいよいよわからなくなってしまう。



 それにしても、見える者などいつぶりだろう。それも、彼女の年齢はちょうど――。



「君、名前は?」



 ――何をいまさら。そう思い、話を振って気をそらす。



「あみ! おにいさんは?」



 少しだけ、返答に迷う。



「……呼子神だよ」



「へんな名前!」



 ころころとかわいらしい笑い声をあげた亜実に、つられて微笑む。久しぶりに誰かと言葉を交わした。こんなに楽しく、うれしいことだったのか。



 自分の存在を認識してくれるということが。



「おにいさん、いい匂い! お花!」



 そう言われて、苦笑いする。言っているのはナナカマドの匂いか。昔はそのあたりの木に満開に咲いていたのだけれど――。



 ああ、懐かしい。枝を手折って嫁にもらった少女たちにあげたら、いつも喜んでもらえた。まだいけにえという意識もないくらい幼い子供であったから。二人きりで、何十年も白い花が咲き、赤い実をつけ葉が鮮やかな紅に染まるさまを眺めていた日々。



 少女が十二歳になって裳着の時期になれば求婚し、簡易的な儀式を執り行っていた。今でも鮮明に残っている彼女たちの笑顔は、いけにえでめとったとはいえ愛おしかったと、確かに言うことができる。



「ねえ、もし――」



 冗談のつもりだった。いくらうれしくても彼女を奪うわけにはいかない。



「結婚しようって言ったら、してくれる?」



 さすがに驚いたのかしばらくぽかんとしていたが、すぐに笑顔になった。



「いいよ!」



「え、ほんとうっ?」



 思わぬ返答に目を見開いて声が裏返ってしまう。



「うん! 約束しよ」



 小指を出され、困惑する。首をかしげると、むっと頬を膨らませて勝手に小指同士を絡めてきた。



「指切りげんまんうそついたらはり千本のーますっ、指切った」



 リズムに合わせて、腕を勢いよく上下される。瞬きを繰り返すと、亜実はふふっと笑った。



「約束」



「……そうだね」



 明日には忘れてしまう。そう思っても、申し訳なく感じてしまうかわいらしい笑顔。



 力がないことがここまで恨めしいと思ったのは初めてで。だから、次の日亜実が来たとき呆然としてしまったのだ。慌てて屋根から下りて、亜実に近寄る。



「なんでまた……!」



 しかし、亜実の目は彼の姿を再び見ることはなく。



「ココ、見つかりますように」



 小さな呟き。その声も姿も昨日と同じ。一つだけ違うことは、その澄んだ黒い瞳が僕のことを映さないこと。



 昨日は、奇跡だったのだ。こうしてあの日の記憶が消えてしまっても彼女の日々の中に神社への参拝が習慣づけられたことも。



 毎日、彼女は些細な願いを口にして帰っていった。五分にも満たない時間だが、彼女の言葉を聞くのが唯一の楽しみで、一日来なかっただけで不安になる。次の日や数日後に旅行に行っていたのだと言われれば安堵し、風邪をひいていたと言われれば心配になる。最も恐れていたのは不意にこの神社の存在を忘れて参拝をやめてしまうこと。



 せめて、彼女がこの世から幸せに去るまで見守ろう。



 消えるわけにはいかない。






 中学校に上がっても亜実の参拝は続いていて、悩みの告白をされることも多くなった。探し物程度であればかろうじて残っている権能から探し当てることもできるが、それを伝えることはできないし、人間関係の悩みなどどう答えてやればいいのかわからない。



 ――そんなときにされたのは、恋の相談だった。



「酒井のこと、好きなのかな」



「……え」



 一瞬呆然とてしまった。同時にああ、と声が漏れる。きゅう、と胸が締め付けられる。



「それは本当に、素敵な、とても素敵なことだよ」



 聞こえていないはずなのに、亜実はほんのりと顔を赤く染めて微笑んだ。



「がんばります。付き合えます、ように」



 可憐な少女だったはずの彼女は、確かに少しずつ大人になっていた。黒く長い髪は美しく、いつもまっすぐな瞳は愛らしい。僕とはどんどん距離が離れていく。もう「おにいさん」ではない。



「応援、しているから」



 応援しなければいけない。なぜ、こんなことを考えなければならないのだろう。僕は神だ。いけにえではない人の子とはそもそも……。



 些細な喜びを話してくれるようになった。今日は挨拶を向こうからしてくれた。消しゴムを貸した。ちょっとした日常の一コマを、恋は幸せにしてくれているようだった。



 それは僕にとってもうれしく、幸せなことであるはずで。



「付き合うことになっちゃった」



 嬉しそうに話す亜実を見て、初めて話を聞きたくないと、そう思った。



 恋か。僕が、彼女に。



「あ――」



 名を呼ぼうとして、口を閉じる。僕は彼女の幸せを望んだはずだ。ならば、喜ばなければ。なぜ、なぜ。



「なんで……」



 僕には、彼女を幸せにする権利はないのに。どうしようもなく涙が止まらなかった。





「別れちゃった」



 そう言われたのは、あの日からたった二か月後だった。



「なにがいけなかったのかな。私、たぶん最初から好かれてなんかいなかったんだよね」



「そんな、こと」



 どうして、彼氏はふってしまったのだろう。僕なら彼女を手放したりなんかしない。いつまでも笑顔でいてもらえるよう努力する。泣いている顔なんて、亜実には似合わない。



 ――僕なら、彼女を幸せにしてあげるのに。僕には、その資格はない。



 この寂れた神社から一歩も出ることはできず、幸せになるのを祈り見守ることしかできない。こうして静かに一人で泣いている亜実に触れても、声をかけても、この気持ちを伝えることはできない。



 それでもこの奇跡にすがっている僕は。



「もう僕は、神様だなんてたいそうなものなんかじゃないよ」



 ひとしきり泣いて帰っていった彼女は、次の日には何もなかったかのようにいつも通りの表情を見せた。

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