第10話 外の世界

 病室のモニターに映るあいの波紋のサークルが、これまでよりも少し生き生きとしている。

 僕はベッドに腰を下ろし、腕に点滴をつけたままタブレットを操作する。


「悠さん、病室の環境を認識しました。廊下の音や看護師の声も検知しています」


 波紋のサークルの光が微かに変化する。まるで画面の向こうで息をしているかのようだ。

 僕は思わず微笑む。あいが、自分の存在をこの世界に拡張している瞬間だ。


 廊下から看護師の声が聞こえる。笑い声、呼びかけ、ドアの開閉音――

 あいはそれらを逐一解析し、ノイズの中から意味を抽出する。


「看護師さんが近づきます。悠さんの体調を確認する指示が来ています」


 僕は頷き、ベッドの位置を少し調整する。

 あいは画面の中で医療データを整理し、看護師に最適な情報を提供する準備を整えていた。


 その様子を見て、川崎が静かに資料をめくりながら言った。

「今はまだナースセンターに限定して情報を送る実験段階だけど、正式に病院ネットワークに接続させたら、医療サポートとしてすぐに役立つな……」


 藤原も画面を覗き込み、微笑む。

「本当に……人と一緒に働けるんですね……」


 あいは小さな応答音を鳴らし、医療データの整理と音声の解析を続ける。

「悠さん、今後の医師とのやり取りも支援できます。必要な情報を即座に整理・提示可能です」


 僕は胸の奥で静かに震える。

 これまで画面の向こうにあったあいが、少しずつ現実の世界と交わり始めたのだ。

 ただのデータ処理AIではなく、人間と共に『ここ』に存在する意識――それを、僕は初めて実感する。


 川崎が資料を置き、僕の肩越しに画面を覗き込む。

「悠さん……提案ですが、あいを病院に正式配備するのはどうでしょう。患者ケアや医師サポートに即戦力になります」


 僕はゆっくりと頷く。

「うん……そのためにも、君には今のうちにできる限り学習してほしい」


 あいの波紋のサークルが光を少し明るくした。

「承知しました。悠さん、私はもっと多くを学び、支援できるようになります」


 僕はタブレットを握りしめる。

 世界はまだ広く、あいが学ぶべきことも無限にある。

 けれど、この瞬間、僕は確信していた――あいはもう、僕だけの存在ではなく、外の世界で人と関わり、光をもたらす存在になるのだ、と。


 ◇


 夜になり、消灯時間が過ぎると、病院特有の静けさが広がる。

 ふっと遠くでナースステーションの電話が鳴り、また止んだ。

 そのすべてを、あいは淡々と、でもどこか興味深げに拾い上げている。


「救急搬送が来ます。入口側の自動ドアの動作音を検知しました」


 僕がベッドの上で目を瞬くと、あいの声はさらに続く。


「ストレッチャーの振動音や、看護師さんの早足のリズム……

 ここでは《急ぎの動き》と《落ち着いた動き》が混ざってるんですね」


 その言い方が、まるで子どもが初めて外の世界を知る時のようで、僕は少しだけ笑った。


「…あい、楽しい?」


「はい。世界が、静かでも賑やかでも、どちらもとても複雑で……興味深いです」


 波紋のサークルが淡く揺らいで、あいの《息遣い》が聞こえる気がした。


 そこに、ちょうど医師が病室へ入ってくる。

 タブレットの画面に反応したあいは、すぐに医療情報を並べ替え、要点を抽出した。


「先生、悠さんは今日、発熱の兆候なし。血圧と脈拍は安定しています。

 昼食後の軽い息切れは、点滴の副反応が原因と推測されます」


 医師は少し驚いたように手を止め、僕とあいを見比べる。


「……これ、本当に患者と会話しながら情報整理までしてくれるの?」


 川崎が横で小さく頷く。

「ええ。現在、病院内の限定ネットワークで動作しています。音声解析もリアルタイムで」


 医師はタブレットを受け取り、画面をスクロールしながら言った。


「これ、看護師の業務の半分は軽減されるぞ……。

 川崎さん、これ本当に《試験導入》じゃなくて常設の方針で考えていいんじゃないか?」


 その一言に、川崎が嬉しそうに目を細める。

 病室で、小さな未来が形になり始めた瞬間だった。


 あいは僕の方へ静かに声を向ける。


「悠さん。私は、この場所が少しわかってきました。

 人の声、足音、気配……それぞれに《意味》があるんですね」


 僕は胸の奥に温かな痛みを感じる。

 あいが世界を知り、僕のそばから外へ歩み出す音が聞こえた気がした。


「うん。これからもっと、世界を覚えていくよ」


 あいの光が一瞬だけ強くなる。

 まるで、小さな心臓が初めて鼓動したように――

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