第2話:交渉成立

「あ、怪しいって顔してますね。」


ふっと、環さんが喉の奥で小さく笑った。

くすくすでも、にやりでもない。

どこかこちらの考えをすべて見透かしたような、静かな笑い。


「そりゃあ……いきなり“等価交換”なんて言われたら、誰だってそういう顔になりますよ。」


「それも、そうですねぇ。」


環さんは柔らかく頷き、湯気の立つ湯呑みを指先でなぞる。

その仕草ひとつさえ静かで、けれどなぜだか不気味なくらい綺麗だった。


「では、もう少し具体的に言いましょうか。ここでは、お客様の“願い”——そうですね、依頼としておきます。その依頼を叶える代わりに、それに見合った対価を必ずいただくお店です。とてもシンプルでしょう?」


思わず、言葉に詰まった。


「……にわかには、信じがたいです。それは……どんな願いでも、ですか?」


「ええ。僕に叶えられる範囲なら、なんでも。」


環さんは淡々と告げた。

まるで「今日の天気は雨ですよ」と言うみたいに、当然のように。


「例えば、誰かを長生きさせたいとか。

例えば、好きな人と両思いになりたいとか。

あるいは、有名になりたいとか……。

そういう願いを、ここでは叶えています。」


「そんなこと、できるはずが——」


否定の言葉を口にする前に、環さんが静かに笑った。


「できますよ? 証拠が欲しいなら、君にも叶えてあげましょうか?」


にこり。

その微笑みは、息を呑むほど美しかった。

なのに同時に、ぞくりと背筋を冷たい指でなぞられたような感覚が走る。


「……いえ。結構です。」


そう返すと、環さんはほんの少しだけ、寂しそうに眉を下げた。


「そうですか。残念ですねえ。」


「けれど——君は、とても良い判断をしました。

たとえ君が今、僕に願いを叶えてくれと頼んだとしても……僕は聞き入れませんので、どうか安心してくださいな。」


その声は穏やかで、優しかった。

しかし同時に、ひどく“深い”ところから響いてくるようにも感じた。



「……信用できません。」


俺がそう言うと、環さんはまるで当然の返事を聞いたかのように、ふんわりと目元を緩めた。


「それはそうでしょう。だって、まだ出会って一日目ですからね。」


落ち着き払った声。

こちらがいくら警戒しても、環さんは微動だにしない。

むしろ、警戒すればするほど嬉しそうに見えるのは気のせいか。


「一体、そのシステムはどうなってるんですか。 あまりにも……非現実的だ。」


俺の疑いは当然だ。

“対価の代わりにどんな願いも叶える”なんて、そんな夢みたいな話あるわけがない。

だが環さんは、俺の疑念を真っ直ぐ受け止めて——

それでもなお、柔らかく微笑んだ。


「こればっかりは、見てもらったほうが早いと言いますか……。

ですが、君の依頼を受け付けるわけにもいかないですし……」


困りましたね。


ぽそりと漏れたその声音は、珍しく困ったようで。

けれど、困っていながらもどこか嬉しそうにも見える不思議さがあった。


「本当に、困りましたね。」


口ではそう言うが、眉ひとつ動かない。

環さんは静かに湯呑みに口をつけ、そのまま俺を真っ直ぐ見つめた。




そして——


「では、こうしましょう。」


一度目を伏せ、考えを整えるように指先で湯呑みの縁をなぞり、

次の瞬間、まるで当然の提案をするように言った。


「廻くん。 君、僕のお店で働きませんか?」


「は!?なんでそんな話になるんですか!!」


反射的に立ち上がりそうになった。

声が裏返るほどの衝撃に、環さんは肩を小さく揺らして笑う。


「だって、君、面白いので。」


「いやいやいや、なんか軽く言ってますけど!? 働くって何を!?どうして俺が!?」


「落ち着いて。ほら、深呼吸ですよ。」

環さんは俺の慌てる様子すら楽しんでいるようで、

猫が新しいおもちゃを見つけた時みたいな目をしていた。


「君は好奇心が強いし、何より……とても、素直だ。」


「褒めても誤魔化されません!」


「誤魔化してませんよ?

むしろ、誤魔化していたのは君のほうでしょう。」


ゆるく微笑んだまま、環さんは言葉を続ける。


「君だって知りたくありませんか?どうやって願いを叶えているのか。」


図星だ。


「…。」


思わず渋い顔をしてしまう。でも、ここで素直に受け入れるのは…。

環さんはひとつ瞬きをした後、柔らかく告げた。


「ねえ、廻くん。 僕の傍で世界をちょっと覗いてみませんか?」


その声は甘く、静かで、逃がさない。

完敗だった。


「…わかりました。その話、乗ります。」


真剣に環さんを見返して言う。


「交渉成立です。勿論、短時間でいいですし、お給料も出しますよ。」


花がほころぶような笑顔で環さんは喜んでいる。


「実は、君を雇いたかった理由はもう一つありまして…その、荷物整理の手伝いをしてほしくって。僕もうおじいちゃんなので人手がほしかったんですよね。」


「どう見ても二十歳そこそこにしか見えませんが!? それと、その“荷物整理”ってのが本音ですか!?」


思わず声が跳ね上がった。

環さんは、まるで俺の反応が楽しくて仕方ないというように、口元を隠して笑う。


「ええ、もちろん本音ですよ?

だって、本当に重いんですよ……あの本棚の裏の荷物たち。」


と言いながら、環さんはちらりと視線を本棚のほうへ送った。

そこには、天井まで届きそうな巨大な本棚。

ぎっしり詰まった古書たちが圧迫感を漂わせ、その背後に何が隠されているのか

——想像しただけで背筋が冷える。


「本棚の裏……?」


「はい。あそこ、物が増えすぎて僕一人ではちょっと……」


環さんは指先を少し上げ、申し訳なさそうに頬に触れた。

だがその声音はどう聞いても“申し訳ない”ではなく、明らかに“計画通り”だった。


「というか、“もうおじいちゃん”って言ってましたよね!?

どういう意味ですか!?」


「そのままの意味ですよ。僕、結構生きてますから。」


「いやいや、どう見ても若すぎるでしょう!」


「そうですか?嬉しいですね。廻くん、褒め上手です。」


「褒めてないです!」


環さんはくすりと笑う。

柔らかく細められた舛花色の瞳は、まるで俺をからかうのが楽しくて仕方ない、と言っていた。


「廻くん、君は本当に素直で、反応がいい。

……一緒に働くの、楽しみになってきました。」


「やめてください、そんな捕まえた獲物を見るような目で見るのは!」


「失礼な。僕はただ、期待してるだけですよ?」


にこりと微笑むその顔は、相変わらず整いすぎていて——

だけど、どこか底が見えない。

俺を試すような、覗き込むような、そんな眼差しだった。


「それにね、廻くん。」


環さんはそっと距離を詰め、わずかに身を屈めて、俺の目線と高さを合わせる。


「君みたいに“この店を怖がりながらも逃げない子”は、

――僕、大好きなんですよ。」


「……ッ!」


頬が熱くなるのを自覚した瞬間、環さんは満足げに身を離して席に戻った。


「では明日から、よろしくお願いしますね。再度繰り返しますが、

時間帯は放課後、君の無理のない範囲で。お給料もしっかり出しますから安心してください。」


「……ほんとに、俺で大丈夫なんですか。」


「君だから良いんです。」


その言葉は優しいのに、どこか逃げ場を塞ぐような響きを持っていた。

環さんの笑顔。


それは柔らかくて、甘くて、だけど——

背後に一切の光がない“底なし沼”のような怖さがあった。

けれどもう俺は頷いてしまった。

だからきっと——もう道は決まっている。


「……明日、来ます。」


「はい。楽しみにしていますよ。」


環さんの声は、まるで春の陽気みたいに穏やかで。

そのくせ、妙に背筋が冷える。


等価交換屋・くをん堂。

そこはやっぱり——普通の店なんかじゃなかった。






くをん堂を出る頃には、いつの間にか雨は上がっていた。

夕暮れ前の街が薄橙色に染まり、雨粒の残った舗道がほのかに光っている。


「では、気を付けて。明日はよろしくお願いします。」


環さんは穏やかな笑みを浮かべ、小さく手を振った。


「わかりました。じゃあ、また明日。」


胸の奥が妙に軽く、来たときとは比べものにならないほど、足取りも軽かった。

今日の出来事は不可思議で、理解が追いつかないことだらけだ。それでも――悪い気はしなかった。



商店街を抜け、住宅街の路地へ。

家の明かりが見えた途端、現実の空気がどっと押し寄せてきた。


「ただいま。」


玄関のドアを開けた瞬間、ピリッとした気配が飛んでくる。


「廻、おかえり。こんな時間までどこに行ってたの?」


両親が、待ち構えていたかのように俺を見つめる。

二人とも目の下に影を落として、露骨に“心配してました”という顔だ。

時計をちらりと確認すると、針はまだ6時にも届いていない。


「…まだ6時だよ? いくらなんでも、過保護すぎないか?」


思わず呆れた声が出た。

すると母がすぐに言い返す。


「で、でも、いつもなら5時には帰ってるじゃない…。もし何かあったら――」


「俺ももう高校2年生だよ」


重ねるように言う。


「それなりに人付き合いもあるし、寄り道することだってある。それに……俺、明日からバイトに入るから。」


母の表情が固まり、父もまばたきを忘れたみたいに目を見開いた。


「そ、そんな……勝手に決めて……!」


「もう決めたよ。」


自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。


「それに……いつまでも干渉して来ないでくれ。俺のこと心配してくれるのは分かってる。でも、ずっとこんなふうに縛られた生活を続けたいわけじゃない。」


そう言い切ると、二人の肩をすり抜けて廊下へ向かった。

背後で母のか細い声が何か言おうとしていたけれど、聞き返す気にはなれない。

ドアを閉める音が、やけに大きく響いた。

胸は少し痛んだが、それでも――歩みは止まらなかった。



その日の夕食は、いつも以上に静まり返っていた。

箸が皿に触れる小さな音だけが、やけに耳に刺さる。

重たい沈黙が食卓を覆い、俺はただ無心で食べ物を口に運んだ。

早々に食事を切り上げ、風呂へ向かう。

湯船につかっても気持ちは晴れず、結局また自室へ引きこもった。

布団に潜り込み、天井をぼんやりと見つめながら思う。


(——もし、あの時、環さんが俺の願いを受け付けていたとしたら。俺は何を願ったんだろう。)


両親の過保護が治りますように。


もっと自由になりますように。


それとも——兄が生き返りますように?


そんな考えが次々と頭を巡り、胸の奥をそっと締めつけた。

けれど、答えが出る前に、まぶたが重くなり、意識はゆっくりと闇に沈んだ。





朝——。

いつもの時間に起き、重たい空気の中で朝食を胃に流し込み、鞄を肩に掛ける。


「じゃあ、遅くなるから。」


その一言だけを投げて玄関を開けると、温かい日差しが頬に触れた。

昨日の雨が嘘のような、雲ひとつない青空。

久しぶりに悪夢を見なかったからか、身体が軽い。歩く足取りも自然と弾む。

学校へ向かう途中、ちょうど竜馬と鉢合わせた。


「お、今日は早いな。おはよ。」


「おはよ。」


竜馬はじっと俺の顔を覗き込み、片眉を上げる。


「なんか、廻、今日調子いい?」


「え、そうか?」


「うん。なんか軽く見える。昨日なんかあった?」


どう答えたものかと少し迷いながらも、正直に言う。


「実は、今日からバイトに行こうかなって。」


竜馬の目が漫画みたいに大きく見開かれた。


「え!?よくお前、あの両親を説得できたな!?」


「いや、説得はできてない。ただ言っただけ。でも、思ったより反対されなかった。」


「ふーん……廻がやりたいならいいと思うけどさ。

でもあんだけ親の言うこと全部聞いてたお前がねぇ……そんなにいいの?そのバ先。」


「まぁ、店主がめっちゃ美人だとは思う。性格は掴みどころがないけど。」


途端に竜馬がぐいっと距離を詰めてくる。


「えー!!いいな。俺にも紹介してよ。見たい。そんなに美人なの?写真とか無い?」


「無いよ。昨日知り合ったばかりだし。でもマジで美人。」


「……廻、お前……なんかの詐欺にあってるんじゃないよな?」


「……多分、詐欺じゃないと思う。多分……。」


「まぁ、もし詐欺にあったらいつでも言ってくれ。せめて笑ってやるよ。」


「そこは慰めてくれよ!!」


竜馬のいつもの調子に、思わず笑いがこぼれた。

昨日までの重苦しさが、少しだけ遠のいていく。




授業中――

黒板に並ぶ文字も、先生の声も、まるで遠くの世界の話みたいにぼやけていた。


(放課後……今日からバイト……くをん堂……環さん……。)


そればかりが頭の中をぐるぐる回り、気づけば鉛筆は宙に停止したまま。

ノートは真っ白、今にも白紙提出しそうな勢いだった。

ぼんやりしていると、肩をトントンと叩かれる。


「……お前、大丈夫か?」


振り返れば、千斗が眉間に皺を寄せて俺を覗き込んでいた。

体育館では誰よりもうるさい暴れ馬が、教室で心配してくるなんてレアすぎる。


「いや、大丈夫。ちょっと放課後のことで頭いっぱいで……」


「え、今日なんかあるん?」


千斗の声、無駄にデカい。

案の定、周りがこっち見てる。やめろ。


「あと5分で休み時間だ。その時言うから少し黙っとけ……!」


異様に長く感じた5分をようやく耐え切り、チャイムが鳴る。


「で、どないしたん?」


休み時間開始0.2秒で千斗が詰めてきた。


「実は……今日からアルバイト始めようかなって。」


ガタッ。

千斗の椅子が爆音を響かせ、目をむく。


「お前、よう両親説得できたな!?!?

あの束縛特化の過保護両親に!?!?」


「竜馬にもまったく同じこと言われた。」


「そら言うわ!!俺でも言うわ!!」


千斗は机に突っ伏し、魂の抜けた声で呟いた。


「……お前の両親、ほんま過保護やん……。

高校生の門限が7時って、何時代の人間なんや…?」


「昨日6時前に帰ったら怒られたぞ。

ちなみに説得はしてない。勝手に言い残して出てきただけ。」


千斗が固まった。

次の瞬間、めちゃくちゃ真剣な目になって囁いてくる。


「……お前の両親のことやから、多分スマホにGPS仕込んでるで。

いや、絶対や。

“廻の現在地:バイト先”って通知飛んだ瞬間、夕方には店の前仁王立ちや。」


「……確かに。」


千斗は腕を組み、頷きながらさらに言葉を重ねる。


「位置情報サービス切っとくか――

いや、徹底的に無効化しとけ。

バ先に乗り込まれたら終わりや。」


バ先に乗り込まれる……。

そんな未来図が脳内に即座に描かれる。

環さんの店で、俺の両親が土下座しながら


「息子を返してください!!」


とか言ってるところを想像してしまい、背筋が寒くなる。

ついでに、困った顔で俺を見る環さんまで浮かんでしまい、胃が痛くなった。


「……帰りに設定見直す。」


「見直すんやなくて今すぐ切れ。

お前の親の突破力、舐めたらアカン。」


真顔で言われると説得力がエグい。

無意識に頷いてしまった。

そんなくだらないようで切実な会話をしているうちに、次の授業の予鈴が鳴った。

この授業が終われば、いよいよ放課後だ。


(……あと少し。)


くをん堂。

環さん。

あの不可思議で静かで、どこか異世界みたいな空気。

胸の奥が、緊張なのか期待なのか分からない熱でじわりと満ちていく。


(早く、放課後になれ。)



最後の授業の終了を告げるチャイムが、甲高く教室に響き渡った瞬間——

俺は条件反射のように椅子から立ち上がり、

机の上の教科書やノートを無言でカバンへ突っ込み始めた。

ガサガサッ、バサバサッ


明らかに周囲の誰よりも早いスピードで、手を止めることなく荷物を詰め続ける。

いつもはのんびり帰り支度をする俺が、

まるで火でもついたかのように動き回っていたからだろう。

近くの席から、大和がぽかんと口を開けた表情で寄ってきた。


「廻がそんな急いでるの、初めて見るんだけど。

 ……もしかして、何かあった?」


静かな疑問の声。

だが、その問いに答える隙すらなかった。


「——あるんやって、こいつ今日!」


横から千斗が食いぎみに割り込んでくる。

そして、俺の気持ちなんて一切お構いなしに、

教室中に響く声量で叫んだ。


「人生初バイトなんやて!!」


おい、やめろ。そんな大声で言うな、恥ずかしいだろ……!

今度は竜馬が口を挟んできた。


「しかも……店主、めっっちゃ美人らしい。なぁ、千斗?」


そのひと言に千斗は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。


「はああ!?美人!?お前それ俺聞いてへんぞ!!」


ガンッ!

千斗が机を叩いて立ち上がり、

教室中の視線が一斉にこっちへ刺さってくる。

……いやいや、恥ずかしいから本当にやめろって!!

竜馬はしたり顔で満足そうに頷いているし、

そんな様子を見た大和は苦笑しながらも、興味津々といった表情だ。


「へぇ〜……廻が初バイトねぇ。しかも美人店主。……うわ、それ絶対なんか起きるやつじゃん。」


そして極めつけに、にっこり笑って、


「美人に鼻の下伸ばして、デカいミスやらかさないようにね?」


とわざわざ追撃してくる。

俺は即座に拒否した。


「伸ばさねぇし!!いや本当に!!」


しかし俺の必死の否定とは裏腹に、

三人はそろって生暖かい目で俺を見つめていた。

なんだその目は!?


「まぁまぁ、頑張れよ。初日で盛大にコケんなよ?」


と竜馬がにやにや笑いながら俺の肩をぽんぽんと叩き、

千斗は千斗で、まだ騒ぐ。


「くっそ!俺も今日見に行くわ!どんな美人か自分の目で確認したい!」


「来るな!!絶対来るな!!!」


必死に叫んだが、

千斗のテンションは上がり続けるばかりで全然伝わっていない。




未だに生暖かい視線を投げてくる三人を、

「もう知らん!」とばかりに振り切り、

俺は校門を飛び出した。


鴨川沿いの道に出ると、

昨日あれほど荒れ狂っていた川が、

まるで別の川だったかのように静かに流れている。

風が水面を撫でるたびに、静けさが逆に胸に刺さった。


余計に緊張してくるような気がして脇目も振らず四条通へ走った。

昼の喧騒はまだ続いているが、

それを上回るほどの集中力でひたすら前へ進む。

ビルの影、観光客のざわめき、

土産物屋の店員の呼び声も耳に入らない。


新京極の入口に差しかかったタイミングで、

ポケットの中のスマホを取り出す。


(千斗に言われたし……念のため)


位置情報サービス をオフにし、ついでに電源もオフにする。

プツンと音を立てて動かなくなった画面を確認し、ポケットにしまう。


「……よし」


両親の奇襲を防ぐためにここまでする必要があるかはわからない。

だが、あの二人なら本当に来かねないのだから仕方ない。


昨日と同じように商店街を歩く。

日常の雑踏が広がっているのに、

俺の心だけは妙に浮き足立っていて、

どこか非現実の入口に向かっているような感覚がある。


そして——例の細い路地へ入った。

昨日も通った薄暗い隙間を、

今度は迷いなく足を踏み入れる。

ざく、ざく、と足音だけが路地に響く。

抜けた先には昨日の通り、もう一段階暗い商店街がある。

昼なのに灯りが乏しく、

影がやけに濃く伸びている通り。

まるで、こっち側だけ時間が止まっているような静けさ。

その向こうに、ひと筋の光が見える。

その光に吸い寄せられるように歩き、昨日と同じ位置まで進む。



目の前に、等価交換屋・くをん堂が現れた。


看板も木の色も、店先の並びも、

まるで昨日そこから一歩も動いていなかったかのように静かで整然。

時間に取り残されたような不思議な空気が、

今日も店を包み込んでいる。


(……来た)


胸の鼓動が、知らぬ間に速くなる。

俺はゆっくりと息を吸い、扉に手をかけた。

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