呼子神
明深 昊
一
「亜実、ちょっと寄り道していかない? 駅の裏側に新しいカフェができたんだって。ホットケーキがおいしいらしくてさ」
気だるい月曜日の学校が終わって、がやがやとした教室。その中で一人黙々と帰りの支度をしていると、佐奈に声をかけられた。申し訳なく首を横に振って、ごめんと手を合わせる。
「寄り道はなるべく避けたくて。休日にしない?」
昔からの友人であれば事情を知っていたり、そうでなくても放課後の誘いには乗らないことを把握してくれていたりするのだけど、クラスが変わってまだ一ヵ月の中でできた友人。こういうとき、断るのは少し気が引ける。でも、毎日の日課はそうやすやすとおろそかにはできない。
「わかった、また今度誘うよ。じゃあね」
「うん、ごめんね。ばいばい」
怪訝に思いながらもうなずいてくれた佐奈にもう一度謝って、足早に学校を後にした。
車が通れないような山に沿う狭い道から山の中へと伸びる獣道。その少し先の急な階段も登っていき、小さな石の鳥居に迎えられる。その奥にある社は高さが二メートルくらいで、横幅や奥行きからして恐らく社はなんとか一人入れるくらいの小さな神社。お参りのときに鳴らす鈴もない。
草木は荒れ放題で社もクモの巣が張られた状態。端の方に井戸が残っていて、たまっている雨水を使って掃除や手入れをすることはあるけれど、大してきれいにはならない。
もっと家から近いところに氏子も常駐している神社があるのだが、幼い頃からここで大小さまざまな願い事をしてから帰るのが日課になっていた。別に思い入れがあるわけではないのだが、気づいたときには当然のように通っていたのだ。これと言って叶えてほしいと思う願いがないことも多く、誰に話すまでもないくだらない話をしたり愚痴を吐き出したりする場所でもあった。
今日も、いつもと同じように手を合わせる。
「ゆうなからもらったキーホルダー、見つかりますように」
「小さなカバンの中だね」
幼い子供の声がして、呆然と顔を上げた。おかっぱ頭の男の子が屋根の上に座ってこちらを見下ろしていて、ばっちりと目が合う。足場のない社にどうやって登ったのか。それに、さっきまで誰一人としてこの場所にはいなかったはずだ。
固まってしまった私を見て、男の子のほうも硬直する。
「……え?」
間抜けな声を出した男の子を見て、ようやく我に返った。
「危ないよ、降りて!」
その言葉に、男の子は少し沈黙してから拍子抜けしたようにははっと笑った。
「そうだね、降りて話をしようか」
ひょいと社から飛び降りたかと思うと、地面にぶつかる直前に重力を無視してふわりと浮き上がる。そのままゆっくりと着地したのを見て、ありえない光景に目を丸くした。
普段ではめったに見られない黒いおかっぱの髪に、童水干と呼ばれるような和服を身につけている。足元は紺色の鼻緒の下駄。白の上衣に水色の下衣が着なれているように様になっていて、余計に彼の存在を疑ってしまう。
私の困惑している様子は気にも留めずに、カコンカコンと音を立てて近づいてきた。身長は私の胸のあたりまでしかない。
「見えてしまったからには仕方ないか。僕は呼子神。ここに鎮座する神だよ。まあ、既にその力はほとんど残っていないけれどね」
「呼子神……?」
毎日参拝していたが、この神社が祀る神様についての知識はなかった。ただ、昔からなぜかここに毎日足を運んでいる。親にもこのことは伝えていない。
「そう。この地に神隠しの伝承が残っているのは僕のせい。子供をもらうかわりに、辺り一帯を守っていたのさ」
「神隠し……」
確かに、『隠し子は神のいたずら諦めろ』というような言い聞かせがあるくらい、昔から神隠しのある町として伝えられている。そんなもの、迷信だと思っていた。
「えっ、もしかして、私神隠しされちゃったの?」
呼子神は慌てて首を振って否定した。
「待ってよ。それは昔の話だ。僕にはもうそんな力はない。見ての通り君を迎え入れることができるような状態ではないし」
「迎え入れる?」
少しほっとしながら聞き返すと、呼子神は少し寂しげに微笑んだ。
「昔は、僕がお告げする事で供物として女子が捧げられた。その子が死んでしまうまで、僕の嫁としてこの神社の此岸側の巫女となってもらっていたんだ。あ、此岸というのは今いる世界だと思ってもらっていい。一方で僕みたいな神様や死霊が暮らすのは彼岸、と言うんだ」
そのようにして、二つの世界の狭間を守る存在を据えることで、彼岸から此岸への影響を抑えるのだと、呼子神は続けた。
「ただ、神と関わった人間は、その記憶を保つことはできない。僕に供物を捧げたことを忘れた人々は何もわからずに、女の子が消えてしまったことを『神隠し』と名付けたんだよ。まあ、女の子の存在もしばらくしたら記憶や記録から消えてしまって、伝説だけが独り歩きを始めてしまったんだけど」
人の子を嫁にし、人々の前から消してしまう。役目のためだとしても、その子やその親族、そして呼子神もかわいそうだと感じてしまう。
「今では此岸と彼岸の繋がりが薄れて此岸側で神託を受けられるような人はいなくなってしまったから……その風習は途絶え、この通り。まあ、薄れたから守り人が必要なくなったというのも一つの理由だけどね。僕がお告げする場であった祭事も百年近く前から行われてないし」
難しいことを説明させられてなにも言い返せないでいると、呼子神がははっと笑った。
「理解する必要はないよ……君はどうせ忘れてしまうんだし。亜実、君はこちらに来てはいけないんだ」
「名前……どうして」
呼子神に名を呼ばれて、目を見開く。
「君は帰らなきゃならない。僕はもう神として存在できる時間は長くない、やがて消えてしまう神様だ。関わったところで、なんのご利益もないよ」
帰ろう、と、悲しげで、しかしはっきりとした意志が感じられる言葉をもう一度かけられる。
「……消えてしまうって、どういうこと?」
「僕はすでに、神様として必要のなくなってしまった存在なんだよ。近いうち、僕は高天ケ原に帰ることもなく消滅する」
下駄の音を鳴らし近づいてきて、ほんの少しだけ懐かしい香りがした。嗅いだことがある。覚えていないけれど、確かに。
「……私、あなたに前」
呼子神の微笑みで、その先の言葉を紡ぐことができなくなる。
大切なことを忘れている。とても、とても大切な。
「君は僕と接触した時点で、〝あってはいけない〟記憶としてこの神社のことを忘れてしまう……そもそも、ここに通い出したこと自体が奇跡に近いことだったのだけど。こうして僕を見てしまっているし、本当に霊力が強いのだろうね」
それとも約束のせいかな、と聞こえるか聞こえないかの声が届く。
「忘れてしまうって、そんな訳ない! 私、毎日ここに……」
「知っているよ。毎日見ていたから」
神を見てしまったというそれだけで、全てがなかったことになってしまうだなんて理不尽ではないか。この神社は、私の心のよりどころだった。誰にも言えないことを独り言で吐き出せる場所だった。それなのに。
「どうにかできないの」
震える声で呟くと、呼子神は困ったように笑った。
「君がわざわざ気にかける必要なんてないだろう? 僕たちは今初めて会ったようなものだ。君が忘れてしまおうと、僕が消えてしまおうとなにも問題はない。僕たちは住む世界が違うんだ。君は普通の高校生らしい生活に戻るだけだよ」
住む世界が違う。分かりきっていたことでも、それでもやはり言葉にされると重くそれがのしかかって。
うつむいたのを見て呼子神がじゃあ……と帰宅を促したが、それを聞かずに食い下がった。
「でも、私はあなたのことを知った。知っていた。きっと、そうでしょ?」
「……そうだね、僕たちは会ったことがある。でも、君が覚えていないなら、それは初めて会ったのと同じことだと思わない?」
――神が〝認めた〟。
『――――』
一瞬浮かんだ、幼い頃の私と約束を交わす、今の姿と数寸も変わらない呼子神の少し戸惑うような微笑み。
「あ……」
思い出した。私は、彼と。
「約束した」
そう呟いた私に、呼子神が目を見開く。
「私たち、結婚しようって」
「ま、待って。あれは君がまだ五歳のころの話だ。ただの口約束だよ」
慌てたような言葉に、さらに感情が昂ってしまう。
「結婚すれば、私はあなたのことは忘れない?」
「本気で言っているの? 言ったじゃないか、神の嫁になることは存在をこの世界から消してしまうことと同義だ。両親や友達はみんな、君がこの世界に存在していたことすら忘れてしまうんだよ」
少し荒らげた言葉で現実的なことを言われて、冷静な自分が戻ってくる。私が知っている人たち、大切な人たちが、自分のことを忘れてしまう。
「それは……」
「ありがとう。その気持ちだけで、僕はうれしいから。だから帰ろう」
これ以上関わることを拒否するような、それでも優しい口調で促してくる。
「……でも、もう会えないんでしょ?」
どうして彼にここまでこだわるのか自分でもわからないけど、彼のことを忘れてしまったら私の大切なものがなくなってしまうような気がした。
「たぶんね」
それに対して全く残念に思っていないような口調で言われ、息が詰まる。しかし、呼子神はため息をつき、乾いた笑いを漏らして。
「今も昔も、君に会えて本当に良かった。最後にこんなうれしいことがあったんだから、いつ消えても構わないよ」
いくら嫌だと思っても、何度約束してもそれが果たされることは無い。それはわかっている。
「僕は君が人として幸せになって欲しい。人として生きてきた君を知っているから」
今までで一番柔らかく綺麗な言葉と笑みでなにも言えなくなってしまっている私に、呼子神は右手の小指を立てた。
「約束しよう」
あのとき、私が発した言葉。呼子神が、困ってしまった言葉。
呼子神は、自分と私の小指を絡めてさみしさを払うような明るい笑顔を見せた。
「どうか、幸せになって。僕が見守っているから」
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