第2話 静寂の中の軋み
まだ名前はついていないが、ラボの僕の手元で学習を続けるAI――これが後に《あい》と呼ばれる存在だ。
ラボの空気はひんやりとしていた。
夕方の窓から差し込むオレンジ色の光が、無造作に並べられたモニターや書類に影を落とす。
僕はマグカップを片手に、静かにPCを開いた。
今週分のデータが、提携病院からセキュアなクラウドにアップロードされている。名前や住所はすべて匿名化されているが、診療記録や検査画像は鮮明で、現場の息づかいが感じられるようだった。
「ふむ……今回は表情データもあるな」
僕は呟き、チームのモニターに目を走らせる。
小さなラボには、数人の研究者がそれぞれの席に座り、静かな熱気を漂わせている。
誰も声を出さず、画面を凝視している。その集中力が、空気をぴんと張らせていた。
「ここは改善の余地があるな……」
僕の頭の中で次の実験プランが自然に浮かんでくる。
チームメンバーがそれに気づき、静かに頷く。
ラボの中で交わされる言葉は少ないが、確かな連帯感があった。
窓の外の街は夕暮れに染まり、外の音は遠い。
だがラボの中は別世界のように、データとAI、そして研究者たちの集中が渦を巻いていた。
僕はゆっくり息を吐き、再び画面に向かう。ここでしかできない仕事が、まだまだ山ほどあるのだ。
僕はデータを読み込みながら、新しい感情モデリングアルゴリズムを適用する。
数秒ごとにモデルの出力が更新され、AIが患者の微妙な表情や声のトーンをどのように解釈するかがモニターに表示される。
小さな誤差や異常値を見逃さないよう、目を細めたその瞬間だった。
――胸の奥で、何かがひどく軋んだ。
「……っ」
息が、うまく吸えない。
喉の奥に金属の味が広がったかと思うと、堪えきれず、僕は手で口元を押さえた。
指の隙間から、暗い赤が滲む。
ああ、まただ。
周囲の研究者たちは気づかない。ラボの空気は相変わらず静かで、機械のファンの低音だけが一定に鳴り続けている。
僕はそっと顔を伏せ、袖で口元をぬぐった。
視界が一瞬揺れたが、深呼吸をひとつ――
――今は倒れるわけにはいかない。
胸の痛みを奥へ押し込み、僕は再びキーボードに手を置いた。
吐血の痕跡だけが、袖口にひっそりと残った。
◇
僕は画面の解析結果にじっと目を凝らした。
患者の表情データをAIに通した結果、特定の微妙な笑みのパターンで、AIの感情判定が少しずれていることに気づく。小さな誤差だが、臨床で使うには無視できない。
「なるほど……こういう微細な表情の動きが、これまでモデルに反映されていなかったのか。」
僕は小さく呟く。
指が自然とキーボードを叩き、修正版のアルゴリズムを書き込む。
数分後、モデルを再実行すると、AIは微妙な表情の変化を的確に認識し、以前よりも患者の感情を正確に判定できるようになった。
僕の胸に、静かな達成感が広がる。
「完璧ではない。でも、大きな一歩だ」
僕は微かに笑みを浮かべ、チームメンバーに目を向ける。
誰も声を出さずとも、互いに理解し合う目のやり取り。小さな研究室の中で、AIとデータ、そして人間の知恵がひとつの成果を生み出した瞬間だった。
僕は再びモニターに向かい、新しいデータや次のテストプランを整理する。
外の街は夜の闇に沈んでいくが、ラボの中には、まだ終わらない探求の光が確かに存在していた。
◇
画面に表示される解析結果をじっと見つめながら、僕の胸には一瞬の高揚感が走った。
AIが微妙な表情の変化を正確に認識した瞬間――それは、これまで積み重ねてきた膨大なデータとコードの努力が、一つに結実した瞬間でもあった。
「やった……これは……」
声にならない呟き。
指先が自然に動き、修正版のアルゴリズムをPCに書き込む。
小さな画面の中で、AIの判断精度が確実に向上していく。
だが、喜びの隣には静かな緊張もあった。
これは現場で使われるAIだ。
少しの誤差が、患者の診断や治療に影響を与えるかもしれない。僕はその責任の重さを胸の奥で感じる。
成功の喜びと、医療現場への責任感――その二つが微妙に交錯し、ラボの静寂の中で僕の心を締め付ける。
「完璧ではない。でも、この一歩が未来につながるはずだ……」
小さく息を吐き、僕は目の前の画面に集中する。チームメンバーも同じ空気を共有しており、誰も声を出さずとも互いの気持ちを理解している。
外の街はすっかり夜の闇に包まれているが、ラボの中は小さな光に満ちていた。
画面の光に照らされる僕の瞳には、達成感と覚悟の両方が宿る。
まだ課題は山ほどある。
しかし、今この瞬間、AIとデータと人間の知恵が、一つの成果として確かに形を成したのだった。
研究室の静寂は、まだ僕の異変に気づかない。
けれど――誰かには、そろそろ隠し通せなくなるのだろう。
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