第3話 隣の席の彼

入学して三日目。クラスの雰囲気も少しずつ落ち着き、本格的な授業が始まった。蓮にとって、学校生活は常に神経をすり減らす修行のようなものだった。



特に、隣の席との距離感が一番の問題だった。


蓮の右隣の席は、明るく元気なサッカー部員の男子生徒、河﨑 健介(かわざき けんすけ)だった。彼は悪気はないのだが、身振り手振りが大きく、よく蓮の机の境界線を越えてくる。



「おい、高遠、今日の英語の宿題やったか?」



休み時間、健介が僕の机に肘をつきながら話しかけてくる。僕は反射的に体を左に傾け、葵の方へと距離を取った。健介が触れた机の角が、まるでウイルスに侵されたかのように感じてしまう。


「……うん、やった」   僕はそっけなく答えた。


「見せてくれよー」健介はさらに距離を詰めてくる。


「だめだよ健介くん、自分でやりなよ」


葵が間に入ってくれた。健介は、残念そうにしながら見つめる。


「蓮、大丈夫?」



葵は僕の顔を覗き込み、心配そうに尋ねる。僕は小さく頷いた。


健介は少し不機嫌そうに「ちぇっ」と言いながら自分の席に戻っていったが、その後に残った「汚れた領域」が僕を苛む。僕は授業が始まるまでの短い休み時間で、その机の角を徹底的に除菌シートで拭き上げた。



「蓮って、本当に潔癖症なんだな」


「本当それ!」 健介の隣の席の女子が健介に共感する。 



健介が呆れたように呟く声が聞こえた。

周りの生徒たちも、僕の行動を奇妙なものとして見ている。小学生の頃の記憶がフラッシュバックする。「汚い」「触ると移る」。そんな言葉が頭の中を駆け巡る。



午後の授業中、先生がクラスを回って生徒たちのノートをチェックし始めた。先生が僕の前の席の生徒のノートに触れ、そのままの流れで僕のノートに手を伸ばそうとした時、僕は思わず「触らないでください!」と叫んでしまった。


教室中の視線が僕に集まる。先生も驚いて手を引っ込めた。




「た、高遠くん……?」


「あ、すみません、その……」僕は顔を真っ赤にして、言葉を詰まらせた。


「先生、蓮はちょっと変わってるんです。ごめんなさい!」葵が咄嗟にフォローしてくれた。




授業後、僕は職員室に呼ばれ、先生に謝罪した。先生は僕の事情を少し理解してくれ、「次は気をつけるね」と言ってくれたが、僕の心の中の罪悪感は消えなかった。



帰り道。


「蓮、言い過ぎだよ」葵が少し怒ったような声で言った。


「……分かってる。でも、無理だったんだ」


「先生もびっくりしてたよ。ま、蓮の潔癖症、みんなに知られちゃったね」



葵はため息をつきながらも、僕の隣を歩き続ける。



「ねえ、蓮」


「なに?」


「私が先生役になって、ノートチェックの練習してあげようか?」


葵は自分の掌を僕の目の前に差し出した。


「ほら、私の手なら平気でしょ?」




僕はまた、その温かい手のひらに指先で触れた。昨日よりも少し長く触れられた気がしたが、その後に徹底的に消毒をした。葵は、そんな僕を見つめながら笑う。


「やっぱ、消毒しないと無理か…。」 と言いながら笑い出す。


「うん…、ごめん…。」 と僕は咄嗟に言う。


「いや、大丈夫だよ!」 と葵を言う




しかし、葵だけが少しでも触われる存在だった。

僕の世界は、やっぱり葵だけが特別だ。他の誰にも理解されないこの病気を、彼女だけは笑い飛ばして、寄り添ってくれる。



隣の席の健介くんとは、まだまだ距離は縮まりそうにないけれど、隣の葵との距離は、確実に近づいている。そんな小さな希望を感じた、中学三日目の放課後だった。

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