第5話:愚者の贈り物 中
祇園病院までの道のりは、見知った景色のはずなのに、今日はどこか違って見えた。
観光地らしいざわめきは影を潜め、普段なら歩道を埋め尽くしている外国人観光客も、地元の学生たちも、まるで時間をずらして避難したかのようにまばらだ。
ぽつり、ぽつりと歩く人の気配だけが、夕暮れに薄く溶けていた。
「これなら、すぐに着きそうですね。」
環さんは、白鼠色の上着を揺らしながらスタスタと軽い足取りを続ける。
まったく後ろを振り返らないその後ろ姿に、こっちは必死に小走りでついていく。
「そうですね。人が少なくて……助かりました。」
そう返したものの、内心は別の意味で助かっていなかった。
何故なら──環さんの容姿はあまりに人目を引くものだったからだ。
深い濃藍の着物に白鼠色の上着、舛花色の瞳、整った顔。
その全てが、光を受けて淡く輝くように見えるせいで、すれ違う人の視線が刺さる。
チラチラ見るだけなら許そう。
だが、中にはスマホを取り出し、勝手に写真を撮るやつまでいる。
物珍しそうに見る外国人、こそこそ指をさす大学生、
シャッター音が聞こえた時には、さすがに「削除しろ」と詰め寄りたくなった。
……なんでこの人、平然と街を歩いてるんだ。
環さんは、そんな視線やスマホを完全に無視しつつ、むしろ足取りを速めていく。
悠々と歩くというより、「気配が面倒だから離脱したい」という歩き方だ。
俺はその背中を見失わないよう、一生懸命ついていくしかなかった。
そして──観光客の気配が急に途切れる通りへ入る。
人通りの少なさは、さっきまでとはまるで別世界だった。
夕暮れの風がひゅうと通り抜け、古い家屋の影が長く伸びる。
「ここまで来れば、もう大丈夫ですね。」
環さんがふっと息を抜くように呟いた。
まっすぐ伸びた薄暗い通りを進み、緩やかな坂道を登る。
その先に──夕焼けの残光を受けて浮かび上がる、巨大な建物が姿を現した。
どっしりとした無機質な壁。
整然と並ぶ窓。
光のほとんど落ちた病棟の影は、まるで巨大な獣が口を開けて待っているようだった。
「……ここが、祇園病院……」
「さぁ、早く行きますよ。面会時間を過ぎてしまうのは困るので。」
環さんは振り返りもせず、またスタスタと中へ進んでいった。
ーー病院という場所は、独特の静けさを纏っている。
けれど、この日の祇園病院はいつも以上に空気が薄く感じられた。
待合室にいたのはわずか三、四人。
点滴を引いた老婦人と、付き添いらしき初老の男。
それから、看護師をじっと見ている少年。
どこもかしこも静まり返り、テレビの音だけがやけに大きく耳に刺さる。
「僕は受付で面会できるかどうか聞いてきます。椅子に腰掛けて待っていて貰えますか?」
環さんは、病院の静けさに溶け込むような柔らかい声でそう告げ、すっと受付へ歩いていった。
俺は指示に従い、待合室の端にあるひっそりとしたベンチに腰掛ける。
座った瞬間、背中に病院特有の冷たい空気がまとわりつく。
落ち着かない。
ここで待っている間、時間の進み方だけがどこか歪んでいるような気さえした。
受付では、環さんが穏やかな声で何かを説明している。
受付の女性は少し驚いたように眉を上げ、書類をめくり、また環さんに質問を返す。
やり取りは短くはない。
病院特有の形式的なやりとりだが、どこか慎重に、確認しているように見えた。
数分後。
環さんがふいに振り返り、俺に小さく手招きをした。
「では、305号室までご案内しますね。」
受付の女性が立ち上がり、俺たちに丁寧に会釈をして先導する。
俺たちはその後ろに静かに続いた。
祇園病院の廊下は、整然と白が並んでいるはずなのに、どこか薄暗く見えた。
夕暮れが差し込む窓の光が床に長く伸び、病室の扉は静かに並んで口を閉じている。
足音だけがコツコツ響く。
305号室までは、驚くほど近かった。
受付の女性が小声で説明する。
「面会時間は……15分ほどになります。ご了承ください。」
その言葉がこびりつくように耳に残った。
たった15分。
その間に何を話すのか、何を見て、何を知るのか……
そんなことを考えているうちに、環さんが静かに扉をノックした。
コン、コン、コン。
「失礼します。」
扉が開く。
そして——目に飛び込んできたのは、ひとりの女性の後ろ姿だった。
ベッドの横、窓際の椅子に腰掛け、
夕暮れで赤く染まった京都の街をじっと眺めている。
「失礼します。等価交換屋・くをん堂です。」
環さんの声が落ち着いて響く。
すると、女性はゆっくりと首をまわし、こちらを振り返った。
そこにいたのは、あの写真に写っていた女性——船井綾子さんだった。
写真の中で柔らかく笑っていた彼女は、確かにここにもいた。
けれど、その笑顔はどこか細く、色が褪せていて、
頬はこけ、腕も細く、まるで光そのものが抜け落ちたようにやつれていた。
それでもなお——彼女は微笑んでいた。
驚くほど、眩しかった。
「ありがとうございます、くをん堂さん。初めまして。依頼者の船井綾子と申します。どうぞこちらへおかけになってください。」
弱った身体からは想像もつかないほど丁寧で、穏やかな声だった。
枕元の椅子を指さすその指は震えているのに、仕草には一切の迷いがない。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて座らせてもらいます。」
環さんがふわりと椅子に腰掛けると、慌てて俺も隣の椅子へと腰を下ろした。
病室の空気は、外の夕暮れよりもさらに静かで冷たい。
綾子さんは、申し訳なさそうに笑みを浮かべた。
「突然呼び出してしまって、ごめんなさいね。
どうしても……あなたにお願いしたいことがあるの。
病気の私でも、叶えてもらうことは可能かしら?」
目の前の彼女は、ただ助けを求めるだけの“依頼者”ではない。
死期が近いと自覚している目をしていた。
環さんは、一切揺れない声で答えた。
「もちろんです。等価交換屋・くをん堂は対価さえあれば、どんな願いも叶える——そういう場所ですから。」
その言葉に、綾子さんの瞳がほんのわずかに震えた。
焦茶色の眼差しが、まっすぐ環さんへ突き刺さる。
決意した人間の目だった。
「……ありがとうございます。では、私の願いを——」
一瞬、息を吸い込み、ゆっくりと続ける。
「私の夫に、私を忘れてほしい。 その願いを……どうか、叶えてもらえますか?」
あまりに静かで、あまりに強いその言葉は、
病室の空気を一気に締めつけた。
夕陽に照らされる綾子さんの横顔は、
決壊寸前の涙を、必死に笑みで押しとどめているように見えた。
「可能ですよ。」
環さんは、まるで「今日は晴れですね」と言うみたいに、
あっけないほど平然と答えた。
その声音は、喜吉さんのときとひとつも変わらない。
「もちろん、それ相応の対価はいただきます。
——ですが、その覚悟はもうおありのようですね。」
環さんは静かに目を細め、ゆったりと微笑んだ。
綾子さんは、弱々しい身体を支えるように指を握りしめ、
それでもまっすぐ環さんを見つめ返した。
「ええ……もちろんです。
私に払えるものなら、なんでも。なんでも支払います。
——彼は、私の……大事な人ですから。」
その声は震えていたが、言葉の芯は微動だにしていなかった。
「どうか……どうか、もう私を忘れて、幸せになってほしいんです。」
胸が締めつけられた。
“忘れて幸せになってほしい”——それは、愛しているからこそ言える残酷な願いだ。
気づけば俺は、考えるより先に言葉を発していた。
「あ、あの……なんで……。
なんで夫さんに、自分を忘れてほしいんですか?
夫さんは……本当に、それを望んでいるんですか?」
自分でも驚くほど必死な声が、病室の空気を震わせた。
綾子さんはゆっくりとこちらを振り返り、
病に侵されてなお揺るがぬ品を湛えた笑みを浮かべると、
静かに口を開いた。
「少し、昔話をしましょうか。」
その一言とともに、彼女の声は記憶の奥底を辿るようにゆっくりと流れ始めた。
——私が夫と出会ったのは、大学生のときでした。
当時の私は……正直、人付き合いにうんざりしていたんです。
自分で言うのも恥ずかしいですが、私の実家はそこそこ知られた大企業でしたから。
“家の名”を目当てに寄ってくる人ばかり。
母は父の社交のサポートで忙しく、父は会社を大きくするために、
私へ次々と“縁談”を持ってくる。
——そんな生活に、もう息が詰まりそうだったんです。
環さんは、滔々と語られる昔話を邪魔せず、ただ静かに耳を傾けていた。
「続きをどうぞ。」
促す声も柔らかく、しかし芯はぶれない。
——そんな息苦しい毎日の中で、初めて“家”ではなく“私”を見てくれたのが……喜吉さんでした。
驚いたんです。 ただ嬉しくて、安心して……
この人となら、きっとどんな生活でもやっていける。そう思いました。
苦しい時ももちろんありましたけれど、それでも、幸せでした。
——私が倒れるまでは。
夕陽がゆっくりと沈む気配の中、彼女の言葉だけがはっきりと響く。
——医師に告げられた病名は、聞いたこともないものでした。
治療法はなく、ただ進行を見守るしかない。
世界が音を立てて崩れるようでした。
けれど、それでも夫は私を支え続けてくれた。
入院費が増えても、仕事が増えても、
毎日欠かさずお見舞いに来てくれたんです。
でも……その度に、彼が少しずつやつれていくのが分かりました。
——そんなある日、両親が突然病室に来て……
そして黙って一枚の写真を見せたんです。
かつて私に言い寄ってきた、製薬会社の社長の写真でした。
両親は言いました。
“夫と離婚し、この人と結婚しなさい。
病気のあなたを支えられるのは、この人だ”
と。
震える声は、ここから先がどれほど辛かったかを雄弁に物語っていた。
——嫌です、と言いました。絶対に離婚しないと。
でも両親はしばらく黙ったあと、こう言ったんです。
“お前は……いつまで夫を縛りつけるつもりだ。
お前が妻でなければ、彼はもっと幸せな人生が送れていた”と。
——その言葉を、否定できませんでした。
胸の奥がひやりと冷える。
怒りとも悲しみとも違う、どうしようもない無力感が押し寄せる。
綾子さんは、俺の問いにゆっくりと戻るようにして目を向けた。
「先ほどの問いに答えましょうか。」
微笑みの色がすっと消えた。
「——夫はきっと、望んでいませんよ。」
その言葉は容赦なく、けれど愛に満ちていた。
「彼は……私が死んでも、ずっと私を背負って生きようとするでしょう。
でも、それは……彼の人生を壊してしまう。
彼には、私なんかよりずっと幸せになる権利があるんです。」
言葉の端が震え、喉が詰まったように沈黙が落ちる。
「……私のことなんて引きずらず、別の誰かと笑ってほしい。
子どもだって……持てるなら持ってほしい。
私のせいで、彼の未来を奪いたくないんです。
——だから忘れてほしいの。」
涙は流れない。
涙は、とうの昔に流し切ってしまったのだ。
環さんはその語りを一言もさえぎらず、
やがて静かに告げる。
「では——願いは
『夫・船井喜吉の記憶から、あなたの存在を完全に消す』
ということでよろしいですか?」
綾子さんは、迷いなどひとかけらも見せず、静かに頷いた。
「はい。……お願いします。」
病室のカーテン越しに差す夕陽は、相変わらず優しくて温かい。
だからこそ、この願いがどれだけ残酷で、どれだけ献身的なのかが胸に刺さる。
——なんて、残酷で。
——なんて、優しい願いなんだろう。
拳を強く握りしめても、胸の痛みは消えてくれなかった。
「——では、対価の話に移りましょうか。」
病室の空気が、すっと張りつめた。
夕日の色は柔らかいのに、環さんの声だけが静かに鋭い。
「依頼者・船井綾子さん。
あなたが夫から“あなたの存在”を消したいと願うのなら——」
白鼠色の袖が、ゆるりと揺れる。
「対価として支払っていただくのは、
“幸せだったという感情”です。」
その言葉が落ちた瞬間、
胸の奥が締め付けられた。
「……幸せ、だった……という感情?」
綾子さんは、自分の胸にそっと手を当てた。
驚きでも拒絶でもない。
ただ、静かに噛みしめるような仕草だった。
環さんは淡々と続ける。
「あなたがこれまで抱いてきた、
夫さんとの日々——
恋をして、選んで、笑って、泣いて、寄り添ってきた、
そのすべての“幸福だったという実感”。」
環さんの瞳が細く揺れる。
「それらは全て、あなたの中から消えます。
思い出は残ります。
でも、その思い出に“幸せ”という色はつきません。」
病室の時計の秒針だけが、コツ、コツ、と響いた。
「……それでも、支払えますか?」
少しの沈黙。
綾子さんは泣かなかった。泣けなかったのだろう。
けれど——
ゆっくりと、迷いなく頷いた。
「……ええ。
彼が……幸せに生きられるのなら。
私の“幸せだった”なんて、なくなっても構いません。」
その横顔は、あまりにも静かで、
あまりにも強かった。
環さんは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
その沈黙は、短いのに妙に深く感じられた。
そして、落ち着いた声で告げた。
「……わかりました。契約成立です。」
その一言だけで、病室の空気がきゅっと締まる。
だが環さんは続けた。
「ですが——もしかしたら、この契約を後悔なさるかもしれません。」
舛花色の瞳が、やわらかい光を宿す。
「ですので、
2日後の午後6時までは、僕はあなたの契約を受理しません。
その間、どうかよく考え、
そしてよく話し合って……決めてください。」
そう言うと環さんは、持ってきていた布製の鞄を静かに開け、
中から古びた羊皮紙のような書類を取り出した。
それを丁寧に広げ、綾子さんへ両手で差し出す。
「こちらが契約書です。
もし契約を見送る場合は
2日後の午後6時までに僕へご連絡ください。
その時は、いつでも……お待ちしています。」
決して急かさない。
ただ、静かに選択を託す声だった。
綾子さんは震える指先で書類を受け取り、
一行一行、まるで祈るように目を通していく。
顔の影が揺れ、紙の上に落ちる。
やがて——
ペンを手に取り、ゆっくりと署名した。
「……確認いたします。」
環さんは書類を受け取り、読み上げた。
「『船井綾子 契約内容:夫から自分の記憶を消すこと』
——内容に間違いはありませんか?」
綾子さんは、躊躇いのない声で答えた。
「はい。間違いありません。」
静謐な時間がすぎていく。
呼吸の音すら聞こえそうな沈黙。
やがて環さんは、深く一礼した。
「……ではこれにて契約終了です。
本日は、ご依頼ありがとうございました。」
ちょうどその時、
病室の外から、先ほどの看護師さんが俺たちを呼ぶ声がした。
「面会の方、そろそろ……!」
環さんは軽く頷き、俺に目で合図を送る。
俺も慌てて立ち上がり、綾子さんへ深く頭を下げた。
「失礼します。」
夕暮れの光と、静かな病室をあとにする。
ドアが閉まる前、最後に見えたのは——
契約書を胸に抱え、どこか遠くを見る綾子さんの横顔だった。
祇園病院を後にし、俺と環さんは夕暮れの街を黙って歩いた。
病院の白い灯りが背中に遠ざかっていき、代わりに夜の気配がじわじわと足元から上ってくる。
どうしてだろう、歩けば歩くほど胸の奥が重くなっていく気がした。
「…なんか、喜吉さんと綾子さん、二人ともすれ違ってませんか?」
気づけば、前を無言で歩き続ける環さんの背に向かって声を掛けていた。
風が強く吹き抜けたせいか、俺の声は思ったより軽く空に吸われていく。
「ええ、そうですね。二人の思いはすれ違っています。」
環さんは振り返らない。
足も止めない。
ただ前を見たまま、淡々と、まるで結果の見えている計算式を読み上げるみたいに答えた。
「正直、俺は今のままだとよくない気がします。
喜吉さんも、綾子さんも互いのことを想ってるのに…
このままだとすれ違って、二人とも大切なものを失ってしまうような気がして。」
心の奥にあるざらついた不安を、言葉の形にして吐き出す。
けれど、環さんの背中は何も言わず、ただ静かに歩を進めるだけだった。
その沈黙が、返事よりも重かった。
「環さん…環さんはどう思ってますか?」
胸の奥で何かがきしむ音がして、つい問いかける。
環さんは返事をしなかった。
その沈黙は、「考える必要はない」と言っているようにも、
「言ってもあなたは傷つくだけですよ」と慰めているようにも聞こえた。
どちらにせよ、重い。
くをん堂に着くまでの道のり、環さんはひとことも声を発さなかった。
靴音と、遠くの車の音だけが、静まり返った帰路にぽつぽつと落ちていく。
ただの沈黙じゃない。
今にも何かが崩れ落ちてしまいそうな、そんな沈黙だった。
何気なく入った店は、願いと代償を扱う等価交換のお店でした。店主の美青年と俺の不可思議な日常。 Kモブ @Kmob-syousetsu-umakunaritai
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。何気なく入った店は、願いと代償を扱う等価交換のお店でした。店主の美青年と俺の不可思議な日常。の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます