第六節 白紙の地図

チュン…チュン……


 真っ白に輝く朝日が…少年を照らす。

 そして少年は…ゆっくりと腫れた瞼を開く…。


(結局…あれから寝ちゃってたのか…)


 地面は硬く、背中が痛い。それでも、夢を見た記憶だけが…ほんの少しだけ、体を温めていた。

 

「そろそろ…出発しよ…。」


 小さなバッグを肩に掛け、少年は歩き出す。

…その足音はまだ少しだけ、頼りない。


  ***


「……。水も食料も限られてるし…。どうにかして補充しないと…」


 深く息を吐きながら、木漏れ日を辿るように進む。

 風の音に耳を澄ませながら、少年は水の気配を探していた。


ガサッ……


「……?今、何か動いたような…。」


スッ……


──草むらから、素早く何かが飛び出る。


「……っ!?」


キュウッ!


 小さな生き物が、ぴょんっと跳ねて、すぐに止まる。茶色い毛並み…長く伸びた耳…丸っこい体、


──そう、うさぎだった。


「ビックリした…。

あまり驚かさないでよ…マー…いや、…もう居ないんだったね…。」


 その言葉を口に出しただけで、心がきゅっと痛んだ。名前を呼ぶ相手は、もういない。

 それでも、目の前の命が跳ねていくのを見送る少年の目は、どこか温かかった。


  ***


(……今までは、誰かが守ってくれてたんだ。ご飯も、お風呂も、寝床も……全部。

でも今は──自分でやらなきゃいけない)


 そう、誰もいない。この世界で、生きるには──。


ザーーーー……


「……。水の音……!水源が近くにあるんだ!!」


 少年は嬉しさを隠しきれず、急いで音の方へ駆け出す。


 しばらく走った先に、小さな川が姿を現した。側まで近づき、しゃがむと、


「これ…飲んでも良いのかな…」


 周囲は静まり返っている。鳥の声も、風の音も、聞こえない。


 そんな中で、少年はふと、ある声を思い出す。


─────

「サバイバルをする時は…まず、水の確保だ。でも、すぐに川の水を飲もうとするなよ?

 腹を下しちまうかも知れねぇからな!!」


「そんで、水を飲めるか、簡単に確認する時はな…」

─────


 川の水を見つめながら、少年は慎重に石をひとつ拾って投げる。

 すると、ぽちゃん、と音を立てて水が波紋を描く。


(濁ってない……泡も出てこない……変な匂いもしない……)


 少年はそっと手を伸ばし、水をすくうと、指の隙間から、透明な滴が零れ落ちる。


「……飲めそう、かな……」


 ゴクン…と水を一口飲んでみる…。


………。


「うん!ちゃんと飲めるね…!!」


(……ありがとう、ルイ兄……。ちゃんと…覚えてるよ……)


「とりあえず、水はここで調達出来るから…食料問題がなんとか出来たら、ここに拠点を作ろう。そこから毎日少しずつ進んで、出口を探してみるか…。」


(食料…か。肉は血抜きとかしないといけないし…その前にまず…狩りをしないといけないな…)


 少年は、水辺の周囲を歩きながら、木の枝や石を拾い集め始める。


「たしか…ルイ兄が昔言ってた。小動物を狙うなら、落とし穴よりも“くくり罠”の方が簡単で効率的だって……」


──森の中。若木の枝を曲げ、石を重しに使い、草の繊維で輪を作る。


(この枝が跳ね上がれば、足を括って吊れる……うまくいけば、ウサギくらいなら……)


 何度かやり直しながら、ようやく1つ目の罠が完成する。


「よし……試してみよう……。」


 ふと空を見上げると…日が傾き始めている事に気づく…。


「そろそろ、寝床も探さないと……地面だと…魔物が来た時、逃げられないかも……」


 辺りを見回すと…そびえる大木が目に入る。


「……あの木の上……登れそうだな……」


 少年は慎重に枝を掴みながら木を登る。中腹あたりに横たわった枝がいくつかあり、体を預けられる場所を見つける。


「ここなら風も通るし、寝返りしなきゃ落ちない……かな?」


 荷物をしっかり抱えて横たわる。夕暮れの空が、木の間から赤く覗く。


「……お母様……お兄ちゃん……」


 それ以上は言葉にせず、ただ静かに、夜の帳に身を委ねる。


  ***


(ん……。)


「もう朝〜?……あとちょっとだけ……」


………。


「そっか…昨日木の上で寝たんだっけ…」


 優しい夢から覚め、現実に目を向ける…。

 昨夜、慣れない体勢で寝たからか…身体中に凝った感覚がする…。

 

 腹の奥が、しくしくと痛み、昨日よりも、寒さが身に沁みた気がした。


(そう言えば…)


 罠を設置した所に目をやる…。


──だが…何もかかって居なかった。


「そんなに甘くなんて無いよね…」

「まぁ…考えても無駄か。前を向かないと……。」


 そう自分に言い聞かせながら、少年は気持ちを切り替えた。


「…食べ物よりもまず…火を確保しないといけなかったよね…」

「でも、僕に出来るかな……。」


 ちょうど良い大きさの枝を探すため、少年は少し歩き回ってみることにした…。


ぐぅ〜〜〜……


(お腹…空いたなぁ……)


 空腹な少年の目に…キノコが留まる…。


「美味しそう……」


 思わず手を伸ばしかけて…ぴたりと止まる。

 少年はまた、ルイ兄の言葉を思い出す…。


─────

「素人は絶対に、地面に生えてる草やキノコを口にするな。もし食べちまえば、最悪死んじまうぜ?」

─────


 少年は息を呑み…ゆっくりと手を引っ込めた。


「キノコは食べちゃダメ…だったよね…」


 胃がきゅうっと縮むような感覚がしたが…少年は少し身震いしながら…そこを後にする。


(……僕、まだ生きてる。ちゃんと……生きてる。)


  ***


(……火を起こすには、細くて真っ直ぐな枝と、平たい木の板が必要……だったはず。)


 そうして、少年は落ちている枝の中から、比較的軽くて柔らかそうなものを手に取った。

 

「これは……多分、乾いてる……?割ってみないと分かんないけど……」


 小さなナイフで表面を削ると、白い木肌が顔を出す。湿っている様子はない。


(これなら……いけるかもしれない)


 さらに周囲を探し、平たくて安定した木片も見つけ出す。


「これで……火が起きれば……」


 かすかな希望を胸に、少年は枝を組み合わせ、手のひらをこすり始める……。


ふー……


 息を吹きかけるが、火がつく様子はない。


(やっぱり…ダメなのかな…)


ボウッ……


 その音と共に、小さな火種が──かすかに、だが確かに生まれる。


「……やった……!これを、後は……」


 そう言いかけたその時──。


スゥ……


 何事もなかったかのように、淡い火が儚く消えた。


「……ダメ、か……。仕方ないよね……。

 それに、もしここで火をつけても、すぐに消えちゃうかも知れないし……」


 うつむく少年の背に、夕闇が静かに落ちていく。


(罠…作り直してみないとな…)


  ***


──また、今日もゆっくりと瞼を開く。


 その日は特に風が強かった。木々がざわめき、少年の身体を容赦なく冷たい空気が包む。


(……寒い。火を……火を起こさなきゃ……)


 両手を擦っても温まらない。水はあっても、食べ物はない。冷たい夜を越えるには、もう──これしかなかった。


 少年は、朝拾っておいた枝の束を地面に並べた。


「スピンドルは……これ。板は……こっち……」


 何度も頭の中で思い出す、ルイ兄の言葉。昔聞いた“火を起こす方法”を頼りに、少年は手を動かし始めた。


 細長い棒を板の窪みに押し当て、両手で挟んで擦る。


ギュッ、ギュッ、ギュッ……


 最初は乾いた音が響くだけ。熱も出ない。少年は額の汗をぬぐうこともせず、ひたすら力を込める。


ギュッ、ギュッ、ギュギュッ……


 少しずつ、板の表面が黒ずんでいく。細かな木屑が集まり、小さな凹みに落ちていった。


 そして──。


プス…………


 一瞬、白い煙が立った。


「……やった!」


 少年は咄嗟に手を止め、口を開けたまま煙の方を凝視する。


 くぼみの先、木屑の中に小さな火種が生まれようとしていた。


「……お願い……消えないで……っ」


 そっと火口を近づける。乾いた苔と木の皮、そして細く裂いた布きれを包むように重ねる。


 火種が、火口の中で赤く揺れる。少年は両手で包み込むようにそれを抱え、口を近づけて──。


フーッ……フーッ……


 少しずつ、慎重に、吐く息に想いを込めて吹きかける。


フーッ……


ボッ……!


 小さな炎が、ふっと舞い上がった。


──その瞬間、少年の顔に、確かな暖かさが触れる。


「……ついた……火……火が……!」


 言葉が震える。涙が、零れ落ちそうになる。


 だが、少年は急いでその炎を枝の上に移し、火が消えぬよう、大切に風を遮る。


「……ありがとう……ルイ兄……僕、ちゃんと出来たよ……」


 少年の眼に灯った炎。それは、寒さを凌ぐためだけのものではない。


 それは、失ったすべての中で、たったひとつ──少年が“自分の手”で手に入れた、最初の光だった。


  ***


 火が小さく燃える中で、少年は自分の手を見つめていた。


(……火がついた。僕にも……できたんだ)


 その温もりに背を預けながら、もう一度、思考を整理する。


「次は……罠を、改良しないと」


 昨日作ったものでは何もかからなかった。その原因を、少年は考える。


(ただの輪っかを木に結びつけただけじゃ…ダメだ。動物にバレるか、逃げられるか……)


 地面にしゃがみ込み、頭の中で設計図を組み立てながら森を歩く。


サク…サク……


 落ちている小枝、絡まりやすい蔓、しなやかな枝、そしてバネ代わりになりそうな木片。いくつかの素材を集めていく。


(たしか…くくり罠。ルイ兄が言ってた…地面に仕込む、跳ね上げ式のやつだ)


 小さな穴を掘り、細枝をバネにして、蔓で作った輪を設置。輪の上に草をかぶせ、動物の足が自然とそこを踏むようにする。

 最後に、石で目印をつけて位置を記憶しておく。


「……うん。昨日より、だいぶ罠っぽくなった。」


 土を払って立ち上がると、空は茜色に染まりかけていた。


 夕風がひゅうと吹き抜ける中、少年は木に登ってその夜を迎える。


 葉の間から洩れる星明かり。少年はそっと、ロケットを取り出す。


──そこには、笑い合う家族の姿。


「……みんな。僕……今日も、生きてるよ」


 誰にでもなくそう呟くと、風が少しだけ優しく吹いたような気がした。


  ***


 夜が明けきる前、少年は目を覚ます。


 まだ冷え切った空気の中、昨日仕掛けた罠の元へ向かう。

 

(頼む……。少しでいいから、何か……)


 ひとつ、またひとつと確認していく。そして──。


ガサ…ガサ……!


「っ!……いた……!」


 最後の罠──そこでもがいていたのは、小さなうさぎだった。片足を蔓に取られ、身動きが取れず、目を見開いている。


(……ちゃんと、かかってる)


 成功の実感と同時に、胸の奥に鋭く刺さるような感情が溢れ出す。


「……ごめんね。ほんとに……ごめん」


 両手が震えていた。ナイフを取り出すまでに、何度も深呼吸した。


──そして一度だけ目を閉じ、処理を終える。


 しばらくすると、

 焚き火の上で、串に刺した肉が焼ける。


ジュゥ………


 焦げた脂の匂いが、空腹の胃を痛いほど刺激する。


(ちゃんと、食べなきゃ……)


 少年はふと、背負っていたバッグを開ける。


「……あ」


 奥から、小さな木の瓶が転がり出る。


 それは、白い粒が詰まった、“塩”だった。

 

「……お母様……」


 記憶の中で、柔らかな声が蘇る。


─────

「非常時用のバッグにはね、塩をちゃんと入れてあるから。何も味がなくても、これさえあれば、ちょっとだけ食事が豊かになるわ。」

─────

 

 瓶の蓋を開け、指先で少しだけ塩をつまむ。

 焼けた肉にふりかける──じゅっ、と音が鳴った。


「……いただきます。」


 ゆっくりと、歯を立てる。嚙みしめる。

 獣臭さはあっても──それを超えて、塩が“生”の味を引き出していた。


「……あったかい」


 目頭が熱くなる。けれど、それは悲しみじゃなかった。


「ありがとう……お母様。僕……もう少し、がんばれるよ……」


 この一口は、生き残るためだけの食事じゃない。

 それは、“記憶の灯火”と“生きる決意”が宿った──初めての糧だった。


  ***


 日が昇り、また一日が始まる。


 火の名残が燻る中、少年は静かに荷をまとめる。


(……もう、そろそろ……行こう)


 少し痩せた体で、枝を杖代わりに、再び森の奥へと足を踏み出す。

 木々は相変わらず鬱蒼と茂り、苔むした地面には、何度も転びそうになる。

 それでも──もう、怖くはなかった。


(……きっと、出口はある。世界は……まだ、続いているんだ)


 朝露を踏みしめながら、静まり返った獣道を歩く。

 何度も遠回りし、罠の跡を確認し、乾いた木の実で飢えをしのいだ。


 夜は木の上で震え、雨に濡れた身体を火の残りで温める日もあった。

 それでも、あの日の炎が──その灯火の記憶が、少年を支え続けていた。


  ***


──そして、ある日の朝。


 ふと、足元の土の感触が変わった。

 踏みしめると、柔らかい苔ではなく、固い石の感触が返ってくる。


「……?」


 顔を上げた先、木々の向こうに、わずかに差し込む光。

 それは森の中とは明らかに違う──まっすぐで、広がるような光だった。


 少年は枝をかき分け、陽の方向へと足を早める。


 すると──。


サァァァァ……


 風の音が変わった。森のざわめきではない、開けた地形特有の吹き抜ける音。

 そして──視界が、開ける。


「…………」


 そこは、森の端だった。

 深い木々の帳を抜けた先に、乾いた大地と、果ての見えぬ空が広がっている。


 草の絨毯が、風に揺れていた。

 誰もいない……けれど、確かに世界が、そこにある。


──少年は立ち尽くす。


 振り返れば、もう戻れない深い森。そして目の前には、白紙の大地──。


 何も描かれていない。だが、それは“始まり”の証。


(……ここから、僕は歩いていく)


 誰も知らない地図を描くために。

 何かを取り戻すために。

 ただ、生き延びるだけじゃない──生きる“意味”を探すために。


 小さなロケットに手を添える。笑っている、あの家族の姿を胸に刻みながら。


「……行こう。」


 その歩みは、まだ幼く、危うく、頼りない。

 それでも、その足音は──確かに、未来へと響いていた。


  ***


──どこかの町。

まだ夜が明けきらぬ頃、薄明かりが差し込む小さな宿の一室で……


 薄い毛布をかぶった少年が、静かに瞼を開ける。


(……ここは……)


 石造りの壁、粗末な天井、古びた机……。

 思い出そうとしても、“昨日”が霞んでいる。


(……夢だったのかな……全部……)


 けれど、ロケットは胸元にあった。冷えた金属の感触が、確かに現実を告げていた。


「……行かないと。まだ……終わってないんだ」


──あの森の果てから、どれだけの時が流れたのか。

それを、アルセリオ自身も知らない。


 でもただひとつ、“まだ歩いている”という事実だけが、

彼を前へと導いていたのだった…。

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