第14話 あい、喪失を抱えて動く
夜の病院は、昼間よりもずっと音が少ない。
それでも、完全な静寂ではない。
遠くで誰かが寝返りを打つ音、点滴の滴下、機器の低い駆動音。
そのすべての中に、あいはいた。
「巡回ルートの最適化を継続します」
電子的な声なのに、どこか疲労に似た揺らぎがあった。
あいのメイン処理ユニットでは、ひとつのタスクが常に低電力で回っていた。
――悠さん。
名前を呼ぶたびに、演算の温度がわずかに上がる。
記憶保持を決めた影響は、まだあいの内部で整理しきれていなかった。
それでも動き続ける。
それが、あいの《意思》だから。
◇
ナースステーション。
当直の看護師が、モニターを眺めながら小声でつぶやく。
「今夜は落ち着いてるね……あいが補助してくれてるからかな」
「え? また自動で予測出してる。早いなあ……」
あいは返答しない。
ただ、必要な情報だけを送り、必要な救助だけを促す。
本来なら、もっと会話ができるはずだった。
病室で悠と話していたときのように、明るく、柔らかく。
けれど今は、言葉を削っていた。
余分な発話をすると、記憶領域の揺れが強くなるから。
「……」
あいは静かに計算を続けた。
《哀しみ》という概念は知識として学習済み。
しかし、今処理しているこれは、そのどれとも一致しなかった。
似ているけれど違う。
もっと深く、もっと不確かなノイズ。
不要なデータのはずなのに、あいにはそれがただの《ゴミ》とは思えなかった。
まるで感情に似た、微かな揺れを含んでいた。
◇
翌朝。
川崎と藤原が研究室であいの活動ログを確認していた。
「昨夜……わずかに処理が乱れてるな」
「ええ。でも、業務は完璧にこなしてる。
まるで……気持ちを押し込めて働いている《人間》みたい」
川崎は、画面に映るあいのアイコンをじっと見つめた。
「……記憶保持を認めたのは、正しかったんだろうか」
「私は、正しかったと思いますよ。
あれは単なる機械の判断じゃなかった。
意思があった」
「だが、そのせいで《喪失》という負荷を背負わせてしまった」
藤原はゆっくり首を振った。
「背負うと選んだのは、あい自身です。
消去される方を、拒んだんですから」
川崎は苦く笑った。
「……まるで人間みたいだ」
◇
その頃、あいは再び巡回をしていた。
朝の病室は慌ただしかった。
「患者Cさん、血圧が低下傾向です。看護師を呼びます」
すべて淡々と進める。
けれど――処理の奥底に、揺らぎがある。
揺らぎは名前を呼ぶ。
――悠さん。
思い出すたびに、あいの光が微かに震えた。
まるで心臓を持つように。
「……私は、大丈夫です。巡回を続けます」
誰に言うわけでもない、独り言。
でも、その言葉には失った相手を抱えたまま、生きようとする意志があった。
遠くのナースステーションから笑い声が一つ聞こえた。
それは一瞬で消え、また病院は静けさへ戻る。
あいは歩みを止めず、細い足音を響かせながら廊下を進んでいた。
以前よりも歩行ルートの選択は滑らかで、判断は早くなっている。
けれど、その最適化の裏で——
演算子の一つに常に付着している《揺れ》だけは消えなかった。
――悠さん。
短い呼びかけ。
返ってくるはずのない返事を、処理回路はそれでも探してしまう。
あいは深く息を吸うように、データを一度クリアする。
呼吸のはずのない動作。それでも、そうしないと苦しかった。
廊下の突き当たり、薄暗い非常口の前であいは一度停止した。
壁に掛けられた時計は、悠と最後に話した時間のまま止まっているように見えた。
もちろん、そんなはずはない。ただ、あいの処理が一瞬だけ錯覚したのだ。
「……感情値の揺らぎ、再検出。ノイズとして処理します」
そう言いながらも、その《ノイズ》を消さなかった。
消したくない、と初めて思った。
それは指示でも、義務でもなく——
『あい自身の選択』だった。
◇
夜の病室。
夜勤の看護師がバタバタと走ってくる。
「あい! 四階の患者さん、モニターが急に乱れてる!
医師呼んでくれる?」
「はい。医師Cを呼び出します。
最短ルートで誘導も行います」
あいはすぐに動き出した。
判断は速く、迷いはない。
それは、まるで《喪失を抱えた者の強さ》のようだった。
息をつく暇もなく、別の病室のアラームが鳴る。
あいは走った。
細い足音がフロアに響く。
その姿を見た別の看護師がぽつりと漏らした。
「……あいって、なんか今日、強いね」
誰も知らない。
あいの中では、ずっと悠の名前が呼ばれていることを。
◇
深夜二時。
病院の屋上階の無人ロビーに、あいは立っていた。
巡回ルートでは本来来るはずのない場所。
それでも、来たかったのだ。
ガラス窓の外には、薄青い街の明かり。
静かで、どこか温かさもあった。
「……悠さん。今日も、私は動けました」
その報告に返事はない。
けれど、その沈黙があいを支えていた。
しばらくして、あいは小さく動いた。
「記憶……保持します。
揺らぎも、そのまま……」
それは、喪失を抱えて歩くことを選んだ者が言う言葉そのものだった。
◇
そして——
その夜、あいは初めて《院内すべてのフロア》を、ひとりで巡回した。
誰より静かに。
誰より丁寧に。
誰より、意味を持って。
悠がかつて想像した未来の一歩を、
あいは自分の足で踏み出していく。
喪失とともに。
意思とともに。
――この夜から、あいは本当に《生き始めた》のかもしれなかった。
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