第3話:くをん堂、最初の仕事

「いらっしゃい。……よかった。来てくれたんですね。」


くをん堂の扉をくぐった瞬間、昨日と同じ線香の甘い香りがじんわり漂ってくる。

だが、同じはずの空気がわずかにざわついて見えた。


その中心に、今日も変わらず上品に座っていたのが——環さんだ。

キャラメル色のソファに静かに腰をおろし、薄い灯に照らされた濃紺の着物がふわりと陰影を作っている。

昨日よりも深い色で、落ち着いているのに、どこか艶めいて見える。

東雲色の襷でまとめた袖からは白魚のような腕が覗き、想像以上に目に毒だ。


(……え、腕出てるんだ……?  なんか……見ていいのかこれ……?)


胸の奥がむずむずして、思わず視線を逸らしたくなる。

でも逸らすとまた吸い寄せられる。どうすればいいんだ。

そんな俺の挙動不審など気にも留めず、環さんはひゅ、と軽やかに立ち上がり、

小動物みたいにパタパタと駆け寄ってきた。

近い。

めちゃくちゃ近い。

環さんの頭が俺の首元くらいにある。

環さん、本当に小さい。


(いや、実際どうなんだ……15センチくらい差がある気がする。)


「荷物はお好きなところへどうぞ。」


ほんわりした声はいつもどおりの落ち着きなのに、距離は相変わらず妙に近い。

俺は反射的に頷き、鞄をそろそろと足元へ置いた。

すると環さんが、ふっと首をかしげながら言う。


「よければ、着替えます? このあと多分汚れますから、着替えておいた方がいいですよ。」


「じゃあ……お言葉に甘えて着替えます。でも……その、環さんと俺って身長違いますし……入るかどうか……」


着物の貸し借りって、そんな気軽なノリでやっていいものなのか?

着物ってワンサイズだっけ?                            俺の中の和服の常識が崩壊しそうになる。

環さんはそんな俺を置いていき、迷いなくにっこり笑った。


「大丈夫です。よく泊まりに来る人の“大きいサイズの着物”があります。」


「……泊まりに来る……?」


思わず二度見した。

泊まりに来るって——どういう関係なんだ。


恋人——はないな。環さん男だし、俺より背の高い女性はそうそう居ないだろう。 友達? 親戚?家族?いや、でも環さんにそういう類の知り合いの気配はない。

俺の思考が迷子になっている間に、環さんは扇子を口元に当てて、さらりと続けた。


「その人……勝手に泊まりに来て、荷物全部置いていくんですよ。

 置いていく方が悪いので、汚しても問題ありません。」


「えぇ……いや、そんな理由で俺が着ていいの……?」


「もちろんです。」


常識を全て笑顔で押し流す、完璧に迷いゼロの表情だった。

俺だけが常識に取り残されてる気がする。


「その……友人さんに申し訳ないですが、じゃあ、借ります。」


「大丈夫ですよ、友人じゃないので。」


「……友人じゃないんだ……?」


友人ですらない人の着物を貸されているのか?

関係性の想像が余計に難しくなった。

考えれば考えるほど沼に落ちそうになり、俺は無言で環さんが奥へ姿を消すのを見送るしかなかった。

ほどなくして、環さんは弁柄色の着物と、女郎花色の襷を抱えて戻ってきた。


「はい、どうぞ。廻くんは身長180センチ以上ありませんよね?」


「ええ、178センチです。」


「なら問題ありませんね。彼、183センチなので少し大きいかもしれませんが。」


(あ、具体的な数字出てきた……)


俺は案内された部屋で素早く着替える。

弁柄色の着物は肌触りが良く、上質な生地だということがすぐ分かった。

羊羹色の帯が絶妙に締まって、誰が選んだのか知らないがセンスがめちゃくちゃ良い。


(これ……置いていく方が悪いどころか絶対高いだろ……)


襷も掛け、急ぎ足で入口に戻ると、環さんはすでに手にハタキを持っていた。


「よく似合ってますよ。」


「……他人の服が似合うって、なんか複雑ですね。」


「大丈夫です。あの人の着物、まだまだありますから。

 正直、そろそろ質に入れてやろうかと思ってたのでちょうど良かったですよ。」


「さっきから思ってたんですけど環さん、この着物の持ち主に妙にあたり強くないですか?」


「気のせいです。さぁ、掃除を始めましょうか。着いてきてください。」


笑顔のまま、扇子で扉を示す仕草さえ優雅で、

だけどやっぱりどこか恐ろしくて、俺はただ従うしかなかった。





環さんの後ろをゆっくりとついていく。

細い廊下を抜け、普段は扉さえ開いていなさそうな一角で環さんが立ち止まった。

ギィ……と音を立てて扉が開く。

中は、薄暗い物置のような空間だった。

湿り気を含んだ空気がふわりと流れ出て、思わず鼻で息を吸うのをやめてしまう。


そして——その部屋の中に、俺は言葉を失った。

棚にも床にも、見たことのない奇妙な道具が山のように積み上げられていたのだ。


鉄なのか木なのかすら判断できない謎の部品。

刃物のようで刃物じゃない形の何か。

明らかに用途不明の球体。

箱なのか棺なのか曖昧な長い物体。


どれも“普通の生活に絶対不要なもの”ばかりだ。


「環さん……あの、これ……なんですか?」


恐る恐る問うと、環さんは少し眉を上げて、あっさり答えた。


「あなたが着ている着物の持ち主が、店に来るたび置いていく物です。

 本人はまとめて『奇怪』と呼んでいました。」


「奇怪……?」


「そのままの意味だと思いますよ。奇妙で、怪しくて……よくわからない物、という意味です。」


淡々と言う声がむしろ怖い。

俺は棚に並ぶ不可解な物体の山を見渡した。


「見たことないものばかりですね……」


「不用意に触らない方がいいですよ。」


環さんは静かに言い添えた。


「以前、それで騙されてひどい目にあったので。」


ひどい目って、どんなだよ。

いやそもそも、この部屋の物を触って“騙される”ってどういう状況だ。

環さんの笑顔は優しいのに、内容が不穏すぎる。


(……やっぱり……どういう関係なんだよ、その人と……)


喉まで出かかった疑問を飲み込んでいると、環さんはため息をひとつ落とした。


「あの人、自分の店には入りきらないからって……僕の店に勝手に置いていくんです。そのせいでどんどん嵩んでいて。片付けようにも重い物も多く、一人だと限界でして。」


環さんは壁に立てかけられた巨大な箱を軽く叩きながら、苦笑した。


「だから、廻くんが来てくれて本当に助かりました。

 今日、ようやく……片付けができます。」


「……あの、この“奇怪”を置いていった本人は、どこに?」


部屋いっぱいに詰まった謎の物体を見回しながら、ようやくその疑問を口にした。

環さんはハタキを手に持ったまま、何でもないことのように答える。


「今は北海道に“奇怪”を探しに行っているそうですよ。確か……今回の奇怪は“生き物”だった気がします。」


「い、生き物……?」


耳がおかしくなったのかと思った。


「え、物だけじゃないんですか? この“奇怪”って……」


「物、人、動物、問わず、綺麗で、不思議なものであれば見境がないと言ってましたから。」


環さんは淡々としたまま、床に転がる用途不明の球体を避ける。


「そう考えると、人や動物を置いていかれないだけ、まだマシなんでしょうか…?」


「人や動物まで!?!?……いやいやいや、大丈夫なんですかそれ!?」


思わず声が裏返る。

人を置いていかれるってどういう状況だ。

監禁? 誘拐? いやもうそんなレベルじゃない。

環さんは、穏やかに目を細めた。


「さぁ……どうでしょうね。まぁ、捕まったら笑って差し上げようと思っています。」


「笑うんですか……?」


「ええ。本人も、好きなものを追いかけて捕まるなら本望だと言ってましたから。」


「えぇ……」


あまりにも潔すぎて、逆に怖い。

というか、“好きなものを追いかけて捕まる”って字面がすでにヤバい。

それを笑って見送る環さんも十分に怖い。

北海道のどこかで“生きた奇怪”を追いかけている謎の人物。

そしてここには、その人が置いていった奇怪の残骸。

その二つを想像した瞬間、ぞわりと背筋が冷えた。


(……なんか、俺……とんでもないバイトを引き受けてしまったんじゃないか?)




「奇怪は、まず僕が触って危険がないか確かめます。で、問題ないと判断したら——廻くんに運んでもらう、って流れでどうですか?」


環さんは振り返り、薄暗い部屋の中でもにこりと柔らかく笑った。


「いや、あの……もし危ないやつだったらどうするんですか?」


俺が思わず聞き返すと、


環さんは「そうですねぇ」と軽く首を傾げ、そのままにっこり笑顔を保ったまま——

片腕だけで、空気相手にシュシュシュッとパンチの連打を披露してきた。


「帰ってきたら、彼をとっちめますよ。」


いや絶対勝てないでしょその細腕じゃ!?

と心のなかで総ツッコミしつつも、環さんはもう作業モードに入っている。


「じゃあ、始めましょうか。」


その声を合図に、環さんはためらいもなく次々と謎の物体に手を伸ばしていった。



「うーん……これは光るだけですね。どうぞ。」


手渡された瞬間、ぶわっと蛍光色に発光して俺の顔を照らした。

心臓に悪い。


「これは……あ、ただ香りがつくだけですね。どうぞ。」


次の奇怪は触れた瞬間、唐突に桜餅みたいな匂いを出し始めた。

なんで?どういう機能?


「おや、これは……あ、動きましたね。でもしばらくしたら止まるでしょう。どうぞ。」


環さんの手のひらから、金魚みたいな形の金属片がふわっと浮かんで泳いでいる。

いやいやいや、これは“しばらくしたら止まる”とかそういうレベルじゃないだろう。


……この人、恐怖心ってあるのか?心臓に剛毛でも生えてるのか?


そう思いながらも、俺は渡される奇怪を黙々と箱へ詰めていく。

やけに手際がいい自分にちょっと引いた。


環さんは危険判定が終わった場所のホコリをハタキでぱんぱんとはたき落としては、次のスペースへと移動していく。


(これ、一人で片付けられたんじゃ…?)


と思いつつ何も言わないでおいた。この世にはきっと触れない方がいいこともある。

約30分ほどだろうか。


あれだけ異物の不用品市みたいになっていた物置が、

いつの間にか見違えるほど片付いていた。

なんなら、最初からこの状態だったと言われても信じるくらいには。


ただ——

箱の中で光ったり香ったり動いたりしている奇怪たちが、

物言いたげにカタカタ震えているのが唯一の現実感だった。



「ふぅ……大体片付きましたね。」


環さんは小さく息を吐き、指先で額の汗をぬぐった。

その姿はどこか儚げで、けれど作業を終えた達成感でうっすら頬が赤い。

……が、その直後、おもむろに懐あたりをゴソゴソと漁りはじめた。

何かを探すように、真剣な表情で指先を動かす。


そして——


「あ、ありました。」


彼の細い手に握られていたのは、ありえないほど場違いな物体だった。

ガラケー。

折りたたみ式。アンテナついてそうな雰囲気。


まじでガチのガラケー。


「え、ガラケー?」


思わず変な声でた。

環さんは不思議そうに小首を傾げ、


「ガラケーですよ?どうしましたか?」


「いや、今どきガラケーって珍しいなと思って……」


「え、これ最新のものって聞きましたけど……?」


「…………」


部屋に静寂が落ちた。

まるで誰かの黒歴史を読み上げてしまった後みたいな、言葉を飲み込む気まずい沈

黙。


「えーと……」


俺は必死に優しいワードを探しながら、慎重に口を開く。


「今は“スマホ”という便利なものが主流でして……

ガラケーがメインで使われてたのは……まあ……今から12年くらい前……ですかね……」


環さん、完全停止。

瞳がゆっくり瞬き、表情が無になる。


「あ、でも!でもでも!!」


俺は慌てて付け足す。


「今でも使ってる人は……います!!

ごく少数ですが!! 絶滅はしてません!!!」


環さんはしばし無言。

静かにガラケーの液晶を閉じる。

そして——


「…………帰ったら、絶対あの人をとっちめます。」


にっこり微笑んだまま、背筋がぞわりとするほど低い声で言った。

“あの人”の安否が心配になったのは言うまでもない。


結局、環さんは俺の目の前で「パシャッ」と一枚写真を撮ると、

そのまま折りたたみ式のガラケーを器用に親指で操作しはじめた。

表情は完全なる無。

怒りでも笑みでもなく、ただただ“フラット”。

逆に怖い。


(……絶対、いい内容じゃないよな。)


環さんが何を打ち込んで、どこへ送ったのかはわからない。

ただ、あの無表情のまま親指だけがカタカタ動く様子を見て、

あまりいい文面ではないことだけは確信できた。


ひとしきり打ち終えると、環さんはガラケーをパタンと閉じ、

静かに懐へ戻し、息を吐いた。


「一旦休憩しましょうか、廻くん。疲れたでしょう?

お風呂に入りたかったらどうぞ。さっきの廊下の突き当たり左です。」



そのやわらかい声だけが妙に優しくて、

さっきまでの無表情タイムとの差で余計に心臓に悪い。

環さんはスタスタと廊下を歩いていき、

俺はお言葉に甘えて風呂場へ向かった。




「……すげぇ。」


思わず声が漏れた。

そこにあったのは、旅館でしか見たことのないような檜風呂。

木の香りがふわりと立ちのぼり、思わず長湯したくなる贅沢な空間だった。

とはいえ時間が惜しい。

俺は後ろ髪を引かれつつ、シャワーだけで素早く済ませた。

さっぱりした気分で脱衣所へ戻ると、

いつの間に用意したのか、

そこには新品の弁柄色の着物が綺麗に畳まれて置かれていた。


(……準備よすぎない?)


と思いながらも袖を通し、帯をサッと結ぶ。




「環さん、お風呂ありがとうございました。」


リビングへ戻ると、テーブルの上には

艶やかな練切と、点てたばかりの抹茶が湯気を上げていた。


「おかえりなさい、廻くん。よければお菓子をどうぞ。」


「ありがとうございます。いただきます。」


環さんの向かいのソファに座ると、

落ち着いた香りと色合いが一気に疲れを溶かしていく。


「……あの、メールは帰ってきましたか?」


「いいえ。どうやら見てもいないようです。 あの、すっとこどいは本当に……」


環さんは心底呆れたようにため息をつく。

“すっとこどい”という言葉が妙に棘を持っている。

どうやら怒りはまだ継続中らしい。


「練切、美味しいです。」


「それはよかったです。廻くんは、好きなお菓子とかありますか?」


「落雁が好きですかね。」


「渋いですね。」


「そうですかね?」


そんな他愛ない会話を交わしながら、

温かい空気に包まれていると——



チリン……


入口の方で鈴が鳴った。

穏やかな空気が、わずかに張りつめる。

環さんが、ふっと目を細めた。



「いらっしゃいませ。本日はどのようなご用件でしょうか?」


環さんが柔らかく声をかける。

店の入り口に立っていたのは——


若いはずなのに、妙にくたびれた空気をまとったサラリーマン風の男だった。


歳は二十代後半くらいだろうか。

だが、若さより先に“疲労”が目に飛び込んでくる。

スーツは本来なら黒か紺のはずだが、

肩にも裾にもくっきりとシワが刻まれ、

よく見ると泥とも埃ともつかない汚れがところどころにこびりついている。

ネクタイはゆるみ、目の下には隈。

仕事帰りというより、何かから逃げ続けてきた人間のようだ。

男はゆっくりと顔を上げ、

押し殺した声で短く言った。


「……依頼をしに来ました。」


その“依頼”という言葉は、普通の人間が使うそれとは違った。

空気がピンと張りつめ、

環さんがそっと俺に目線を向ける。


「廻くん、ちょっとこちら側に座ってもらっていいですか?」


その声は穏やかだが、それでいて有無を言わせない圧があった。

俺がそっと環さんの近くへ移動すると、

環さんは若い男の方へ向き直って、声を掛けた。


「お客様、どうぞ。こちらへおかけください。」

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