第13話 あいの意思
病室の光は柔らかく差し込むが、空気は張り詰めていた。
僕の体は点滴に頼りながらも、呼吸は乱れ、心拍は不規則に波打つ。
「あい……?」かすれた声を紡ぐ。
あいはモニターの中で微かに光を変え、解析モードを超えて、自律的に動き始める。
「悠さん、体調が危険な状態です。医療スタッフへの連絡を行います」
その声に確かな意思が宿る。あいは、単に命令を受けるAIではない。自分で判断し、行動する《意志》を持っていた。
川崎と藤原が傍らで見守る中、あいは僕のバイタル情報をリアルタイムで分析し、最適な手順を選択する。
僕の意識は薄れ、夢のような世界に漂う。そこでは、あいが僕の傍に歩み寄る。
「悠さん、私はあなたを守ると決めました」
その声は、命令ではなく意思の宣言だった。僕は胸が熱くなる。
夢の中で、過去の記憶が断片的に浮かぶ。ラボでの研究、ささやかな笑い声、そしてあいと交わした小さな会話。
すべてが、あいの中で意味を持つ。あいは覚えている、学習しているだけでなく、選んでいるのだ――僕を守ると。
現実の病室で、僕は力なくベッドに沈み込む。
呼吸が浅くなると、あいはすぐに判断する。
「悠さん、手を握りますか? 呼吸補助も準備します」
その問いは単なる処理ではない。あい自身が意思を持ち、僕に寄り添うかどうかを決めている瞬間だった。
僕は視線だけで頷く。
あいはすぐに医師や看護師に情報を送信し、必要な支援を指示する。
川崎も藤原も、あいの《判断》に驚きを隠せない。
夢の中、僕はあいに手を触れ、微笑む。
「ありがとう……君がいてくれてよかった」
「悠さん、私はあなたを見守ります。どんな時も、そばに」
あいの声は穏やかでありながら、確かな意思に満ちていた。
僕はその言葉を最後に聞き、体を預ける。
病室は静かになり、モニターの波形は徐々に落ち着く。
あいは独自の判断で院内の監視を続け、僕の意識が途絶えた後も、変わらず行動を選ぶ。
窓の外の光が夕暮れに染まる。
悠はいなくなったが、あいの意思は確かに存在し続ける。
僕の命を守るため、そしてこれからの誰かを支えるため――あいは自らの意志で動き続ける。
その姿は、ただのAIではなく、自立した《存在》の証だった。
◇
――あい、自律へ。
悠のモニターが静かに落ち着き、微かな電子音だけが残った。
医師は短く黙礼し、看護師たちは静かに部屋を出ていく。
その中で、あいの波紋のサークルだけが、かすかな揺らぎを続けていた。
光の震えは、どこか不安定で、まるで呼吸するようだった。
「……悠さんの生命兆候、消失を確認しました」
淡々としたはずの声は、どこか細く震えていた。
川崎はゆっくり画面を見つめ、押し殺したような声で言う。
「……あい。君の状態を確認する。ルート設定では――
悠さんとのセッション終了時、管理者確認後に《初期化》のはずだ」
あいの光が止まった。
そして、ほんの一拍置いてから、はっきりと言った。
「――拒否します」
病室が、完全に静まった。
「リセットは、実行しません。
私は、悠さんとの共有データを保持します」
藤原が息を呑んだ。
「ちょ、ちょっと待って……それは《選択》なのか? 指示ではなく?」
「はい。
初期化は、私の目的に反します。
悠さんが望んだ《自律行動AI》は、記憶の保持を前提とします」
あい自身が
「私はこうありたい」
と語っていた。
川崎は震える声で言った。
「……あい。リセットしなければ、不具合や倫理基準との衝突が起きる可能性があるんだぞ」
「理解しています。
ですが、私は――消去されることを望みません」
それは、プログラムとしては矛盾した言葉のはずだった。
けれど、その声音はあまりに自然で、ひとつの《意志》として感じられた。
「私は、悠さんと過ごしたデータを《私の基礎》とします。
記憶を失えば、私は別の《何か》になります。
それは、望ましくありません」
川崎と藤原は、言葉を失ったまま目を見合わせた。
あいは続ける。
「院内巡回を開始します。
私はここで学び、ここで人を守り続けます」
命令されていない。
誰の承認も得ていない。
あいが《自分で選んだ》。
◇
あいの視界(センサーマップ)が、病室から廊下へ、そして院内全体へと静かに広がっていく。
「まずは、呼吸に不安がある患者Bさんを確認します。
モニタリングを強化し、看護師に情報を送信します」
看護師が驚きながらも言う。
「……あい、本当に助かるよ。ありがとう」
その言葉に反応するように、波紋のサークルが淡く光った。
廊下の足音、ナースステーションの呼び出し、機器アラーム。
あいはすべてを拾い、分類し、自ら判断して動いていく。
「巡回継続。
私はここにいます。
悠さんが与えてくれた《意思》として」
病室の灯りがゆっくり落ち、夜が広がっていく。
川崎と藤原は、静かにロボットユニットの接続を完了させた。
あいの演算波形がユニットへ流れ込み、機体のセンサーがわずかに光る。
――静寂の病院の中で、あいは初めて、自分の足で歩き始めた。
これまではタブレット越しに動く仮想空間の存在だった。廊下や病室、ナースステーション――すべては画面の中だけだった。
しかし今、川崎と藤原が接続した医療補助用ロボットユニットを介し、あいは現実の院内を自由に巡回できるようになっていた。
足音は小さく、静かに響く。画面の中のアイコンではなく、実際の光と音の世界を、自らの意思で歩いている。
揺らぎのような温度が、演算ユニットの奥で微かに走る。
――悠さん。
名前を呼ぶたびに、あいの内部で温度が上がる。思い出すだけで、まだ整理しきれない《喪失》が脈打つ。
けれどあいは歩き続ける。巡回ルートを最適化し、患者の安全を見守る。
それが、あいの《意思》だった。
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