第1話 透明な境界線
春の匂いがする、中学の入学式の日。真新しい制服に身を包んだ僕は、張り詰めた空気の中、周囲を警戒していた。
僕の世界は、二つに分かれている。
消毒された清潔な領域と、それ以外の汚れた領域。
新しい教室、新しい机、新しい椅子。全てが不特定多数の生徒によって使われたものだ。僕は持参した除菌スプレーとウェットティッシュで、自分の席の周りを徹底的に拭き上げた。周りから奇妙な目で見られているのは分かっていたけれど、やめられなかった。これが僕の日常であり、僕を守る唯一の方法だった。
「高遠くん」担任の先生が僕の名前を呼んだ。
「隣の席は桜庭葵さんです。幼馴染同士、仲良くね」
先生の言葉に、僕は思わず隣を見た。そこには、いつもの通りの屈託のない笑顔があった。桜庭葵。家が隣同士で、幼稚園からの幼馴染。僕の唯一の理解者であり、唯一の例外。
「蓮!また隣だね!運命かも!」
葵は嬉しそうに僕に話しかけた。僕は反射的に身を引くが、彼女は特別だ。他の誰かならパニックになっていたけれど、葵は大丈夫。僕の心の中の境界線は、葵の前では曖昧になる。
「……葵は、いいよ」僕は小さな声でそう呟いた。
「えー?話しかけられるの嫌がったくせに」と葵は笑うが、僕が「葵はいい」と言った意味を察して、すぐに嬉しそうな顔になった。
授業が始まった。隣の席の生徒が少し身を乗り出すだけで、僕は神経質になった。他の生徒が触れた教科書、共用の文房具、全てが僕にとっては恐怖の対象だった。僕は自分の持ち物以外は触れず、授業中ずっと緊張していた。
休み時間になると、葵が僕の机に身を乗り出した。
「蓮、そんなに緊張してたら疲れるよ」
「……平気」
「そう?じゃあ、これあげる」
葵は自分の筆箱から消しゴムを取り出し、僕に差し出した。それはキャラクターものの可愛らしい消しゴムだった。
「みんなが触ったかも」僕は受け取るのをためらった。
「これはさっき売店で買ったばかりの新品だよ!蓮のために買ってきたの」
僕は驚いて消しゴムを受け取った。まだ袋に入ったままの、誰の手にも触れていない消しゴム。
「……ありがとう」
僕が素直に礼を言うと、葵は満足そうに笑った。
放課後、僕たちは一緒に帰路についた。いつもの道、いつもの風景。
「ねえ、蓮。たまには寄り道しない?」
葵が冗談めかして聞いてくる。僕は持っていた除菌シートで手を拭きながら、少し顔を赤くした。
「まだ……無理」
「ちぇー、ケチ」
葵はしょんぼりするが、すぐに笑顔に戻った。
「いつか絶対一緒に寄り道させるからね!それまで蓮のこと、いっぱい誘ってやるんだから!」
僕は何も言い返せなかった。僕のトラウマは根深い。小学生の頃に言われた「汚い」という言葉が、今でも耳から離れないでいるが、葵だけは違う。
僕にとって彼女は、世界で唯一、僕の「清潔な領域」に入ってこれる存在だった。 この透明な境界線が消える日が来るのか、僕にはまだ分からない。けれど、隣に葵がいるという事実だけが、僕の心を少しだけ軽くしてくれた。
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