ふたり、ひとり

菊池静緒

ふたり、ひとり

 静子は橋の途中で立ち止まり、ひとり空を見上げる。その横顔に、水を含んだ風が吹き下りてくる。

 明季は静子を遠くに見ている。矯正器具に歪む歯が痛み始める。舌の先が、いつかの桜のかおりを思い出す。


 『ふたり、ひとり』


 水郷の古都は夏のさかりにある。

 日射しが白く照りつける。水路の流れがきらきら輝いている。うずまきに囚われて、ぐるぐるまわる真っ赤なほおずき。石垣の隙間から小さな雑木が枝垂れて、濡れそうな枝先に黒い揚羽蝶がつかまっている。

 少女が水路を流れてゆく。

 大人しく目を閉じている。皮ふは溶けた蝋燭のように、半分透き通っている。やさしくゆれて、重さを感じない。長い黒髪を水が梳る。少女の気配を察した小魚の群れは、ガラスが砕けたように散り散りになる。

 少女は静かに流れてゆく。

 目覚めたばかりの夢を忘れてゆくように、少女の姿はつかみどころがない。路地の奥のどこかで風鈴がゆれている。水の流れはおだやかで、水草の白い水中花が、少女のまわりでちらちらと瞬く。


 * * *


 三階の教室から桜が見える。花の洪水が、土の校庭をぐるりと囲んでいる。むせかえるような満開だ。その咲きざまは凄まじく、手負いの獣が死に際に暴れているようで、冷たい。

 明季は窓際の座席で、先から桜を見ている。頬杖をつき、矯正器具をつけたばかりの歯の痛みに、いらいらしている。「おはよう。」という、明るい誰かの声が、背中をざらりとなでる。明季はさっと笑顔を向けて、誰かのまねをして、明るく返す。

「おはよう。」

 桜の花びらが一枚、机の上にあるのを、明季は見つける。花びらは、不安定にふるえている。明季は花びらをじっと見る。いつからここにあったのだろう。窓は半分ほど開いている。冷えた窓枠の向こうで、やわらかな青空が、しんとしている。時折、湿った小さな風が入ってくる。女子生徒が数人、窓際に駆け寄ってきて、伸ばした首を並べて、桜を眺める。「きれいだね。」と、素直に笑い合っている。とうに見飽きているくせに。

 小学生の時から、中学三年生の今まで、まわりにいる人たちは全然変わらない。町の景色にすっかり溶け込んでいて、みんな穏やかで、優しく、家畜のように無害だ。

 桜の花びらはかすかな風に今にも吹き飛ばされそうにふるえ続けている。明季は、花びらを指先でつまんで、空に透かして見る。花びらは、窓から見える満開の桜のような色ではない。病気のように白くにごっている。

 この花びらも他の花びらと一緒に樹の上にあれば、きれいな桜色に染まるのだろうか。それとも、この一枚だけがにごって生まれついたのだろうか。女子生徒たちがきれいに笑い合う。生ぬるい風の線が、明季の首を絞めていく。

 明季は桜の花びらを口に入れる。舌の先がほのかにかおる。そっと、飲み込む。ぱたん、と窓を閉める。一時限目の数学の教科書を開く。


 引戸が開いて、担任教師が入ってくる。教師は引戸を閉めない。教卓に出席簿をゆっくりと置き、引戸の向こうを見て、無言でうながす。教室は自然と大人しくなる。

 少女がひとり入ってくる。

 確信犯のようにうつむいていて、顔がよく見えない。男性の担任教師より、少し背が高い。長い黒髪が蔦のように背中を覆っている。手の甲と向うずねの肌が、濡れた石鹸のように、しっとりと白い。教室は行儀のよいまま、そわそわし始める。

 少女の後から、母親がついてくる。長身と豊かな黒髪は、母親から引き継いだのだと一目でわかる。

「桜が散らないうちに迎えることができて、よかったですね。自慢の桜だからね、きれいだったでしょう。」

 担任教師は、少女の突然の転入の理由をあいまいにしたまま話を切って、にこにこと生徒たちに無言を強要する。

「それでは、自己紹介をしてもらいます。」

 少女は知らない制服を着ている。黒い制服ばかりの教室の中で、薄茶色のブレザーと胸元のえんじのリボンが、場違いに上品に見える。

 少女はうつむいたまま黙っている。生徒の誰かがやさしい咳をする。母親は心配そうに少女の顔を覗き込む。

「静子。」

 と、語尾を上げてささやき、少女の肩にそっとふれようとする。

「青森静子です。」

 あきらめたような、低い声を放り捨てて、不器用にお辞儀をする。つるつると髪が肩口をこぼれる。だらだらとした歓迎の拍手の中、静子はさらに深くうつむく。すうっ……、と拍手は消えてしまう。

 母親は静子にそっと寄り添い、無意識のように、静子のこぼれた髪を直している。

「皆さんには色々と、ご迷惑をお掛けするかも知れませんが、どうか宜しくお願いします。」

 医者に瀬戸際の手術を頼むように、深々と頭を下げる。静子もそれを真似する。直したばかりの髪が散って、ふたつ並んだ生っ白いうなじがそっくりである。もう一度、拍手がおこり、すぐにおさまる。

 明季はわざと気のない顔をしている。からだをぐっと椅子の背もたれに押しつけて、数学の教科書を読んでいるふりをしながら、ちらちらと静子を見ている。

「青森さんは引っ越してきたばかりなので、この辺りの生活にはまだ不馴れだと思います。みんなで助けてあげて下さい。」

 と、担任教師は静子より母親の方を心配するように言い、明季の方にちらりと目をやる。

「春川さん。昼休みにちょっと職員室に来てくれる?」

 明季は素直な返事をして、静子に優等生の笑顔を向ける。静子はうつむいたままで、身動き一つしない。かりそめの善意をこばむような、暗い口元をしている。ざあっ……、と満開の桜に風が吹く。


 担任教師との会話の中で、前の学校であった静子のいろいろがぽろぽろこぼれたが、明季は何も思わない。真昼の太陽が、職員室の中を白と黒の真っ二つにしている。

「春川さんだから、ここまで正直に言うんだよ。」

 と、担任教師は重たそうに、縁のない眼鏡を落として、話し疲れて黙る。卒業生の描いた桜の水彩画が、暗い壁の隅で色あせている。

 明季は座り慣れない職員室の椅子にむずむずしてくる。調子を合わせるのが面倒くさくなって、担任教師より先に口を開く。

「私は何をすればいいですか?」

 担任教師は眼鏡をかけなおす。

「とりあえず、一緒にいてあげて。」

 と、ため息混じりの愛想笑いをする。

 明季は昼休みの廊下を歩いている。足が軽い。思わず全身がぴんと伸びる。教室から聞こえてくる同級生たちの笑い声が子供じみていて、思わずにやにやしてしまう。

 弾かれたように廊下の角を曲がる。教室から静子が出てくるのが見える。廊下で待っていた母親に付き添われて、みんなより一足先に下校する。擦れ違う生徒たちに一々頭を下げながら、二人の背中はのろのろと遠ざかっていく。北側の廊下の窓は銀色にくもり、二人の輪郭は、ぼんやりとにじんで溶け合っている。

 明季は目を細める。静子の後ろ姿だけをはっきりとらえて、階段に消えるまで見送る。


 * * *


 深夜の大雨は、重たい朝日に追い払われる。桜の花をずいぶん散らせて、校舎に向かう道は花びら色に染まっている。雨上がりに浮かれ調子の生徒たちが登校してくる。花びらの水たまりを楽しそうに遠回りする。無様に散り残った桜を見上げる生徒は、ひとりもいない。桜に風はもう吹かない。ごつごつと折れ曲がる黒い枝の先に、点描のように新緑がのぞき始めている。

 静子は一人で歩いている。まわりの生徒たちを避けるように、桜の影に隠れている。まだ薄茶色のブレザーを着ているので、あからさまによそ者である。

 明季は静子の少し後ろを歩いている。声をかけても聞こえない距離を守っている。澄んだ空気の色が静子の肩をさわる。同じ色が明季の頬をなでる。

 ふと、まわりの生徒の列が途切れて、明季と静子だけになる。明季はようやく心を決めて、静子の背中に、そっと声をかける。

「おはよう。」

 静子は急に立ち止まる。さっさと追い抜こうと思っていた明季は、静子の不意打ちに、思わず自分も立ち止まる。静子は肩のまわりをだんだん強張らせて、弓を引き絞るような緊張感で、うつむいていく。明季は立ち去ることもできずに、ただ静子の後姿を見ている。濡れた地面が淡く光っているので、静子の影がない。

 明季は舌の先がひりひりと渇くのを感じる。泥水の中で窒息していく魚のように、口はぼんやりと開いたまま、強張って動かない。言葉が出ない。思わず、うつむく。

「放課後、陸上部の練習見に来なよ。」

 明るい声が聞こえて、明季は顔を上げる。黄色いランニングシューズを両手にぶら下げた女子生徒は、事も無げに静子に話しかけて、そしてその後も、思いわずらう暇もないように話し続け、さらさらと笑いかける。静子は黄色いシューズの女子生徒と並んで、桜の影を出て、朝日の中を歩き始める。

 朝練習を終えた陸上部員たちが、わいわいと明季を追い越していく。「おはよう。」と友人の女子部員たちが、明季の背中に声をかける。

「おはよう。」

 いつものように明季も応える。そして、桜の影の中をだらだらと歩き始める。踏み潰された桜の花びらが、泥にまみれて汚れている。桜から雨の名残りが落ちてくる。その一粒が明季の頬に当たる。くん、と小さく鼻を鳴らす。


 * * *


 女はじっとこちらを見つめている。

 町のあちこち、例えば四辻の角や電信柱の陰や芍薬の花のうしろに、墨汁の霧のように立っている。

 女は喪服を着ている。

 目も唇も糸のように細いが、何となく美人である。知らない顔だ。でも、遠い過去に会ったような気もする。

 ……。

 きっと女優だ。

 母親が働きに出るようになって、一人でテレビを見ている時間が長くなった。その頃に夕方の再放送で見た、退屈なサスペンスドラマの登場人物だ。

 そして人殺しだ。

 恋人殺しの犯人だと知っている。片方の手を背中に隠したまま決して見せようとしないのは、凶器の斧を持っているからだ。

 頭痛が弾けて、明季は不吉な夢から目覚める。

 国語の教師が漢文を朗読している。教室の半分が居眠りしている。

 明季は、喪服の女がまだこちらを見つめているような気がしている。頭痛を我慢しながら、女の気配に集中する。感じて、目を向けると、静子の横顔である。静子は教科書に肩を落としたまま、じっと涙をこらえているように見える。国語の教師がそばに来て、教科書の朗読している所を指でなぞってやる。静子はうなずきもせず、顔を上げようともしない。艶やかな髪の隙間から、白い三日月のような耳の先がのぞいている。

 明季は静子を見つめているうちに、なんだかぼんやりしてくる。静子は国語の教師がいなくなってから、ひとりでうなずき始める。そのままうなずき続けて、そのうち頭がぶるぶる震えだす。体は硬直していて、頭の震えだけが速くなっていく。壊れたぜんまい仕掛けの玩具のように、がくがくとゆれ始める。

 ごとん、と生首が床に落ちる。ごろごろと転がってくる。明季の足元で止まる。生首は髪の毛にまみれている。黒い奥に見える固く閉じた唇が、にやりと開きそうな気配がして……。


 * * *


 明季は湯疲れした体を冷まそうとして、湯船に腰をかける。しばらくぼんやりしている。初夏の早朝に、もう蝉の声がやかましい。

 あれ以来、静子に一言も話しかけられない。制服がみんなと同じ夏服に変わってからは、静子に話しかける女子生徒も増えてきた。休み時間には静子の席に数人の女子生徒が集まり、放課後に湖を見に行こう、と誘ったりしていた。静子はうなずくことはなかったが、暗い口元がほんの少しだけゆるんできたような気がする。明季は窓際の机に顔を伏せて、静子を視界の隅でただ見ていた。ぎらつく太陽が首筋を焼いた。

 頭を冷まそうとして、水をかぶる。細くて長い髪が、一筋の蛇になる。ずずず、と排水口が思いがけず大きな音を立てる。抜け落ちた髪がとぐろを巻いている。


 水路は涼やかに流れている。夏の太陽に成長した水草が、白い水中花を咲かせている。銀色の小さな魚が水底をきらきらと翻る。

 学校の帰り道、明季は静子をこっそり付ける。静子は道端に咲く野花を摘んだり、川面をじっと見つめたまま独言をつぶやいたり、摘んだ花をぽんと投げ捨てたり、歩き出したと思うと突然立ち止まったりする。

 夏雲のかたまりが遠くに見える。空の低いところが小さく鳴る。

 静子は橋の途中で立ち止まり、ひとり空を見上げる。その横顔に、水を含んだ風が吹き下りてくる。

 明季は静子を遠くに見ている。矯正器具に歪む歯が痛み始める。舌の先が、いつかの桜のかおりを思い出す。

 橋を渡った少し先に、静子の母親が立っている。化粧ですっかり変身して、丈の長い暗色の羽織物の下に、毒々しい花を染め抜いた薄生地を着ている。

 静子は母親を見つけて、咲いたような顔をのぞかせる。細長い足を蹴り出して、母親のそばへ駆け寄る。母親は静子をやさしく受け止め、白いハンカチを取り出して、静子の額に押し当てる。静子は母親の手を取り、遠くの夏雲を指差して、嬉しそうに喋り始める。母親は黙って、にっこりしたきり。

 静子はひとり話し疲れて、母親の肩に頭を預けるようにして寄り掛かる。母親は静子の耳元で何か言い、静子は素直にうなずく。ふたり並んで歩き始める。背中に垂らした髪が、鏡に映したように同時にゆれている。時折、お互いの肩に寄り掛かるように、笑顔をひらひらと見合わせて、ゆっくり歩いていく。四辻の角を曲がって、ふたりの後ろ姿は消える。

 明季は涙が乾くのをじっと待っている。ごうごうと空が鳴り、水っぽく匂う風が、明季のそばを吹き抜ける。ふと、耳の後ろ辺りに視線を感じて、思わず見返る。

 喪服の女が立っている。目のその辺りがはっきりとしないが、こちらをじっと見つめているような気がする。

 明季は静かに見つめ返す。風は喪服の女の方から吹いてくる。耳のそばで女のささやくのを感じる。明季の涙が乾くのと同時に、女は消える。


 * * *


 緑色の蛇は飴細工のように細く垂れ下がる。小さな鎌首をもたげて、じっと動かない。時折、彼岸花のような舌をちろちろとのぞかせる。

 駒崎は雨に湿った顔を両手でぬぐい、瞬きを繰り返す。伸びた坊主頭をざらざらとこすり、うんざりしたようにつぶやく。

「しかし、蒸すな。」

 豊岡は首と肩で器用にこうもり傘を支えながら、手帳にせっせと何かを書き込んでいる。厚ぼったい背広を着込んでいるが、白い額に汗ひとつかいていない。

「そうですか? 僕はわりと平気ですけど。」

 霧雨が緑色に景色を包みこむ。雨音がしんとしている。路地の遠くがもやもやとぼやけて見えて、青い傘を差しているらしい人影がひとつ、ゆっくりと横切っていくだけ。外壁が崩れた空家の屋根で、大きな白鷺が羽を休めている。

 駒崎は日に焼けた丸顔を水路に向ける。澄んだ流れに眠る死体の少女が、かすかにゆらゆらとゆれる。水草の白い水中花が、絵画の額縁のように髪や手足にからまっている。そよ風の吹く草原で眠っているような、無防備なまま夢を見ているような。

 駒崎は思わずじっと見つめる。霧雨にくもる川面の加減で、時折死体が瞬きをしているように見えて、いつまでも慣れずに、その度はっとする。呼びかけたら、目覚めそうだ……。定年を間近に控えた老刑事は、そんなことを考えてしまう自分に、ぞっとする。

「なんだか、眠っているみたいだな。」

 豊岡はいつの間にか手帳をしまっていて、鰻のような顔で川面を覗き込んでいる。

 駒崎は自分の思っていることを若造に見透かされた気がして、ごまかすように煙草をくわえる。

「死んでるだろう。」

 思いがけない駒崎の強い口調に、豊岡は頭を下げて、しゃんと直る。

「殺しですか。」

「知らんよ。そんなの。」

 駒崎の言葉が、煙草の煙と混ざり合って、消えていく。豊岡はやる気を削がれて、目に不満の色をにじませる。

「また煙草。やめて下さいよ、本当に。」

「何が。」

「天気予報と医者の言うことはね、聞かなきゃ駄目なんですよ。」

「いいんだよ。どうせ長くねぇんだから。」

 駒崎は霧雨に濡れないように吸いさしの煙草を持って、魂ごと抜け出したような大きな煙のかたまりを吐き出す。

「消して下さい。死にますよ、本当に。」

 豊岡はまた手帳を取り出して、ぺらぺらめくり出す。

「蛇、どこかへ行ったな。」

「蛇?」

「そうだよ。緑色の蛇。」

「蛇……。」

「見なかったのか?」

「はい。全然。」

 駒崎はさっと血の気が引く。水中の少女を見る。水底から真っ白い生首が、にゅうっと出てくるような、そんな気がして、背筋がぞっとする。

 屋根の上の白鷺が羽音も立てずに飛び去る。影はすぐに霧雨に消える。


 * * *


 臨時の全校集会で、葬儀の日時が書かれた紙が配られている。壇上に立った校長は、そわそわと落ち着かない小さな声でそれを読み上げる。生徒たちは氷のように静かに、神妙にしている。しかし、生活指導の教師が、一人での外出を控えるように説教を始めたあたりから、むしろだらだらしてくる。

 明季は誰もいない教室に、いる。白磁の花瓶があり、白い菊の花がふたつ咲いている。白い、冷たいかおり。呼吸ができない。視界が淡くにごり、からだがふわふわと沈んでいく。

 いつの間にか生徒たちが戻って来て、「きっと、午前中に下校になるよ。」と、嬉しそうに騒いでいる。明季は窓際の席に座り、白いかおりに飲み込まれたまま、生徒たちのお喋りを、ずっと遠くに聞いている。


 夏祭りは中止になる。地元の青年団は蛇のすむ奥深い草むらを刈ったり、深夜の自警団を組織したりと、せわしなく動き回る。毎日毎日、うんざりするような晴ればかりだ。白い太陽はいつまでも沈むことなく空にあり、陽炎の路地を未知の黒い獣が走り抜ける。だらだら流れ続ける毒のように澄んだ水と、やせ細った川魚が泳ぐだけの退屈な水郷の町は、突然映画の舞台になったような熱病にかかる。

 明季は水草の水中花をぼんやりと見つめている。あれ以来、喪服の女を見ない。季節に色をつけられたような水の匂いにいらいらすることもない。いつも首筋に冷たい風が吹いているような感じがする。水中にゆれる白い花を見て、きれいだなと素直に思える。

 橋の前を通りかかる。静子の母親が橋の向こうで帰りを待っている。乾いた路面が照り返して、厚化粧の生首だけが浮かんでいるように見える。明季は冷たい風に引き止められたような気がして、足が止まる。母親にかける言葉を探してみるが、水路のこちらから何を言っても、水音にかき消されて、母親には届かないだろう。だからと言って、橋を渡ることはできない。

 母親の首筋に緑色の蛇がいる。蛇は母親の首にするすると巻きつき、真っ赤な舌を震わせながら、母親の耳の中に入っていく。


 * * *


 柩車は水路の流れを逆さまに走っていく。洗い場で水まんじゅうをつまんでいた二人の老婆が、遠ざかる柩車に手を合わせる。子供は橋の上から真っ赤なほおずきを落としてしまう。腐った田舟と黒い揚羽蝶。子供がわんわん泣き始め、老婆らは去り、ほおずきは洗い場の前を流れていく。柩車はもう見えない。


 湖面にむらさき色の残照が映っている。空のあかりと、それを映す湖面のあかり。ふたあかりの時間は、すべての影が消える。

 弓形に続く暗い波打ち際に、明季は裸足で立っている。静子もとなりで、同じように裸足で立っている。赤と青と、にごった白を溶かした小さな波が、足首をすすぐ。波の冷たいやわらかさと、足の裏を刺す砂利の固さを交互に感じながら、明季は何度目になるのか、自分に同じ問いかけをする。どれくらいこうしているのだろう。

 静子がとなりにいる。どう言って誘ったのかわからない。二人とも制服のままだから、放課後に帰宅しないで湖に来たのだろう。でも学校の鞄を持っていない。自転車で来たのか。違う、自転車通学じゃなかったな、お互い。バスに乗ってきたのか。バスの中で何を話したっけ。なにも思い出せない。なぜ静子は私といっしょにいるのだろう。話したこともないのに。

 水を含んだやさしい風が湖から吹いてくる。明季は心を決めて、静子に向き直る。たしかに静子はとなりにいる。長い髪の先が小さくふるえている。静かに湖を眺めている。あの時と少しも変わらない、ぞっとするような横顔がそこにある。違うのは、手を伸ばせば届くところにそれがある、ということ。

 ぬるい水が足をすすぐたび、全身の感覚が少しずつ消えてゆく。溶けてゆく、といったほうが近いのかも知れない。感覚はあるのだが、その境界線があいまいだ。風と波と、空と水と、満開の桜と一枚の花びらと、ふたりとひとりと。

 静子が明季を見る。にこりと開いた唇の隙間から、矯正器具がちらりとのぞく。「ああ……」と、明季は心からほっとして、おもう。

「……やっぱり私と同じだ。」

 ほのかに桜のかおりがする舌の先。空と水はどこまでも溶け合う。矯正器具で歪む歯の痛みは、ひとつに白くにごってゆく。


 * * *


 水郷の古都は夏のさかりにある。

 日射しが白く照りつける。水路の流れがきらきら輝いている。うずまきに囚われて、ぐるぐるまわる真っ赤なほおずき。石垣の隙間から小さな雑木が枝垂れて、濡れそうな枝先に黒い揚羽蝶がつかまっている。

 少女が水路を流れてゆく。(おしまい)

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ふたり、ひとり 菊池静緒 @kikuchisizuo

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