文章のルーツとその行く末
白縫いさや
文章のルーツとその行く末
作品とは読み手の印象が全てであるから、自作の作風や文体や文章の特徴に対する自認は究極的には意味がないと思っている。しかしだからといって、普段書き物をしていてこれらに対し何の哲学もないということはもちろんない。頭に浮かんだものを過不足なく正確に、かつ効果的に、文章で表現してやりたいという意思はある。さもなければ自分が作品に対する責任を果たすことができないからだ。
この種の話題を取り上げるなら先に確認しておかなければならないことがある。良い文章とは何か。
私の定義は実に明快で、「書き手の言いたいことが読み手に正確に伝わる文章」、これに尽きる。主語と述語の扱い方にはじまり、指示語が示す対象や修飾語が修飾する対象は明らかであるか、文章を読解したときに意味は一通りに読めるか、といった文章としての基本は大前提。そのうえで、描写しようとする五感や感情までもが文章を通して読み手に想起されるか。もしもこれが叶うのであれば、時には美しいものをただ「美しい」とだけ表記することも厭わない。
それなりに苦労や努力を重ねた甲斐あって、少なくとも自認レベルではそのような文章が書けるようになってきたと思っているのだが、実際のことは私にはわからない。真実は読者のみぞ知る。たとえばここまでの文章の文意がすんなりと伝わっているのであれば、私の目論見は成功しているということだろうし、そうでないならばまだまだ修行が足りていないということなのだろう。
そんな話をここまで語ってきたわけだが、ここまでついてきてくれている人にはある程度私の文章というものが認めてもらえているのだろうと仮定して、自分の文章のルーツについて振り返ってみたい。
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書こうと思っているものがうまく書けないというのは歯痒いものである。どうしたらこの頭に浮かんだ物語に言葉で形を与えてやることができるか。自分の文章力の無さが恨めしい。
出来ないことを出来るようにするためには、練習や学習というものが欠かせないものだ。「学ぶ」の語源は「真似る」という言説があるようだが、その実際の是非はさておくとしても、真似から学ぶことが多いというのはひとつの真実なのだと思う。
そういうわけで、かつての私は、【自分が良いと思った文章を一言一句そのままノートに書き写す】ということをやっていた。なぜその文章は良いのか、どういうところが良いと感じる要因であったのか。そういうことを書き写しながらひたすら考えて、得られた仮説に基づいて自分でも文章を書いてみて、それで書き上がった文章について検討してみる。そんなことをただひたすらに繰り返していた。一文の長さ、漢字とひらがなのバランス、格助詞の使い方など、書き比べるなかで自分の血肉となっていく感覚があった。
その際、よくサンプルにしていたのは小川洋子や江國香織(ただし「なつのひかり」や「ホテルカクタス」などの幻想・童話系作品に限る)の文章だった。彼女らの文章は特に好みだったので、しばしば参考にしていたものだ。余談だが、他にも参考にした作家はたくさんいたが、面白いことに女性作家ばかりだった。男性作家はどうも性に合わなかったらしい。
そういった分析を下地に、自分が思い描いたものを描けるよう経験を積み重ねていくうちに、私はいくらか自分で納得できるレベルで描きたいものを描けるようになっていった。(もちろん完璧ということはないからこれからも研鑽を続けるのだが)
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文章とはどこまでいっても思考を表現するための道具であるから、文章を究めるのであればそもそも「何を描くか」という点も突き詰めなければならない。
現実に実体があるものを写実的に描写する場合もあれば、非現実的で実体もない抽象的なものを描く場合もあり、後者はなかなかに難しい。しかしそのようなものも、私の頭に浮かんだものである限りは、なんとなくの印象に近しい言葉を重ねて輪郭を与えていくということはできる。突き詰めて言えば、言葉で表現できないものはそうそう存在しないものである。
だからこそ、過去も含めて未だ誰も到達したことのない境地を夢想するということが大事になる。
たとえば「喜び」という感情。一言「喜び」といってもそこには様々な種類のものがある。手放しで喜べる「喜び」があれば、哀切を伴うような「喜び」もあるし、後からじわじわと滲み出るような「喜び」もある。あるいは、過去から現在に至るまでに無数に存在した喜びに大小の序列をつけるとして、その頂点にある史上最大の「喜び」というものも原理上存在する。それぞれの「喜び」を書き分けるには、まず自分自身が感覚としてこれらの違いを認識しなければならない。それは体験に基づいて認識できる場合もあれば、徹底的な想像の果てに疑似的な現実として認識できる場合もあるだろう。
人生という限りある時間と経験を考えれば、後者――想像力に基づく認識の拡張と精緻化――が自分の可能性を広げる鍵となるだろうと考えている。誰も考えないようなことや、誰も想像しないようなことに、どれだけ意識を傾けるか。文章を書くことを考えるなかでは、私にとってはこういう話題が不可避のものとなる。
たとえば私はこんなことを考える。
最後にここまで付き合ってくれた読者の方にこのような仮定を提示して筆を置くことにする。
人類最古の恋の感情とはどのようなものだったか。万葉集で語られるよりも以前、それこそまだ「恋」という概念もなかった頃の恋心。現代の我々は「恋」という言葉を知っているから、甘酸っぱくてじれったくて純心と独善性の境界が曖昧な感覚を、「恋」という一文字で共有できるが、まだそれが当たり前ではなかった時代のこと。人類で初めて恋をした人は、己の中に生じた衝動をどう捉えたか。そしてそれはどのように「性欲」と区別されたのか。
たとえばそういう感情を言葉で表現するとしたら、あなたはどうするだろうか。
文章のルーツとその行く末 白縫いさや @s-isaya
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