第15話 悪化する潔癖と、終わらないルーティン

放課後の体育館裏での一件以来、高遠蓮の潔癖症は悪化の一途を辿っていた。 体育館での出来事や心無い陰口は、彼の心に深い傷を残し、「汚れている」という感覚を以前にも増して鋭敏にさせていた。



もはやそれは恐怖ではなく、日常を円滑に送るための絶対的な「ルール」となっていた。






蓮の生活は、二重のゴム手袋に守られていた。

一層目の手袋は、丈夫な使い捨てゴム手袋で、肌に密着している。これは、入浴時以外は家でも外さない、彼の素肌を守る最後の砦だった。

二層目の手袋は、一層目と同じく丈夫な使い捨てゴム手袋で、少し長めのタイプで手首の上、前腕の少し下あたりまでをカバーする。 学校にいる間は基本的には、ずっと着用していた。 この二層目を付け替えることは基本的にないが、二層目に関しては、手洗い、除菌などをしても汚れてると感じた場合は、二層目だけ交換するが、基本的には、汚れたと感じた際、この二層目の手袋の上から除菌シートでの消毒や石鹸での手洗いを行うのだ。 長めの手袋の縁は、制服や体操服の袖口にしっかりと差し込まれており、肌の露出は完全に防がれていた。






学校生活は、蓮にとって一層の苦痛となった。彼は家を出る前に、二層目の手袋を装着する前に、洗面所で定められた回数の念入りな手洗いをするようになった。 その動作は一切の無駄がなく、完全にルーティン化されていた。



授業中も、鞄から除菌シートを取り出しては、感情を表に出さずに淡々と二層目の手袋の上から机や自分の持ち物を拭く。少しでも何かが触れたと感じると、表情一つ変えずに消毒液を出し、手袋越しに手を消毒しまくる。



常に丈夫で少し長めのゴム手袋を二重に装着する姿は、クラスメイトたちからさらに奇異な目で見られた。 「また拭いてる」 「病院に行った方がいいんじゃないか」 といった声が聞こえるたび、蓮は無表情のまま、感情をシャットアウトした。



特にひどかったのは手洗いの回数だった。一度洗い終えても、廊下の手すりに少し触れたかもしれない、誰かが咳をした飛沫が飛んだかもしれない、といった微細な不安要素が頭から離れない。



「蓮、また手洗い?」桜庭葵が心配そうに水道場で声をかける。もう何度目かも分からない。



蓮は石鹸を泡立てながら、「……うん。さっきの授業で、隣の席の生徒の筆箱が机にぶつかったから」

と、事実だけを淡々と述べる。そこには恐怖やパニックの色はない。ただ、やらなければならない作業として、手洗いを行う。



彼は二層目の手袋をしたまま、石鹸で指の間、爪の中、手首まで、時間をかけて丁寧に洗う。洗剤の香りが強くなればなるほど、安心できる気がした。この洗浄という行為だけが、彼に心の平穏をもたらす唯一の手段だった。



「洗いすぎると肌荒れしちゃうよ」葵は手袋越しの蓮の手を見て、心配そうに言った。



蓮の手の甲は、一層目のゴム手袋の下で、すでに洗剤と乾燥で赤く荒れていたが、彼はそれすらも感情の範疇から除外しているようだった。



「汚れているかもしれない」という感覚の方が、彼にとってはるか耐え難い苦痛だった。


「……でも、汚いから」



蓮は洗い終えた手をエアータオルではなく、持参した清潔なペーパータオルで丁寧に拭き取る。そして、濡れた二層目の手袋の上から除菌シートで消毒する。一連の動作は、完全にルーティン化されていた。



休み時間のほとんどを、蓮は手洗いと除菌作業に費やすようになった。友人の相沢陸や高橋美桜も、そんな蓮の様子を見て声をかけづらくなっていた。



「最近、蓮の様子がおかしいな」陸が葵に尋ねる。



「……身体測定の後から、ちょっと敏感になっちゃって」葵は蓮を庇うように答える。



蓮自身も、自分の行動がエスカレートしていることは分かっていた。分かっていたが、止められなかった。「汚い」という感覚は、彼の理性を麻痺させ、強迫的な行動へと駆り立てる。



下校の時間になっても、蓮の手洗いは終わらない。今日の授業で触れたであろう全ての可能性のある汚れを脳内でリストアップし、それらが完璧に洗い流されたと感じるまで、水道から離られなかった。



「蓮、もう帰ろうよ、遅くなるよ」葵が根気強く待っている。



「ごめん、もう一回だけ……」

蓮はそう呟き、再び石鹸を手に取ろうとした、その時だった。



「もう十分洗ったよ」葵は優しい声で言い、蓮の手をそっと掴んだ。


二層目の長めのゴム手袋越しの接触だが、蓮はビクッと体を硬直させる。


「ほら、帰ろう? 私が一緒にいるから大丈夫だよ」




蓮は迷った。いつもなら、ここで手を振り払って洗い続けるところだ。 しかし、葵の真剣な眼差しと、自分を気遣う気持ちが伝わってきた。蓮は、洗い流せない不安を抱えたままだったが、葵に手を引かれるまま、水道から離れることを選んだ。



蓮の潔癖は、もはや彼の生活そのものを支配し始めていた。葵はそんな蓮の姿を見て、彼をこの苦しみからどうにかして救い出したいと強く願うのだった。

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