第2話

バスに乗る。スマートフォンの画面はまだ男の部屋の映像を映している。女はその配信を止めることができず、イヤホンから流れてくる沈黙を、車窓のぼんやりした街の灯りを見つめながら聞き続けていた。自分のアパートへと近づくにつれ、胸の苛つきは増し、心臓が奇妙に締めつけられた。


バスを降りると、女はゆっくりとアパートへ向かう。

建物は薄暗く、いつもと変わらぬ湿った空気が漂っている。


男の部屋の前に立ち、ドアノブを握ったが扉は固く閉ざされていた。拳を上げかけたが、そのまま下ろし、自室へと戻った。


女は、ベランダにつながるサッシを開けた。錆びついたレールが耳障りな軋みを立てる。外に出ると、夜の空気は冷え切っており、アパートを取り巻く闇は深く濃かった。彼女はわずかな足場を伝って、ためらいもなく隣室のベランダへと身体を滑り込ませる。そこにはいつもよりひどく濃密な、澱んだ臭いが漂っていた。


サッシのガラスは曇り、カーテンの隙間から室内を覗くと、薄暗い部屋の中に男の影が揺れていた。女は一瞬だけ躊躇したが、すぐに窓を開けようと試みた。鍵はかかっていない。窓はすぐに開いた。男の部屋は荒れ果て、無数のゴミ袋や空のカップ麺の容器が床を埋め尽くしていた。男は部屋の隅に立ち、俯きながらハンガーラックにビニール紐を巻き、首を掛けようとしているところだった。


その光景を見た瞬間、女の胸の内に溜まりきっていた苛立ちが唐突に爆発した。


「うるっっせえんだよ、いつも!」


女の叫びは鋭く、狭い部屋に激しく反響した。男が驚いて顔を上げると同時に、女は勢いよく彼の頬を殴りつけていた。男の身体がよろめき、壁にぶつかって力なく崩れ落ちる。


部屋の隅に放置されたパソコンの画面には配信が続いており、コメント欄には激しい罵倒と困惑が入り混じって流れている。その光景が視界に入った瞬間、女は衝動的に机ごとパソコンを足裏で蹴り倒した。モニターが鈍い音を立てて倒れ、画面が割れる音が室内に響く。


「痛えな!」


衝撃が予想外に強く足に返り、女は短く叫んだ。苛立ちがそのまま鋭い痛みに変わり、足がじんと痺れる。女は乱れた呼吸のまま、割れた画面から視線を逸らし、乱雑に散らかった床の上で力なくうずくまる男を無感情に見下ろした。


女の胸は、苛立ちと興奮の入り混じった荒い呼吸で上下していた。足元に鈍い痛みがじわじわと広がり、その感覚が余計に彼女の神経を尖らせた。


床の上で男は無気力に座り込み、視線を虚空に漂わせていた。その目には生気も主体性もなく、まるで自分の意思では何も決められない動物のようにただそこに居るだけだった。女はその姿を見て、強い嫌悪感が込み上げた。


自らを破滅に追い込むような騒ぎを起こしておきながら、自分自身で責任もとれず、今もこうして無意味に受け身なまま他人の反応を待っている。そんな主体性のない男の姿に、自分自身の鬱屈と孤独が重なり、怒りがさらに膨れ上がった。


女は感情を抑えきれず、男に向かって叫んだ。


「隣で死なれたらどう思うか考えろ!」


女の感情はますます大きくなり、さらに大きな声で叫んだ。


『頭悪いんだよ!自己中!死ね!!』


叫びながらもその言葉は、男よりもむしろ自分自身に向けられているような気がしていた。叫び終えた瞬間、女の目からは涙が溢れ出した。何の涙なのか自分でもわからず、ただ胸を圧迫する感情が強すぎて、息苦しくなっている。


激情に駆られた指先が震え、どうにも行き場のない苛立ちが身体の内側を激しく締めつける。男は床の上で無力に崩れ落ち、虚ろな目をしたまま抵抗する素振りさえ見せなかった。その動かなさが、女の胸の奥底に眠る苛立ちをさらに煽り立てる。自分の心の声を代弁していたはずの男の受け身の姿が心の底から許せなかった。


やり切れない衝動が体を支配すると、女は男の上に馬乗りになった。頬を軽く叩く。それでも抵抗を見せない男の腕を乱暴につかみ、服を強引に引き裂くようにして指を滑り込ませた。男は小さく呻き、わずかに身体を動かしたが、抵抗らしい抵抗はせず、そのまま硬直したように動きを止めた。女はその反応の鈍さにも激しい苛立ちを覚えたが、今はただ自分の内側を焼くような衝動を吐き出さなければ、壊れてしまいそうだった。


男は何も言わず、ただ浅く息を吐きながら身を任せている。女はその弱々しさに再び嫌悪を覚えた。なぜこの男は抵抗しないのか、私なら殺してでも抵抗する。だが、それが逆に彼女の自己憐憫にも似た感情をさらに昂ぶらせた。互いの身体がぎこちなく混じり合い、男の呼吸は荒くなるが、それは決して情欲によるものではなかった。女は苛立ちを抱えたまま、ただ内に燻る孤独と絶望を男にぶつけるようにして、自分の身体を強引に押し付け、行為へと流れ込んでいった。


少しの時間が経ち、部屋の中は再び沈黙に満たされた。ゴミが散乱する床の上に、二人はただ無言で横たわっている。女の荒い呼吸だけが静かな室内に響き、男は天井を見上げたまま、小刻みに震えるだけだった。天井の染みはアパートに染み込んだ湿気のようにくすんで見え、女の視界をぼんやりと覆っている。


やがて、男がかすれた声で呟いた。


「俺のこと、好きなのか?」


その問いを耳にした瞬間、女の内側でまた激しい苛立ちが膨れ上がった。男の主体性のない、媚びるような問いかけが、女のプライドを鋭く逆撫でした。感情は再び制御を失い、彼女は男の首を掴み、そのまま男の頬を力いっぱい殴りつけた。


「自惚れるな不細工!死ね!!」


その言葉は鋭く響き、部屋にこだました。自分自身の胸もその鋭さで再び傷つけられたことに気づいた女は、思わずうつむき、苛立ちと屈辱の混じった嗚咽を漏らした。涙は頬を伝い、床に落ちたが、それを拭おうともしなかった。男もまた沈黙したまま、殴られた頬をぼんやりと撫でているだけだった。


再び部屋に沈黙が戻り、薄汚れた部屋の中で二人はただ天井を見つめ続けるしかなかった。お互いの存在がまるで傷口のように、痛みと共にそこにある。外の世界から完全に隔絶されたような薄暗い静寂の中で、二人は何も言葉を交わさず、ただ無意味に同じ空気を吸い続けていた。

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