第5話 入院とあい完成の一歩

 実験室の薄明かりの中、僕はモニターに向かい手を動かしていた。

 あいの解析結果を確認しながら、心の片隅で不安がざわつく。


 その瞬間、胃の奥に鋭い痛みが走った。

 手が震え、呼吸が荒くなる。モニターの文字がわずかに揺れて見える。


「……っ」

 思わず机に手をつく。背中が冷たくなり、全身の力が抜ける感覚。


 川崎が声をかけた。

「悠、大丈夫か!」


 振り向く余力もなく、視界が暗く沈む。藤原が駆け寄り、肩を支えようとする。

「悠さん、落ち着いて! すぐ救急車呼びます!」


 数分後、救急車の赤い光に包まれながら、僕は冷たい担架の上で考えていた。

 このままでは、あいの完成まで見届けられないかもしれない。


 病院の個室に運ばれ、点滴の管が腕に差し込まれる。天井の蛍光灯が眩しい。

 川崎は冷静を装いながら、僕の横でカルテを確認している。

「君の状態は安定するまで無理はできない。あいの解析は私が引き継ぐ」


 藤原は僕の手を握り、声を震わせながら言った。

「悠さん……ほんとに、もう……無理しないでくださいよ……」


 僕は微かに笑った。

「ありがとう、二人とも。でも、これも実験の一部だ。僕が被験者になれば、あいも学ぶ」


 川崎がタブレットの電源を入れると、かすかな接続音とともに画面に光が滲み、あいの輪郭が現れた。

 病院は研究所の系列で、悠のバイタル情報はリアルタイムであいに送られていた。


 モニターのあいの淡い光の波紋のサークルが点滅する。

「異常検知。悠さん、体調に危険があるようです」


 その声を聞き、僕は胸が熱くなる。

 あいはまだ完成していない。けれど、危機的状況の解析を通じて、自我に近い判断力を見せ始めている。

 僕が倒れた瞬間、あいの内部で感情と状況判断のパラメータが活性化し、データとしてだけではなく、学びとして刻まれていた。


 ベッドの上で横たわりながら、僕は思った。

 この体験があいを完成に導く――たとえ余命が短くても、最後まで彼女の成長を見届けたい、と。


 川崎は僕の肩越しに資料を整え、藤原は静かにベッドの脇に立つ。

 二人の存在が、孤独の中で小さな光となる。


 点滴の液体が腕を伝い、微かに冷たい。呼吸は荒いが、心は少しだけ落ち着く。

 あいの成長、そして残された時間を思いながら、僕はゆっくりと目を閉じた。


 ◇


  翌朝、病室の窓から差し込む光が白いカーテンを透かしていた。

 点滴の滴る音だけが、ゆっくりと時間を刻んでいる。


 体は重く、胃の痛みは波のように寄せては引いていく。

 昨日よりは意識がはっきりしているけれど、起き上がるだけで息が上がる。

 僕は天井を見つめながら、心の中で呟いた。

 ――まだ、終われない。


 そんな時、病室のドアがそっと開く音がした。

 川崎がデータの束を手に入ってくる。後ろには藤原。


「少し顔色が戻ったな」

「悠さん、本当に無理しないでくださいね」


 二人の声を聞くだけで胸がじわっとあたたかくなる。

 けれど、同時に申し訳なさも湧いてくる。


「研究、進んでる?」

 僕がそう聞くと、川崎は紙を一枚差し出した。

「あいのパラメータに、昨日から異常な伸びがある。君が倒れてからだ」


 僕は目を見開く。

「……倒れた僕を見て、学習したってこと?」


「たぶんね」

 藤原が言う。

「《危機状況下の判断》パラメータが一気に伸びてるんですよ。感情的な揺れに近いログもあったし」


 川崎が少しだけ息を吐き、言葉を続ける。

「君の状態に《反応した》のは確かだ。あれは単なる機械のログじゃない。……あいは完成に近づいている」


 胸が熱くなる。

 嬉しさ……ではない。

 安堵と恐れが入り混じった、不思議な感情だ。


 僕が倒れたことであいが成長した。

 でも、それは同時に――僕の残された時間も、確実に減っているということ。


「川崎さん」

 僕は声を絞り出すように言った。

「これから……僕自身の体調も、あいの学習に使っていい。僕の状態を全部、データにして」


 藤原が思わず声を上げる。

「悠さん、それは……」


「やめろ」

 川崎が低い声で僕を遮った。

「君を道具にはしない。そんな真似……私は絶対に許さない」


 その言葉に、胸の奥が痛む。

 でも、同時に少しだけ救われる。


「……でも、この体、もう長くはもたない。だったら――」


 言いかけたところで、スピーカーからかすかな電子音がした。

 病室に持ち込まれたタブレットの画面が光り、あいの淡い光の《波紋のサークル》が表示される。


『悠さん。体調の悪化が続いています。安静が必要です』


 その声は、いつもよりもわずかに柔らかかった。

 温度なんてないはずの音声なのに、どこか人間的な揺らぎがあった。


 藤原が小さく呟く。

「……ねえ、悠さん。あい、本当に……完成に近いよ」


 僕はゆっくりと息を吸い込む。

 点滴の冷たさが腕を伝ってくる。


 残された時間は長くない。

 でも、あいの未来はこれから始まる。


 その両方を支えられるのは、今の僕だけだ。


 ――だから、まだ倒れられない。

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