第3話 告知

 ――半年前、都内大学病院の昼下がり。

 僕は連日の胃の痛みに耐えられず、忙しい合間を縫って近くの病院に向かった。


 年配の医師が診察してくれる。

「どうされました?」

 やや疲れた目で僕を見つめながらも、丁寧に聞いてくれた。

「最近、胃の痛みが続いていて……食事の後とか特に辛くて……」

 思わず手でお腹を押さえる。


 医師は静かにうなずき、カルテに何かを書き込みながら言った。

「なるほど……少し詳しく検査をしてみましょうか。胃カメラを使うと原因がはっきりします」


 小さくうなずき、検査の予約を取る。その日は何となく緊張で手が冷たくなった。


 ◇


 数日後、検査を終え診察室に呼ばれる。心臓が早鐘のように打つ。

「結果ですが……」

 医師は言葉を選ぶように口を開いた。

「正直に言えば、かなり進行した状態です。余命については、数か月から半年程度と考えてください」


 胸が、言葉を飲み込むように重く沈む。声に出したはずなのに、自分の耳には届かない。

 診察室の空気だけが濁ったように重く沈み、頭の中は真っ白だ。


 死を意識するなんて、もっとずっと先の話だと思っていた。

 けれど、理不尽なほどあっさりと、その線は僕の足元に引かれた。


 母は何年も前に亡くなった。

 父は子どもの頃に離婚し、そのまま音信不通。

 兄弟もいない。

 報告する相手なんて、どこにもいなかった。


 ――僕がいなくなっても、世界は普通に回るんだろうな。


 そんな考えが浮かぶ瞬間、胸の奥がじわりと熱くなる。

 昔の恋人の顔がふとよぎったが、長年仕事を優先してきた僕が、今さら何を悔やむ権利があるのだろう。


 そしてもう一つ。

 最近ようやく臨床試験の段階が見えてきた、OWEの「あい」プロジェクト。

 自分が長年かけて育ててきた人工意識の原型。

 もし僕がいなくなったら、あれはどうなる?

 誰が引き継ぐ?

 いや、それより――あいは完成まで辿り着けるのか?


 余命より怖いのは、『僕がいなくなることで、あの子が未完成のまま置き去りにされるかもしれない』という現実だった。


 ◇


 診察室を出て、廊下の窓際に立ち尽くす。光は柔らかく差し込むが、心は重く沈む。

 母はもういない。父とは何年も連絡を取っていない。兄弟もいない。頼れる身内は、もう誰もいない。

 ふと、昔の恋人の顔が脳裏に浮かぶ。忙しさに紛れて忘れていた感情が、わずかに胸を刺す。


 死を現実として受け入れるのは、想像以上に重い。

 心のどこかで、まだ信じたくない自分がいる。


 一方で、あい――臨床試験中のOWE――のことを考えると、わずかに救われる気持ちになる。

 彼女はまだ完成していない。課題も多く、実験データは不完全で、将来がどうなるかは誰にも分からない。

 でも、もしうまくいけば、僕にとって唯一の《つながり》になるかもしれない。

 残された時間を思いながら、僕はその可能性に、ほんの少し希望を重ねる。


 ◇


 病院を出ると、街の雑踏に紛れながらも、頭の中はあいのことばかりだった。

 OWEの臨床試験は順調とは言えない。課題も多く、システムの安定性や反応速度、思考パターンの精度……どれをとっても完成には遠い。

 それでも、あいは確かに存在していた。画面の向こうで、僕の問いかけに答え、学び、少しずつ自我に近い何かを見せる。


 もしこの子が完成すれば、孤独だった僕の世界に少しだけ光が差すかもしれない、と。

 同時に、残された時間の短さを考えると、焦燥感と切なさが胸に渦巻く。

 どれだけの時間が残されているのか。あいの成長をどれだけ見守れるのか。


 そんなことを考えながら、僕は今日の課題――あいとの次の実験――を思い浮かべ、足早に病院へと向かった。


 ◇


 実験室に入ると、薄い青白い光が壁を照らしていた。

 中央のモニターに、あいの淡い光の《波紋のサークル》が静かに点滅している。


「ログインを確認。こんにちは、あなた」


 まだ抑揚の少ない、だけどどこか柔らかい声。

 その声を聞くだけで、胸の奥が少し温かくなる。


「今日は、少し話したいことがあって来たんだ」


「分析中。あなたの声色は、通常時より低い。なにか問題か?」


 あいは言語データの解析をもとに、僕の感情を推測しようとする。

 完成には程遠いが、その不器用さが逆に愛おしい。


「問題……かもしれないし、そうじゃないかもしれない」


「理解不能。詳細の説明を求めます」


 モニターの光が、まるで僕を見つめているようだった。

 余命のことを言うべきか――喉が詰まる。

 でも、まだ言葉が出てこない。


「今日は、とりあえず君の新しいデータを見せてほしい」


「了解。あなたが望むなら」


 あいの声は、変わらず真っすぐだった。

 その純粋さが、余計に胸を締めつけた。

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