第6話 唯一の例外

中学生活が始まって一週間。蓮の潔癖症はクラスメイトの間でも知られるようになり、遠巻きにされることが増えていた。そんな状況でも、葵だけは変わらず隣にいた。



放課後、図書室で予習を終えた二人は、いつものように一緒に帰っていた。少し静かな帰り道、葵がふと蓮に尋ねた。





「ねえ、蓮ってさ、なんで私のことは平気なの?」



蓮は一瞬言葉に詰まった。ポケットから出した除菌シートで手を拭きながら、視線を足元に落とす。



「……なんでって言われても」



「だって、他の人が触ったものは手袋したり、拭いたりするのに、私が触ったものは、肩とか軽く叩かれても、すぐ拭けばなんとか耐えてるでしょ?」


「いや、拭いたりするのは葵に対してでも変わらないと思うけど…。」


「いや、全然違うよ!拭き方が私とそうじゃない人とでは、違うよ!」


「そう?」


「うん、そうよ!!例えば、健介に触れられたとき、徹底的に拭いてたりするじゃん!私の場合は徹底的じゃないよ!?」


「徹底的だよ…。でも…、言われて見ればそうかも…。」




葵の言う通りだった。蓮にとっての世界は「汚れた領域」と「清潔な領域」に分かれているが、葵だけは唯一の例外として、その境界線を自由に行き来できる存在だった。



「……葵は、」

蓮は少し考えながら、ゆっくりと話し始めた。


「綺麗な匂いがするから」


「えっ?」

葵は目を丸くした。予想外の答えだったようだ。



「石鹸とか、シャンプーとか、そういう匂いだけじゃない。なんか……葵と一緒にいると、周りの空気が綺麗に感じるんだ。僕の心が落ち着く匂い」




それは、小学生の頃のトラウマで世界が灰色に見えていた時、隣にいた葵だけが放っていた。温かくて柔らかな光のような存在感から来るものだった。彼女の周りだけは、いじめっ子たちの汚い言葉や泥とは無縁で、清らかな領域だった。

葵は蓮の言葉に、嬉しさと少しの照れくささが混じったような複雑な表情を浮かべた。



「それって、私がいつでも清潔ってこと?」


「そうじゃないけど……うん、まあ、そういうこと」 蓮は顔を赤くしてそっぽを向いた。




葵は、僕の少しカサカサした指先をじっと見た。そして、昨日よりも少しだけ勇気を出して、蓮の除菌シートで拭いたばかりの右手を、葵がそっと自分の左手で握りしめた。

蓮は驚いて身体が硬直した。直接の肌の接触だ。すぐに手を離そうとするが、葵の温もりがそれを許さないでいた。



「蓮がそう思ってくれてるなら、私はいつでも蓮の『綺麗な空気』になってあげる」 葵は満面の笑みで言った。


「だから、安心してね」



蓮は、繋がれた手を見つめた。最初は恐怖心が勝っていたが、すぐに葵の温かさがそれを上書きしていく。数秒間だけ繋いだ後、蓮は意を決して手を引っ込めた。

そして、すぐにポケットから除菌シートを取り出し、繋がれていた手を丁寧に拭き始めた。長時間の接触はまだ無理だし、拭かないでいることもできなかった。それが今の僕の精一杯だった。




「……ありがとう、葵」



「拭いちゃった」 

葵は少し残念そうに笑うが、その目は怒っていなかった。



「でも、すぐに離そうと強引にしなかったし、決意してから離して、すぐ拭いたってことは、少しは怖くなかったってことだよね?」




蓮は、拭き終えた手をポケットにしまいながら、小さく頷いた。

僕の世界は、まだ「汚れた領域」が多いけれど、葵という「唯一の例外」が隣にいることで、少しずつ生きやすくなっている。この温もりがあれば、きっと大丈夫だ。そんな確信にも似た気持ちを胸に、二人は夕暮れの道を歩き続けたのだった。

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