第4話:愚者の贈り物 上

若い男は、まるで床板の軋みに怯えるような足取りで、さっきまで俺が座っていたソファへと恐る恐る腰を下ろした。

乾いた喉を無理やり動かしながら俯き…それでも最後の望みを握りしめるように、ゆっくりと顔を上げる。


「では、お名前と依頼内容を教えてください。」


環さんの声は、とても穏やかなのに、妙に空気を刺した。


「ほ、本当に……本当に“どんな願い”でも叶えてくれるんですよね……?」


男の声は震えていた。

藁にも縋る、なんて言葉じゃ足りない。

“溺れて沈む瞬間に掴んだ最後の空気”みたいな、そんな必死さだった。


「もちろん。対価さえあればどんな願いでも叶えます。それが——この店のルールです。」


環さんはいつもどおり、人の良さそうな笑みを浮かべている。声色も優しいのに、どこか底知れなさを感じ背筋が冷える気がした。

男はひとつ大きく息を飲み込み、


「……わかりました」


と呟いた。

その手は明らかに震えているのに、決意だけは硬く、カバンの中へゆっくりと伸びていく。


取り出されたのは、一枚の写真だった。

そこに写っていたのは、腰まで届く黒髪を揺らす、美しい女性だった。

陽の光をそのまま纏ったみたいに明るい笑顔で、見ているだけで心が温かくなる。

環さんが写真を一瞥し、淡々と言う。


「……美しい女性ですね。」


その一言に、男は初めて笑った。

ほんの少し、ほんとうにわずかに——光を取り戻したような笑みだった。


「……妻です。」


「それで、この女性がどうかしましたか?」


環さんは柔らかい声で話の続きを促す。

男は、奥歯を噛みしめる音が聞こえそうなほど唇を押し閉じ、

それから、祈るように言った。


「お願いします……妻の病を……治してください。 それが、私の依頼です。」


その言葉が落ちた瞬間、店の空気がひやりと揺れた。

まるで“願い”が、すでにどこかで値踏みされているように。


若い男は、震える息をひとつ吐き出すと、写真を胸の前でそっと握りしめた。


「私……船井ふない喜吉きよしは、貧乏な家庭に生まれました。

親に大学へ行ける金なんてあるはずもなくて……必死に勉強して、奨学金を借りて、やっとの思いで入った大学で出会ったのが——彼女、綾子だったんです。」


そう言って、指先で写真の縁をなぞる。

その動きは、まるでそこに触れれば彼女の温度が戻ってくると信じているようだった。


「綾子は……誰もが知っている大企業の社長令嬢でした。

私とは、まるで住む世界が違う。

身分違いだなんて、そんな言葉じゃ足りないほどの差でした。」


男の口元が苦く綻ぶ。


「案の定、どちらの親族にも猛反対されました。

あちらには大きな縁談話まで来ていて……。

だから、私と綾子は——駆け落ちしたんです。」


言葉とは裏腹に、その表情は優しかった。


「裕福でも綺麗でもない小さな部屋でしたが……彼女と一緒にいられるなら、それでよかった。 どんなに貧しくても……私は幸せでした。」


環さんが静かに頷く。


「素敵な話ですね。」


船井さんは、ふっと曇った表情で続けた。


「……今年の三月末のことです。

綾子が突然、倒れました。

急いで病院へ運びましたが——医師から告げられたのは、原因も治療法もわからない“難病”。

前例も、治療例もない、と……」


そこまで語ったとき、彼の目の端に涙が滲んだ。


「……続けてください。」


環さんは続きを促した。


「日に日に……彼女の体は弱っていくんです。

見ているだけしかできない自分が悔しくて……。

綾子は“もう治らないのだから、治療をやめてほしい”と言いました。

でも……そんなの……そんなの、できるわけない!」


声が震え、写真を握る指に力がこもる。


「藁にも縋る思いで……ここへ来ました。

お願いします……!

俺に払えるものなら、なんでも払います!

どうか……どうか、綾子の病気を治してください……!」


最後の言葉は、絞り出すような祈りだった。


必死に頭を下げ続ける船井さんを、環さんはただ静かに、先ほどと変わらない優しい眼差しで見つめていた。


「……話は、よくわかりました。」


環さんが柔らかく息を吐く。


「では、あなたのその願い——叶えましょう。」


その声は穏やかでありながら、不思議なほど確信に満ちていた。




「……あ、ありがとうございます……!」


船井さんは顔を上げ、ぐしゃっと崩れるように喜びの色を浮かべる。


しかし、その目の前で——

環さんはすっと細い人差し指を突き出した。


「ただし。」


空気が、またひんやりと冷えた気がした。


「人の命……ましてや治療法のない難病を治すという願いには、当然ながら相応の対価が必要となります。

あなたは、それを支払う覚悟がありますか?」


環さんの舛花色の瞳が、ゆっくりと細められる。

その優しさの奥に、底知れない深さが覗いた。


船井さんは、一瞬だけ怯んだように肩を震わせたが——すぐに強い目で環さんを見返した。


「……勿論です。綾子のためなら……私は、私の持つものすべてを差し出します。」


その真っ直ぐな言葉は嘘偽りなく、胸を打った。

環さんは満足げに小さく頷くと、薄く、どこか妖しい微笑みを浮かべた。


「では——対価の話に移りましょうか。」


テーブルの上の空気が張り詰めた気がした。


「対価は……そうですね——あなたの“記憶”にしましょう。」


『記憶?』


俺と船井さんの声が、ほぼ同時に重なった。

環さんはまるでそれを待っていたかのように、ふわりと唇を上げる。

その笑顔は柔らかいはずなのに、妙に艶めいて、背筋がゾクッとする。


「ええ。あなたが奥様——綾子さんと過ごしてきた時間。

そのすべての記憶を、対価としていただきます。」


その声音は優美で、それでいて残酷なほど甘く——でも目を離せない、魔性そのものだった。



「そんな、それは流石に……! 酷すぎます!! 人の心とか、無いんですか!?」


先に、抗議したのは俺だった。

気づけば声が出ていた。

胸の奥が熱くなって、言葉が勝手にあふれてくる。

初対面の客を前にあんな優しく話を聞いておいて、

その対価が「愛した人の記憶すべて」なんて——重すぎる。

あまりにも残酷だ。


(そんなの……彼から綾子さんを奪うのと同じじゃないか!)


俺の声に、環さんは一度まばたきをしただけだった。

そうして俺に、いつものように綺麗な笑顔を向ける。


「なんでも支払うと仰ったのは……彼の方ですよ。」


淡々と。

怒るわけでもなく、冷たくなるわけでもなく——

まるで当たり前のことを述べるように。

環さんはどこ吹く風といった様子で、ゆっくり抹茶を啜った。

その所作だけが静かで、逆に腹が立つくらい美しい。


俺は言い返そうとして——

視界の端に、船井さんの姿が映った。

彼はまるで思考がどこかへ飛んでしまったみたいに、

唇を震わせたまま、声を出せずにいた。

握りしめた拳は白くなるほど力が入っていて——

それだけが、彼が必死に自分を保とうとしている証みたいだった。


「……記憶……全部……?」


かすれた声が、ようやく落ちてくる。

環さんは静かに頷き、言葉を重ねた。


「ええ。あなたが綾子さんと出会い、恋に落ち、

支え合い、共に歩いてきた時間。

それらを“あなたの中”から消し去るだけです。」


“だけ”——その一言が残酷すぎる。


だけ、なんて言えるものじゃない。


「でもご安心を。

あなたが忘れてしまっても……綾子さんは覚えています。

あなたに笑いかけるでしょう。

あなたを、愛し続けるでしょう。」


柔らかい声なのに、どこか底冷えする。


「ただ——あなたは、その理由を知らなくなる。それだけです。」


船井さんの肩が、がくりと落ちた。

俺は思わず一歩、彼の隣へ踏み出しかけた。


「……そんなの、耐えられるわけ……」


俺がそう言いかけたときだった。


「やります。」


俺と環さんが同時に船井さんの方へ向いた。

船井さんは、涙をこぼしながら、それでも真正面から環さんを見据えていた。

その瞳には恐怖も後悔もあった。

でも、その全部を踏み越えた“覚悟”が宿っていた。


「やります……。

綾子を……助けてください。

俺の記憶なんて……どうなってもいい。

彼女が、生きてくれるなら。」


部屋の空気が、静かに、深く沈んだ。

環さんは目を細め——

とても美しい笑みを浮かべた。


「……では、契約成立ですね。船井喜吉さん。」


その声音はやさしく、そして冷酷なほど決定的だった。





「——もしかしたら、この決定を後悔なさるかもしれません。」


静寂を切り裂くように、環さんの声が降りた。淡々としているのに妙に耳に残る、そんな声だった。


「ですので──二日後。二日後までは、僕は契約を受理しません。二日後の午後六時。それまでに何も連絡がなければ、僕は自動的に契約を受理します。」


パサリ、と机の上に白い契約書が並べられていく。真っ白な指先が紙を整えるたび、空気が冷えていくようだった。


「もし、途中で“やめたい”と思われたら、その時はまた店にいらしてください。どうするか決める権利は、あなたにあります。……くれぐれも、よく考え、そして話し合ってお決めください。」


差し出されたボールペンを前に、船井さんは一度だけ深く息を吸った。そして、迷いを押し込めるように、さらさらとペンを走らせ、自分の名を紙に刻みつけた。

環さんが契約書を手に取り、視線で内容を追っていく。


「……確認します。『船井喜吉 依頼内容:妻の難病を治すこと』──間違いありませんね?」


「はい。間違いありません。」


「では、承りました。……お気をつけて、お帰りください。」


その一言が告げられると同時に、何かの区切りがついたように船井さんは立ち上がり、どこか急くように玄関へ向かっていった。扉がゆっくりと開き、閉じるまでの時間がやけに長く感じられた。


——カラン、と鈴が鳴る。

そして、彼が去ったあと。

くをん堂に残ったのは、重たく沈んだ沈黙だけだった。




「……なんで、あんな残酷な対価を要求したんですか?」


沈黙の底で冷えきっていた空気を、俺の声が破った。自分の声なのに、やけに遠くから聞こえる。

環さんは一瞬だけ目を伏せ、それから静かに言った。


「そうですね。彼が“払える”もので、なおかつ“釣り合う”対価を選んだからです。」


淡々としているのに、その言葉は妙に重かった。


「別に、僕はなんでもよかったんですよ。本当に。ただ……この店が、『記憶がいい』と選んだので。」


「店が……選んだ? なにそれ、どういう——」


「非現実的だ、と言いたいのですよね?」


こちらの心を読んだように、環さんがくすりとも笑わず言った。


「ええ、確かに非現実的です。ですが、あなたも薄々気づいているでしょう? ここが“現実の理屈”では動かない場所だと。」


「それは……」


言い返そうとして、言葉が途切れた。あの店の入口をまたいでから、常識はもう役に立っていない。

例えば、 『奇怪』と呼ばれた、あの得体の知れないものたち。見間違いなんかじゃない。あれは確実に、現実の外側にある何かだった。


「……あなたも見たはずですよね。『奇怪』の数々を。あれを現実的と言う人はいませんよ。」


「……。」


否定する言葉が喉で消える。

環さんは机の端を軽く指で叩き、静かな調子で続けた。


「僕は、この店と“契約”しています。対価は店と僕、二人で話し合って決めますが……最終的な主導権は“あちら側”にあります。僕の意思は、あくまで副次的なものです。」


「……店が決めるってことか?」


「ええ。僕だって、本意ではありませんよ。」


そう言った環さんの顔は、珍しく苦しそうだった。

ただの形式的な言葉じゃない。本当に困っている人間の顔だ。


「ちなみに……もし“記憶”を店が選んでくれなければ、船井さんの対価は“右腕と右脚の機能”でした。二度と動かなくなる、という意味です。」


さらりと言うには重すぎる内容だった。背筋が冷たくなる。


「だから、あれでもまだ……優しい方なんですよ。いえ、彼から見たらどちらも優しくはないですね。」


環さんはゆっくりと息を吐き、言葉を締めくくった。


「——僕は、この店に仕えているだけなんです。」


その声音には、淡々とした静けさと、逃れられない宿命の影が混じっていた。




環さんは、スタスタと机の上の茶器や食べかけの菓子を手際よく片付ける。

その背中を追うのは、なんとなく気まずい。


俺はキャラメル色の柔らかいソファに腰を沈めたまま、身じろぎもできずにいた。

湯気の消えた抹茶の香りだけが、取り残されたように漂っている。

カチャ、カチャ……と茶器を洗う音が、くをん堂の静けさを切り裂く唯一の音だった。


(……眠くなってきたな)


瞼がじわりと落ちかけた、その瞬間——

カウンターテーブルの向こう側で、突然大きな音が鳴り響いた。


リンリンリン

リンリンリン……!


反射的に背筋が伸びる。

この店の雰囲気に似つかわしくないほど、やけにはっきりした生々しい電話のベルだった。


「すみません、廻くん。今、手が離せないので……代わりに出てもらえませんか?」


奥から、環さんの変わらぬ落ち着いた声が届く。


(え、俺が……?)


戸惑いと緊張で汗がにじむ。それでも意を決して、受話器に手を伸ばした。

カチ、と持ち上げる。


「……もしもし?」


『もしもし、等価交換屋・くをん堂さんですか?』


上品で落ち着いた、けれどどこか急いているような女性の声。

その声が、受話器の向こうから真っ直ぐ耳の奥に飛び込んできた。


「はい、くをん堂です。」


返事をした瞬間、受話器の向こうの女性は一拍も置かずに続けた。


『今日の午後5時30分。祇園病院305号室に来てもらうことは……可能でしょうか?』


祇園病院。

ここから15分くらいある、普通の病院だろう。

チラリと壁にある時計を確認すると、まだ5時前だった。今から行っても、十分に間に合うだろうが…。


「え、えーと……すみません!店主に確認します!」


慌てて受話器を胸の前に押し当て、奥へ向かって声を張る。


「環さん!すみません、電話!代わってもらえませんか!」


その瞬間、洗い物の音がぴたりと止まった。


「お客さんですか?」


パタパタと小走りで環さんが現れ、受話器を受け取って耳に添えた。


「はい、等価交換屋・くをん堂の店主・環です……ええ、ええ……それは——」


言葉の途中で、環さんの眉がほんのわずか、動いた。

何度かの言葉の応酬があって環さんは静かに頷くと


「では失礼します。」


と受話器を置いた。


「廻くん、僕はこれから祇園病院に向かいますが、君はどうします?」


白鼠色の上着をふわりと肩へかけながら、環さんが振り返る。

その動作は柔らかいのに、声の芯だけが妙に澄んでいて、拒絶も誘いも含んでいない純粋な問いだった。


「どうって……いうのは……?」


俺が思わず問い返すと、環さんはごく淡い息を吐いて、言葉を重ねた。


「そのままの意味です。もし君が——

さっきみたいに胸を痛めたり、嫌悪したり、納得できないと思うのなら……」


白鼠色の袖が揺れ、舛花色の瞳がまっすぐこちらを射抜く。


「今ここで、この仕事を辞めるという選択肢もあります。

辞めたいのなら、そのまま帰って——

そして、二度とこの店には来ないでください。」


その表情は、いつものふわりとした微笑みではなかった。

優しい声だが、その言葉はきっと冗談ではないのだろう。

逃げ道を塞ぐわけでも、試しているわけでもない。

ただ事実として選択肢を提示しているだけなのに……息が苦しい。


「俺は……」


思わず呟いて、そこで言葉が途切れた。


——俺は、どうしたいんだろうか。

たった一度の契約で、ここまで気持ちが揺れるとは思っていなかった。

ただの好奇心で来たはずの場所。

バイトだって軽い気持ちで引き受けた。

けれど実際は、客の願い一つで人生が狂う場所。

願いによっては人の記憶すら奪われる、自分の常識が通じない空間。


怖い。

でも——見捨てるように辞めたくもない。

それに、環さんのあの困ったような顔がどうしても心に引っかかったのだ。


「……環さんは、俺に辞めてほしいんですか?」


やっと出た声は、自分でも驚くほど弱かった。

環さんは少しだけ目を細め、首を横に振った。


「僕の気持ちは関係ありません。決めるのは、いつだって君です。

……ただ、こういう類の仕事は、覚悟が必要なんです。きっと、君は今日以上に胸糞悪い思いを今後していくことになります。それは、本来君が知らなくていい感情なんです。その感情を背負う覚悟はありますか?」


静かで、優しいけれど揺らがない声。

その言葉が胸に深く沈む。

俺は唾を飲み込み、大きく息を吸った。


「行きます。俺も……祇園病院、ついていきます。」


ほんの一瞬だけ、環さんの眉がゆるんだ気がした。

そうして、いつもと変わらない優しい笑顔を向けてきた。


「……そうですか。じゃあ廻くん、急ぎましょう。次のお客様がお待ちです。」


白鼠色の上着が軽く揺れ、環さんはくをん堂の扉へと歩き出す。

その背中を追うように、俺も立ち上がった。

胸に残る不安はまだ消えない。


だけど、それでも——前に進むしかなかった。

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