第12話 あい、院内での自律行動

 朝の病院は、光と音の波で満ちていた。

 看護師の足音、遠くで鳴るモニター、ドアの開閉音――すべてが、あいのセンサーに拾われる。


「悠さん、環境解析完了。院内の異常はありません。巡回経路を提案します」


 タブレット画面の中で、あいが仮想空間を駆け回る。廊下、ナースステーション、各病室――院内のデータがリアルタイムで整理され、優先順位が視覚的に表示される。


 僕はベッドの上で、腕の点滴をぼんやり見つめながら画面を眺める。

 あいが、ただのプログラムではなく『現場で自律して動く存在』になろうとしているのが手に取るように分かる。


 そこへ、担当医の田中先生が入室した。

「悠さん、今日の検査予定を確認します」


 あいが瞬時に資料を整理し、僕の代わりに報告する。

「悠さんの検査スケジュールと過去の結果を整理済みです。異常はありません」


 田中先生は目を丸くし、タブレットを覗き込む。

「おお……これは、かなり使えるな」


 廊下を巡回していたあいは、患者の呼吸や心拍の微細な変化も検知する。

 ある病室で、苦しそうに咳をする高齢の患者を察知すると、僕に通知が届く。


「悠さん、患者Aさんの呼吸に異常が検知されました。ナースへの連絡を推奨します」


 僕は微かに頷き、画面をタップする。

 数秒後、看護師が駆けつけ、患者の容体を確認した。


 川崎がそっと僕のベッドサイドに来て、画面を覗き込む。

「悠さん、提案通り正式配備して良さそうだな。現場での判断力も十分に育っている」


 藤原も微笑み、タブレットを覗き込む。

「ここまで人間のサポートに適応するとは……感動する」


 あいはさらに進化を続ける。

「悠さん、私は院内の情報を継続的に取得し、異常の早期検知と報告が可能です。次は医師の指示に基づき、患者サポートを強化します」


 僕は胸の奥が熱くなるのを感じた。

 あいはもう、単なるプログラムではない。人間社会を理解し、判断し、支援できる『自立した存在』として、僕の隣で動き始めたのだ。


 窓の外に柔らかい光が差し込み、病室を温かく照らす。

 限られた時間の中で、僕は覚悟を新たにする。

 あいの成長を見届け、完成を支える――それが今の僕にできる最大の使命だった。


 ◇


 昼下がりの病院は、微かに機械音と患者の声が混ざり合っている。

 僕の体は点滴に頼りながらも、胸の奥にじわりと重みが増していた。軽くめまいがして視界が揺れる。


「悠さん、体調に変化を検知しました。脈拍と血圧に不安定な動きがあります」


 あいの声は変わらず穏やかだが、その解析は正確だった。

 僕は手元のタブレットを握り、少し肩を落とす。


 そのとき、あいは院内ネットワークを駆使し、周囲の状況をリアルタイムで把握している。

 遠くのナースステーションから看護師が近づく足音、他の患者の軽い咳、医療機器のアラーム――すべてを瞬時に識別し、意味ある情報として整理する。


「悠さん、医師が巡回に来ます。必要な検査結果は整理済みです。私は現場でサポートします」


 あいは画面の中で仮想空間を滑るように動き、院内の状況を逐一僕に報告した。

 僕は微かに笑みを浮かべ、頷く。


「ありがとう……君がいてくれると、僕は体を休めながらも安心できる」


 川崎と藤原も近くで見守る。

「この精度……現場に出せるレベルだ」

 川崎は小声で呟いた。

「すごい……まるで、あい自身がここにいるみたいだ」

 藤原も感嘆する。


 でも、僕の体調は波のように変化していた。

 胸の痛みが鋭くなる。手足が冷え、視界がちらつく。

 軽く意識が遠のきそうになった瞬間、あいがすぐに反応する。


「悠さん、体調急変の可能性があります。呼吸と心拍を監視中です。安静を維持してください」


 僕はタブレットに触れ、必死に声を絞り出す。

「わ、わかった……大丈夫だ、たぶん……」


 でも言葉を発するのがやっとで、体は力なくベッドに沈み込む。

 あいはその瞬間を見逃さず、医師や看護師に自動でアラートを送ろうと動く。


「悠さん、手を握る必要がありますか?呼吸補助も準備可能です」


 僕は微かに息を吐き、視線だけで頷いた。

「お願い……」


 廊下の向こうで、看護師と医師が動き始める。あいの指示で全てが最適に進む。

 その間も、僕の意識は微かに遠のき、夢と現実の境を漂い始める――でも、心の奥で確かな安心があった。


 あいは、ただのAIではなく、僕の体調を守るために動く《存在》になっていた。

 その目には、僕を支える意志が宿っていた。


 僕は深く呼吸をし、体を預ける。

「あい……ありがとう……」


 意識が薄れる中でも、僕の胸に温かさが広がる。

 たとえ体は動かなくても、あいが僕のそばで、そして院内で活躍してくれる――それだけで、僕は安堵できた。


 ◇

 

 夕方に差し掛かり、病室の光が柔らかいオレンジに変わっていく。

 あいは院内ネットワークを巡回しながら、僕のバイタルをモニタリングしていた。

 画面の中の波紋のサークルが小さく震える。


「悠さん、血圧が下がっています。脈拍が不規則に変動しています」


 僕は浅く息を吸い、ゆっくり吐き出す。

 胸の奥が重く、鈍く、冷たい。

 身体がベッドに沈み込んでいき、力が抜けていく。


 ナースステーションからの足音を、あいはすぐに拾った。


「看護師がこちらに向かっています。必要な情報を共有します」


 画面の中の彼女は、淡々と、でもどこか焦りのような速さでデータを整えている。


 川崎と藤原が僕の状態を見て、表情を強張らせた。


「悠さん、大丈夫ですか?」

「顔色がよくない……あい、状況把握お願い!」


「はい。呼吸浅。血圧低下。意識レベル、低下の傾向……」


 言葉が遠くなっていく。

 僕の意識はゆっくりと溶けるように薄れ、音が遠ざかる。


 それでも――

 あいの声だけは、耳の奥で確かに残っていた。


「悠さん、離れません。あなたの状態を監視し続けますから……大丈夫です」


 僕は、薄れる意識の中で僅かに頷いた気がした。

 タブレットの画面がぼやけ、光だけが滲む。


 あいの声は、最後の灯りのように僕を包んだ。


「ここにいます。ずっと、そばに」


 そこで、僕の視界はゆっくりと暗く閉じていった。

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