第2話 葵の手のひら

中学入学から数日が経ち、少しずつ新しい生活のリズムに慣れ始めていた。 相変わらず、蓮にとって学校はストレスの多い場所だったが、休み時間に葵と話す時間が唯一の救いだった。 その日の放課後も、二人は一緒に帰っていた。 春の柔らかな日差しが、アスファルトの道に影を落としている。

葵は、隣を歩く蓮の手元をじっと見ていた。蓮はいつものように、ポケットから小さな除菌シートを取り出し、頻繁に手を拭いている。



「ねえ、蓮。そんなに拭いてたら手が荒れちゃうよ?」


「……慣れてるから」


「慣れてるからじゃないよ。」


「そんな拭いてない。」


「めっちゃ拭いてますけど…?」


「……頻繁に拭いてるだけ」


「それを拭き過ぎっつてば!」


「……カサカサしないから大丈夫だ」



蓮はそう答えるが、彼の指先は少しカサカサしていた。葵はふと、意地悪な考えを思いついた。



「ねえ、蓮、たまには手、繋がない?」



蓮は「無理」と即答した。いつもの反応だ。葵はしょんぼりとした表情を作って見せる。



「つまんなーい。私、蓮と手繋いで帰りたかったのに」


「……ごめん」




蓮は申し訳なさそうに眉を下げた。彼は葵のことが好きだ。本当は繋ぎたい。でも、他人と手を繋ぐという行為は、蓮にとって最もハードルの高い行為の一つだった。

葵は、そんな蓮の葛藤を知りながらも、めげずに続けた。


    「じゃあさ、せめてこれ!」


彼女は自分の右手を蓮の目の前に差し出した。その手は健康的な肌色で、少し汗ばんでいるようにも見えた。


「なに?」 蓮は怪訝な顔をした。


「バトンだと思って触ってみて?」



蓮は一瞬ためらう。しかし、それが葵の手であることに気づき、ゆっくりと自分の指先を伸ばした。蓮の指先が、葵の掌にそっと触れるが、ぴくり、と葵の手が震えた。蓮も緊張で息を止めているのが分かった。ほんの数秒の接触。蓮はすぐに指を離し、再び除菌シートで手を拭き始めた。


「ほらね、大丈夫だったでしょ?」



葵は少し得意げに笑った。



「……葵は、いいから」



蓮は顔を赤くしてそっぽを向いた。葵は、自分だけが特別扱いされているという事実に希望を見出していた。



「いつか、拭かなくても平気な日が来たらいいのにね」


「……うん」



その日の夕日も、昨日と同じように綺麗だった。蓮は除菌シートをポケットにしまい、隣を歩く葵を見た。彼女の体温が残る指先を、もう一度見つめた。拭いても拭いても消えない、温かい感覚。

僕の世界の境界線は、少しずつ曖昧になっていくのかもしれない。そんな予感を胸に、二人は家路を急いだ。

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