第3話 マッドサイエンティストは二の腕を愛しすぎている
生徒会室という名の密室から逃げ出した私が、次に捕獲されたのは、わずか徒歩10秒の地点だった。
私の腕を掴んだのは、白衣の悪魔だ。
「確保した。対象(サンプル)の身体拘束を確認」
無機質な声と共に、私は理科準備室へと引きずり込まれた。
薬品のツンとする匂い。暗い室内には、ホルマリン漬けの瓶や、用途不明のガラス器具が怪しく光っている。
そこに私を押し込めると、白衣の人物――
まただ。また鍵だ。この学園の天才たちは、どうしてこうも密室を作りたがるのか。そして学園は何故それを放置するのか。
「あ、あの……氷室先輩? 私、何か悪いことでも……?」
私は壁際まで後ずさりながら尋ねた。
氷室雫。
幼少期から文部科学大臣賞を連続受賞、将来のノーベル賞候補とも噂される、天才科学者一族の末裔にして、この学園の理数科を支配するマッドサイエンティスト。
ボサボサの銀髪に、分厚い瓶底眼鏡。白衣の下はジャージという、いかにも「研究以外に興味がありません」という理系スタイル。
けれど、眼鏡の奥の瞳は、まるで未知のウイルスを発見したかのようにギラついていた。
「悪いこと? ノン。君は素晴らしいことをした」
雫先輩は、ポケットからノギスと電子体温計、そして謎のプローブを取り出した。
「先ほど、君と西園寺が接触していた30分間。私は廊下で微弱な生体電流の変化を計測していたのだがね」
「ストーカーですか!?」
「観察だ。……その結果、西園寺の脳波は瞑想状態の僧侶レベルまで沈静化し、君の体表面からは未知の周波数が観測された」
雫先輩が一歩近づく。私が一歩下がる。
すぐに背中が実験台にぶつかった。逃げ場なし。
「君の皮膚は、現代科学の
言い終わるや否や、雫先輩の手が伸びてきた。
ターゲットは、私の二の腕。
――むにゅん。
冷たい指先が、私の脂肪たっぷりの二の腕に沈み込む。
悲しいかな、私の肉は抵抗することを放棄していた。指はどこまでも深く、マシュマロの中に沈んでいくように食い込んでいく。
「ひゃうっ! つ、冷たいです!」
「静かに。データがブレる」
雫先輩は真顔だった。
いや、真顔で「むにむに、ぷにぷに」と、二の腕を捏ね回していた。
まるでパン生地の発酵具合を確かめるパン職人のように。あるいは、高級なスライムの弾力を楽しむ子供のように。
「……ありえない」
雫先輩が呟く。
「この反発係数……通常のヒトの皮下脂肪ではない。液体と固体の中間……非ニュートン流体に近い挙動だ」
「た、ただの運動不足のお肉ですぅ……」
「謙遜するな。これは奇跡のゲルだ」
褒められている気がしない。
雫先輩は、今度は頬を擦り寄せてきた。
ひんやりとした彼女の頬が、私の熱を持った二の腕に密着する。
「……あぁ……」
その瞬間、先輩の喉から、くぐもった声が漏れた。
「熱伝導率が……絶妙だ……。冷え切った私の思考回路が、急速解凍されていく……」
白衣越しに、彼女の体温が上がっていくのがわかる。
最初は氷のように冷たかった先輩の身体が、私に触れている部分からポカポカと熱を帯び始めたのだ。
私の体温が奪われているはずなのに、なぜか私まで熱くなってくる。
くすぐったい。二の腕の内側というデリケートな部分を、頬ずりされたり、指で弾かれたり。
「先輩、あの、くすぐったいです……!」
「我慢したまえ。水分量が異常値を示している。……君、どんなケアをしている?」
「え? や、安売りの化粧水をパシャパシャしてるだけですけど……」
「嘘だ。この保水力は、ヒアルロン酸のプールに3年漬け込まないと説明がつかない」
彼女は私の腕を抱きしめたまま、うっとりと目を細めた。その表情は、難解な数式を解いた時の達成感と、猫がマタタビをキメた時の陶酔が混ざり合っていた。
「もっとだ……もっと密着面積を増やして、データを取らせろ……」
理性のタガが外れかけている。
彼女は白衣を脱ぎ捨てようとする勢いで、私にのしかかってきた。実験台の上で、私はあわや押し倒される寸前――。
バンッ!!
理科準備室の扉が、乱暴に開け放たれた。
現れたのは、肩で息をする生徒会長、西園寺玲華様だった。
その顔は、鬼の形相。
「――そこまでよ、
地獄の底から響くような声。
玲華様はカツカツとヒールを鳴らして歩み寄ると、私にのしかかる雫先輩の襟首を掴んで引き剥がした。
「西園寺か。邪魔をするな。今、世紀の発見に触れているところだ」
「黙りなさい。そのマシュマロボディは、生徒会の管理下にある重要備品よ」
備品扱いが定着している。
「備品? ナンセンスだ」
雫先輩は眼鏡の位置を直し、不敵に笑った。
「彼女は人類の至宝(サンプル)だ。独占など許されない。科学の発展のために、彼女の皮膚組織を徹底的に解析し、量産化技術を確立すべきだ」
「量産……? 私のクローンでも作る気ですか!?」
私が悲鳴を上げると、二人の天才は同時に私を見た。
「「それは名案だ(わ)」」
ハモらないでください。
玲華様は私を背中に庇うように立ち、雫先輩を睨みつけた。
「とにかく、返してもらうわ。私の充電がまだ完了していないの」
「お断りだ。私はまだ、彼女の胸部の弾力を計測していない」
(まごうことなきセクハラだ)
二人の間に火花が散る。
一触即発の空気。
私は二人の天才に挟まれ、オロオロとするばかり。
「わ、私の二の腕で喧嘩しないでください!」
「二の腕の話などしていない。おっぱいだ」
「なお
「それに喧嘩ではない。所有権の主張だ」
「そうよ。これは正当な権利行使だわ」
どうやらこの先、私の意思(と人権)は完全に無視されるらしい。
その時だった。
遠く、芸術棟の方角から、絹を引き裂くような悲鳴が響いてきたのは。
「――イヤァァァァ! もう描けない! 世界は終わりよォォォ!」
ガラスが割れる音。何かが爆発したような音。
玲華様と雫先輩が、同時に動きを止めた。
「……カレンね」
「ヒステリーの発作周期か。迷惑な話だ」
二人の視線が、再び私に向く。
今度は、値踏みするような目ではなく、「使える道具」を見る目だった。
「ふわり。行きなさい」
「へ?」
「あの芸術馬鹿を鎮めるには、君のその人をダメにする能力が必要だわ」
「ダメにする能力!?」
「実験の続きはお預けだが……実地テストとしては悪くない。行きたまえ、
え、ええーっ!?
私は返事をする間もなく、二人に左右の腕を掴まれ、芸術棟へと連行されることになった。
マシュマロボディの受難は、まだ終わらない。むしろ、これからが本番だったのだ。
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