罵倒と接吻

てててて!

第1話

毎朝、薄暗いアパートで女は隣室の男の怒号で目を覚ます。薄い壁を貫いて耳に響くその声は、もはや意味のある言葉というより騒音そのものでしかなかった。吐き捨てるような叫びは動物的で乱暴で、聞くだけで胸が圧迫されるような息苦しさを覚える。女は目覚めるといつも薄汚れた天井のシミを眺めながら、目覚まし時計が鳴るまでの短い空白を無感動に過ごす。何をそんなに叫ぶことがあるのか、いつか知りたいとも思ったが、すぐにその考えは倦怠に溶けて消える。


重い体を起こしてベッドの端に腰掛け、手探りでスマートフォンをつかんで意味もなく画面を眺める。空虚な動きの中で感情はどこにも定まらず、ただ表情が消えていく。窓の外は灰色に染まり、何日も同じ朝を繰り返しているような錯覚が女を包んだ。


バスに揺られてショッピングモールへ向かう間も、女の胸にはひっそりとした苛立ちが溜まっている。隣に立つ男の肩が無遠慮に触れてきて、女は内心で小さく吐き捨てる。


――うざいんだよ、寄んなよ、気持ち悪い。


前に立つ女子高生が甲高い声で笑い出すと、さらに苛立ちが膨れ上がる。


――うるせえな、黙れ、馬鹿みたいな声出しやがって。


女は目を伏せると、小さく息を吐き、その悪態を胸の中に押し込めた。


モールに到着すると女はロッカーの扉を勢いよく閉め、制服に袖を通した。身体が制服の形に収まると同時に感情はまた薄れていく。明るすぎる人工照明の下、レジに立つとすぐに客が列を作りはじめる。朝から期限切れのクーポンを出してくる老人が、レジ前で大きな声を張り上げているのが見えた。


――うるさい、クーポンぐらいで騒ぐなよ、ケチくせえ。


別の客が小銭をわざとらしくカウンターにばらまくように置き、その小銭を一枚ずつ拾う女の指先は冷たく、震えるような苛立ちが腹の底に澱のように溜まる。


――面倒くせえな、もっとまともに払えよ、頭悪いんじゃねえの。


彼女は口元に礼儀正しい笑みを貼り付け、胸の中に沈む悪態を黙々とレジ打ちのリズムに埋め込んだ。


休憩時間、バックヤードで一人スマートフォンを取り出した。無意識の動作だった。朝、壁越しに聞いた男の怒号が、わずかに耳に残っている。その声が何かを叫び続ける理由を知りたかったのかもしれない。


検索すると、画面には大量の動画が並んでいる。指を滑らせて一つを選び、再生ボタンを押した。イヤホンから流れてきた男の罵声は、朝聞いたものと同じ感情的で乱暴なものだった。


男はオンラインゲームで負けたプレイヤーを口汚く罵っている。「おい、飛んでくんなよ、邪魔なんだよ、死ねよ」「お前、頭悪すぎだろ、消えろ」「ほんと邪魔くせえ」


女はそれを聞きながら、胸の奥で奇妙な共鳴が起こるのを感じた。その言葉は日々彼女自身が客や同僚に対して吐き出したいと願っていた言葉そのものだった。耳障りで不快なのに、動画を止めることができず、気がつけば次の配信を再生している。男の声を聞きながら、女は胸の中の鬱屈がじりじりと焦げ付くような感覚を覚えた。



女はいつの間にか、男の配信をなんとなく見るようになっていた。職場のバックヤードの隅で一人スマートフォンを手に取り、イヤホンを耳に差し込んで無表情で画面を眺める。男の声は相変わらず感情的で乱暴だったが、その響きにもいつの間にか慣れ始めている。苛立ちが心に静かに降り積もる時間を、男の罵声だけがゆっくりと溶かしていくような気がした。


男のXもフォローしていたが、投稿は配信の告知以外には自慢か自己憐憫ばかりで、中には「配信見てる女、オフパコ歓迎だからDMしろよ」と露骨に書き込まれた下品な言葉もあった。そんなツイートには、誰からも反応がなく、フォロワーたちはそれを無視していた。女もまた、画面の向こうの男の薄ら寒い孤独を鼻で笑い飛ばしながら、そのくだらない投稿を無言で眺めていた。男が本質的にクズであることなど、女にとって最初からわかりきっていることだった。


配信の内容は日を追うごとにエスカレートしていった。男の暴言は次第に自制を失い、差別的な罵倒が増えていく。「雑魚は黙って消えろよ」「お前らみたいな馬鹿がいるからゲームがつまらなくなる」といった過激な言葉が、女の耳に何の抵抗もなく入ってくるようになった。職場での苛立ちが募るたび、彼女は無意識に休憩室でスマートフォンを開き、イヤホンを耳に入れる。男の声を聴いていると、自分自身が溜め込んだ不満が、代わりに吐き出されているような錯覚を覚えた。


だが、やがて男自身がゲーム内で致命的なミスを犯した。プレイヤーとしての腕前は凡庸であることを視聴者は気づいていたが、その日、男は見るも無残に失敗した。


「こいつマジで使えねえな」「散々偉そうに言っといて、戦犯はお前だろ」「自分の言葉どおりに死んでくれよ」


配信画面のコメント欄は瞬く間に激しい罵倒で溢れかえった。男の表情は硬直し、視線が泳ぎはじめる。明らかに動揺した彼は、必死に言葉を探しながら、画面の向こうの視聴者たちに虚勢を張った。


「じゃあ死ぬわ!」


その言葉は勢いだけで吐き出され、男自身が驚いたように、画面の中で目を見開いていた。数秒の沈黙が流れたあと、コメント欄には爆発的な勢いで罵倒や嘲笑が続いた。


「はやく死ねよ」「口だけかよ、今すぐやれよ」。


男はもう引き返すことができず、冷静さを失ったまま自らの言葉を取り消せないでいた。


女は職場の薄暗いバックヤードで、その映像をぼんやり眺めていた。イヤホンを伝ってくる男の声はいつもと違う響きを持ち、女の胸の奥に奇妙なざらつきを残した。彼の自暴自棄な表情が、画面の向こう側でわずかに震えているのを見たとき、女の胸にかすかな波が立った。それは苛立ちとも共感とも違う、名付けようのない奇妙な感情だった。


その翌日から、男の配信は明らかに調子を失いはじめた。暴言のキレがなくなり、投げやりな沈黙が増え、視聴者はそんな男をますます嘲笑し、煽り続けた。


「まだ生きてんの?」「早く死ぬんじゃなかったのかよ」


――男自身が繰り返してきた暴言が、今はコメント欄を通して彼自身に降り注いでいる。


男はその罵倒にまともに答えることができず、ただ配信の画面を虚ろな目で眺め、低く弱々しい声で悪態をつくだけだった。



その日、女はいつものようにショッピングモールのバックヤードでスマートフォンを開き、配信を見始めた。だが、その日の男はほとんど口を開かず、視聴者の煽りコメントが画面を流れていくだけだった。女は画面を指で滑らせ、少し苛立ちながらも、Xのタイムラインを開いた。そのとき、男の最新の投稿が目に入った。


「今日の夜、配信で死ぬ。」


その短い一言が淡々と表示されていた。男の虚勢や悪ふざけとは明らかに違う、不吉な沈黙がその言葉を取り巻いている。リプライ欄は「またかよ」「どうせできないだろ」と嘲笑するコメントに溢れていたが、女の指は画面の上でぴたりと止まった。


午後の勤務中、レジを打ちながら、女の心は落ち着かなかった。いつもと同じように客はくだらない文句を言い、無神経に商品を投げ出していく。だが今日は、いつもよりそれが酷く苛立たしく感じられ、静かに胸の奥がざわついている。女は何度もレジの時計を盗み見て、時間の流れを遅く感じながら仕事を終えるのを待った。


休憩室で再びスマートフォンを開くと、男の配信はすでに始まっていた。男はカメラの前で無言のまま座っている。荒れた部屋の背景には、雑然とゴミが散乱しているのが見えた。視聴者たちはいつも通り煽り続け、男を追い込んでいる。


「やっぱり死ぬ気なんてないんだろ?」「期待させんなよ、クズが」


だが男の表情は空虚で、これまでのような反応はもうなかった。


女の胸に、なにか得体の知れない苛立ちが生まれた。落ち着けないまま、画面を眺め続けていると、男はゆっくりと立ち上がり、部屋の隅へと歩いていった。


そこには何かが準備されている。視聴者もそれを察知し、コメント欄が一瞬静まり返ったあと、一気に荒れ狂った。女はその瞬間、無意識に立ち上がっていた。


バックヤードを出て、そのまま無言でショッピングモールを後にした。

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