第14話 放課後の涙と、差し出されたハンカチ
身体測定での一件以来、高遠蓮はクラスの中で少しだけ浮いた存在になってしまった。 彼の極端な反応は、潔癖症を深く理解していない他の生徒たちには奇妙に映り、「高遠って変なやつ」 「触られるのがそんなに嫌なのか」といった心無い陰口が増えた。
蓮はそれを敏感に感じ取り、以前にも増して人と距離を置くようになった。 休み時間は、自分の席に座り、二重のゴム手袋をしたまま、鞄から取り出した除菌シートで机を隅々まで拭いたり、手袋越しに持参した本を読んだりして過ごす。 教室の空気さえも汚れていると感じるほどに潔癖症は悪化していた。
その日の放課後、蓮は教室で荷物をまとめていた。今日は図書館の閉館日だったため、すぐに帰宅するつもりだった。 廊下を歩いていると、すれ違いざまに聞こえた男子生徒たちのひそひそ話が、蓮の耳に突き刺さる。
「おい、あれが高遠だぜ。触れられただけで叫ぶんだって。マジウケる。」
「マジかよ、やべーな。近づかねぇ方がいいぜ」
蓮の足が止まる。顔色がみるみる悪くなり、唇をぎゅっと噛みしめる。全身の感覚が研ぎ澄まされ、彼らの言葉が脳内で反響する。
「ちょっと、何言ってんの!」隣を歩いていた桜庭葵が怒って振り返り、男子生徒たちを睨みつける。
彼女の声は怒りに満ちていた。
「別に悪口言ってねーだろ! 授業で実際に見たこと言っただけだし。」
男子生徒たちは、悪びれる様子もなく、笑いながら去っていく。 葵はすぐに蓮の方を向いた。
「蓮、気にしなくていいよ! あんなやつら、蓮の気持ちなんて全然分かってないんだから!」
しかし、蓮はもう限界だった。体育館での出来事、好奇の目に晒されること、そして今言われた言葉が、彼の心を深く、鋭く傷つけた。「変なやつ」「やべーな」という言葉が、彼自身の人権を否定してるのだと感じられた。蓮は俯いたまま、震える肩を必死で抑えようとするが、こらえきれず、ポロポロと涙がこぼれ落ちた。
「ひっ……。」
泣いている姿を見られたくなくて、蓮は体育館裏の、人目につかない場所へと駆け出した。 そこは、先日葵が怪我をしたときに手当てをした場所だった。
「蓮!」葵が追いかける。
体育館裏の、古びた倉庫の陰。蓮は壁に背中を預け、膝を抱えて顔を埋め、声を押し殺して泣いていた。全身の震えが止まらない。 彼の意識は、涙が手袋に落ちて濡れていく感覚や、息苦しさに向かっていた。
「蓮、ここにいたの?」
葵が蓮の隣に、少し間隔を空けてそっと座る。彼女は何も言わず、ただ蓮の背中を見つめていた。少しの間、静寂が流れる。蓮の泣き声だけが、小さく響く。 蓮は、泣きながらも、自分の涙や鼻水が服や手に付くことを不快に感じていた。普段はすぐに除菌シートで拭き取るが、今はそれどころではなかった。精神的な苦痛が、身体的な不快感を上回っていた。
そんな蓮の様子を見て、葵は自分のポケットから、丁寧に畳まれた清潔なハンカチを取り出した。それは、石鹸の香りがする、真っ白な布だった。そして、何も言わずに蓮の前に差し出した。
「……。」蓮は無言で顔を上げ、濡れた目でハンカチを見る。
「使いなよ。私のだから、清潔だよ。この間、洗濯したばかりだから」葵は優しく言った。
蓮は少し躊躇したが、葵が差し出したハンカチを二重のゴム手袋の上から手に取った。彼はそのハンカチで、丁寧に涙や鼻水を拭き取った。
「ありがとう……」蓮は掠れた声で呟いた。
「もう大丈夫?」
蓮はこくりと頷いた。全身の震えは収まり、少し落ち着きを取り戻していた。葵は蓮が落ち着くのを待ってから、立ち上がった。
「帰ろう、蓮。今日はもう遅いし…。」
蓮は立ち上がり、ハンカチを丁寧に畳んでポケットにしまう。葵は蓮の隣を、あえて少しだけ距離を詰めて歩きながら、ぽつりと言った。
「私は、蓮が変だなんて思わないから。潔癖症なのは、蓮の個性だよ。気にすることない。」
蓮は顔を失せながら、言葉を放つ。「本当に?」
葵にも変だと思われてるように思えて来て、少し疑うように聞き返した。それに対し、葵は少し信頼されてるはずなのに疑われたことに対し、寂しくて悲しいように思うが、笑顔で蓮の質問を答えた。
「もちろん!本当だよ!」
と答えると連は、安心したのか、ハッとして顔を上げ、葵の方を見た。 葵は前を向いたまま、夕日に照らされた笑顔で歩いている。蓮は、自分の味方がここにいるという事実に、心が少し軽くなるのを感じた。涙は止まり、心の中のトゲが少しだけ抜けたような気がした。
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