第4話
この島へ来る直前まで私は飲食店のパートで一年ほど前から働いていた。
「何やってんの!違うじゃん!あー、もう私がやるからいいよ。あんたはそっちの仕事して」
新しい職場、二日目で言われた言葉。
明らかに八つ当たりでしかも身内でもない私を”あんた”呼ばわり。しかも明らかに年下。
この先もこんな暴言を吐かれるのかと思うと辞めたくなった。
——なにコイツ?
”オープニングスタッフ募集”
それならば一緒に働く人も同時入社なので、上下関係のいざこざはないだろうと求人に応募した。
しかし、それは見事に裏切られた。
私と入社時期はほぼ同じのくせに、何日か早く入社しただけでこんなにマウントとってくるか普通?
いやいやいや、普通ではないのか。
見た目もいかにも遊んでます的な格好だが、他の同僚から話を聞くと結婚しているらしい。しかも二人の子持ち。
おまけに現在、離婚協定中。こんな親、嫌すぎるだろ。占い師じゃないけど私にもコイツの子供の未来見えたわー。
おまけに休憩時間には下ネタ炸裂。このテの人間は、このような話で優越感に浸っているつもりだろうが、逆に「下半身がユルユルの人認定」されていることに気付いていないのか?しかも、誰も笑ってないのに恥ずかしくないのかな?
ちょっとした仕返しに、この女が更衣室のコンセントでスマホの充電をしていたので、わざと上司にも見えるようにドアを開けっぱなしにしてやった。
電気泥棒め。
しかもこの嫌な女は毎日、舌打ち&わざとらしい溜息。一体どんな育てられ方をしたらこうなるのだろう…と訝しんでしまう。
そして聞いているこちらが恥ずかしくなるような汚い言葉。
なに?この人、知能が中二で止まってんの?
もしかして今までこんな感じで仕事してきたの?
かわいそうに生まれ変わってもまたカスみたいな人生なんだろうな。
「お前の来世は糞だ糞!」と心の中で悪態をつく私も同じようなものなのだろうが。
働いている人間もそうだが、そもそもがおかしな会社で、タイムカードは手書き。
残業代は三十分単位でしか払う気がなく、二十九分働いてもタダ働き。
違法で労基にガサ入れされろ!
未だにこんな職場があるのかと心底呆れた。
まだ絶滅してなかったの?令和だぜ?
毎日毎日、仕事に行き、帰宅すると誰に言うでもなくうわごとのように
「辞めたい」と連呼していた。おまけに愚痴を吐く相手もいない。
こんなに嫌な目に遭いながら貰ったお金は、親に取られれば残りは三万ほどしか手元に残らない。
最悪だ。
でも辞めることが出来なかった。
四十代のなんのスキルもない私なんかを雇う企業など無いに等しいだろうし、(現にこんなおかしな会社にいるし)なによりお金がないから。
いつも私はお金がなかった。
貯まったと思えば親に取られた。病院だの税金の支払いだのと理由をつけてはお金をせびってきた。
実家暮らしという引け目があったのかもしれない。実家暮らしの何が悪い!
手伝えることは手伝っていたし、私が居なければ今ごろ我が家はゴミ屋敷だったに違いない。
なんともだらしなく、頭の悪い親だった。
我が家は自営業だったが、バブル期にはなんの恩恵も受けず、バブルが弾けた時は被害を被った。父親は仕事が激減し、まともに働かなくなった。私が小さい頃は日曜日にも家にいないことが多いほど働いていたのに。
損だ。
ずっと損し続けてきた人生だった。
幼稚園に通っていた頃は、おとなしくて何も言い返さないという、たったそれだけの理由でいじめられていた。
子供は残酷だ。大嫌い。
小学校に上がり、そこそこ勉強はできたが運動はからっきしで、鈍臭いヤツというイメージが強かった。あまり喋らないため、やはり友達は少なかった。そして、すぐにいじめっ子の標的にされた。いじめをする人間の顔というものには、共通点があることを私は知っている。このおかげでヤバい人間を嗅ぎ分ける能力がついた。
中学、高校でもそれは同じだった。
漫画が好きで、いわゆるオタクだったため、趣味を介した友人はいたが、その時代のオタクの扱いは今とは全く違い、バレれば狩られるぐらいの危機感を持って活動しなければいけないほど危険だった。
そのことを思うと、今の時代のオタクの扱いは非常に羨ましい限りだ。日本総オタク時代ではないか。
これまで、ずっと搾取され続けてきた。
高校卒業時、氷河期世代ドンピシャの私にまともな仕事はなかった。
就職先がないからと大学へ行く同級生もいたが、ウチにはまず大学に通うお金がなかった。
そして私の意欲もなかった。しかし、専門学校には通いたかった。
絵を描くことは得意だったので、デザイン関係の仕事に就きたかった。
専門学校に通うことはできなかったので、図書館でパソコンでの画像加工に関する本を借りてきて独学で勉強し、ホームページを作って自分の描いたイラストを載せることを楽しんでいた。
今思うと、あの熱量をうまく仕事に活かせればよかったのだが…そうトントン拍子に進むわけがなかった。
就職どころかバイトの面接すら落とされていた。
働けるならどこでもいいとヤケになって条件の悪いバイトを続けた。
タイムカードを押した後も仕事をさせられ、おまけに最低賃金。
高校卒業後、初めてのバイト先は働き始めて二年で潰れた。
本当に景気が悪かったのだ。
その後も様々なバイトをしてきた。
パチンコ店で変な客によく絡まれた。噂では私が辞めた後、そこのトイレで首吊り自殺があったらしい。
スーパーの品出しで腰を痛めた。体力的には辛い仕事だったが、人間関係は良好だった。しかし、オーナーが変わり、雰囲気が一変して何人ものパートが辞めた。
何年かは派遣で職を転々とし、そのまま上手く生活できるかと考えていたが甘かった。自律神経失調症のくせに高時給に惹かれ、昼夜逆転の工場勤務をした結果、身体がボロボロになった。浮遊感に襲われ、立っているのさえ辛かった。喉を締め付けられているような感覚に襲われ、あまり食事ができなくなり、寝たきりの日もあった。
体調が戻った頃、安定を求めて奇跡的に正社員になれた会社もブラック企業だった。
残業代が出ないのは当たり前。
十三日連続で勤務させられることもあった。朝八時半から夜九時まで働くことなどザラだった。
安定を求めたはずが低賃金だったので結局不安定なことに変わりなかった。
月給を実際に働いた勤務時間で割ると時給五百円以下だった。
それならアルバイトの方がマシではないか。
皮肉なことだ。
身体がキツすぎてせっかくの休みもどこかへ出かける余裕などなく、何の目的もなく、ただただ家でゴロゴロして過ごすだけだった。
生きるために働いているのか、働くために生きているのかわからなくなっていた。食事をとる時間があれば寝ていたい。
二年ほど働いたが、辞める時には入社時より体重は十kg近く落ち、自慢だった艶々の肌はニキビだらけで汚くなっていた。
もう自分には正社員など無理なのだと観念し、あまり体に負担がかからないようなバイトにシフトチェンジした。
しかし、楽をすればさらにお金は無くなっていく。
この負のループからは抜け出せないのだと悟った。
こんな人生ならば生きていなくてもいいのでは?
真っ当な考えだった。
なんの楽しみもなく、他人にはバカにされ、ただ搾取され続ける
私は病んでいった。
しかし、こんな私にも一つだけ、生き甲斐と言っていいほど大好きな対象がいた。
テレビの深夜番組で知ったお笑い芸人。その頃の私は漫才とコントの違いすら知らなかった。
彼らを一目見て「この人たち好き!」と感じた。本能的にというべきか。出会うべくして出会ったと感じた。
生きる気力のない私への神様からのプレゼントのようだった。
彼らのコントは他のお笑いと違い、ただ面白いだけではなく、少し淋しかったり、物悲しさを感じた。立場の弱い自分の気持ちを代弁してくれていると信じ込んでいた。
もう、それはお笑いではないのではないかとも思ったが、きっとそういうところに強く惹かれたのだろう。
ライブがあれば遠征する時もあった。
コツコツ貯めたお金でチケットを買い、ホテルや交通手段を予約し、ライブ当日までの期間は何とか仕事を頑張れた。
しかし、出かける日が近付くにつれて行きたくなくなるのはナゼなのだろう?
とても楽しみにしているのに面倒くさくなってくるのだ。
当日は重い腰を上げて——という言い方もおかしいのだが——目的地へと向かう。
おそらく彼らのライブに行かなければ、こんなに旅行に出かけることなどなかったであろう。舟和の芋ようかんや551の豚まんを食べることもなかったであろう。そんな面でも感謝している。
ライブにはもちろん一人で参戦した。
ライブ会場に到着し、廻りを見回すとやはり友人同士できている人が多い。
しかし、そんなことは気にせずグッズ販売の列へと進む。
こういうグッズは価格設定がおかしい。ロゴが入っただけのボールペンが五百円て!
まぁ、買うのだが。
これはお布施だと自分に言い聞かせている。お金がなければ彼らも活動できないのだから!
開演十分前、席に着く。
あぁ、緊張してお腹が痛くなってくる。
私は不幸なことに過敏性腸症候群も患っているのだ。
だから実はこうした場所が苦手だった。
会場に閉じ込められる趣味=致命傷なのだ。
自由にトイレに行けないと思うとお腹が痛くなってくる。唯一の楽しみの場でもこうして苦しめられている私って何なのだろう。急いで持参していたペットボトルの水で薬を飲み下す。飲食禁止となっているが、すまない、緊急事態だ!許してくれ!
一時間四十分の楽しい時間が終わった。薬のおかげで腹痛は免れた。
目の前に大好きな二人が立っているというだけで興奮した。同じ空気を吸えていることが幸せだった。
六本の短いコントが最後にうまく伏線回収されていて素晴らしかった。
あと一ヶ月は考察をしたり、面白かった場面を反芻したりして生きていけるであろう。
帰り道は彼らを観ることができたという嬉しい気持ちと、終わってしまった淋しさでいつも複雑である。
…と、このようなわかりやすく気持ちの悪いファンであった。
せっかく遠征したにも関わらず、特に地のものを食べようという気もなく、食事はコンビニやチェーン店で済ませた。
そんな自分を惨めだとは思わない。
私は食に対する興味が薄かった。
一人で外食するのは平気だったが、コンビニで好きなものを買い込み、ホテルでテレビを見ながら好きなように食べる方が好きだった。
ライブの楽しみもあるが、私は一人ホテルで過ごす時間が大好きだった。
実家にいると完璧に一人になることがなく、それもストレスだったが、ホテルでは思う存分、気ままに過ごせる。
煩わしい家族が立てる物音もなく快適だ。
食事の時間も入浴の時間も自由で、誰かとトイレのタイミングが被ってイライラすることなどない——なぜかウチの父親は家族の誰かとトイレに行くタイミングが同じで度々イラつかされていた。ただ単に頻尿なだけだろうが、このことだけでも人生における出来事全てのタイミングが悪い男なのではないかと勘繰ってしまう——
そして一番のイベントが入浴である。
シャワー浴び放題である。
今の時代、非常に驚かれるが我が家にはシャワーという設備がない。
風呂はあるが、蛇口からは水しか出ないのでお湯を浴びたければ湯船に水を溜め、沸かして浴びるしかない。
憧れのシャワーなのである。水圧強めで思う存分浴びる。
普段は頭を二回洗うことなどないが、予洗いまでして更にコンディショナーで締め括った。もう、髪の毛サラッサラである。
さらに、楽しかった一日を締めくくるのは寝ながらテレビである。
我が家の寝室にもテレビはあるが、母親と同じ部屋で寝ているため、コレができない。
明かりを暗くしてベッドでうつらうつらしながら見るテレビは最高なのだ。おまけに他県の番組を見られるのも楽しみであった。その土地の食べ物を食べるより、その土地のCMを見る方が好きだった。
翌日はホテルの朝食も食べず、チェックアウトの時間ギリギリに出発する。ホテル側にとってはちょっと嫌な客かもしれない。
彼らの活動がある限り、この唯一の楽しみは続いた。ライブがない年もあったが、それも含めて二十年——あっという間だった。
しかし、この島へやって来る二年ほど前、彼らは表舞台から姿を消した。
私にとっては一大事だ。
裏方として表現は続けていくらしいのだが、私が望んでいるのは決してそういうことではないのだ。
彼らが作ったものを他の人が演じるものを見たいのではない。彼らの姿が見たいのだ。
——私は生き甲斐を失った——
彼らのために頑張って働いていたがライブに行けないのならば、一気にどうでもよくなった。
何の楽しみもなく、ただただ職場と家の往復だけで毎日が終わる。
たまに彼らのライブDVDを見返すこともあったが
「あの頃はよかった…」と昭和を懐かしむオジさんのような言葉が出るだけだった。
完璧に終わった。
生きていても希望がないのだと実感した。
結局、ダメだったのだ。得体の知れない何者かが、私を消しにかかっているかのような絶望感。
毎日毎日、心の中でこの言葉を繰り返していた。
あーーーーーー早く終わりてぇぇぇぇぇーーーー!!!!!
死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい 死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい 死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい 死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい 死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい 死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい死んでやる死んでやる死んでやる死んでやる死んでやる死んでやる死んでやる死んでやる死んでやる死んでやる死んでやる死んでやる死んでやる死んでやる死んでやる
私は四六時中この感情に支配されていた。
ずっと楽な死に方を考えて過ごしていた。
ホームセンターへ行けば、ロープの硬さを確かめ「これは痛いな…」と、首に括ったときのことを想像し、七輪を発見すれば「こんなもんで死ねるのかな…炭はどれを使うんだ?」と車の中で練炭を炊く自分を想像した。
店員もまさか、買い物カゴに花の苗やら掃除道具やら入れている私がこんなことを考えているとは思うまい。
毎朝、どこからともなくやってくる焦燥感に襲われ、食事をしてもだんだん味がわからなくなり、悲しくもないのに勝手に涙が流れていた。
誰にも会いたくなかった。職場で仕方なく会う人たちはもちろん、割と仲が良かった人とも会いたくなくなった。
楽しそうな人や幸せそうな人を見るのが辛く、そういう人たちを不幸にしてやりたかった。
いつか自分のことをコントロールできなくなるのではと怖くなり心療内科へ通った。そこで病名は告げられなかったが、処方された薬をネットで調べてみるとうつ病だった。色々と納得した。
だからと言って働くことを辞められる訳ではなく、細々と働いた。
障害年金などもらったなら、だらしない私はそこから抜け出せなくなると分かりきっていた。
薬のおかげで症状は少し改善したが、今の環境で生きている限り完治することはないだろう。完治しないということは、ずっとこのまま誤魔化しながら生きていかなければいけないということだ。自分の身体を薬で誤魔化し、社会では自分はうつ病などの精神病ではないと誤魔化し続けなければいけないのだ。
それはかなりしんどい。
嫌なことが起きれば「どうせ死ぬんだし、もうどうでもいいことだ」と自分を納得させた。
風邪をひいて辛い時は早く楽になりたいからと用量を守らず飲んだ。
「どうせ死ぬんだからこのぐらいどうってことない」と、タカを括っていた。
そんなことを続けていたら皮膚がだんだんと痒くなってきた。
特に症状が出たのが顔の部分だ。赤みが増し、皮膚がカサカサになり、フケのように剥がれ落ちるようになった。
会社の健康診断で肝臓の数値がおかしくなっていた。私は飲酒しないのでおかしいと思い、自力で調べたところ、薬の影響でもそのようなことになるらしい。
今でも痒みには悩まされているが、薬を飲むことは辞められないので困っている。
なので、今度は痒み止めの薬を服用している。
馬鹿だ。
典型的な馬鹿の負のループだ。きっと死ぬまで抜け出せないのだろう。
引くということを知らない。
足して足して、あとはいっぱいいっぱいになってパンクするのだ。
はたまたこんな馬鹿な考えも浮かんだ。
横断歩道は歩行者優先なのだから、と車が近くまで走ってきていようと平気で渡った。歩行者の権利なので文句あるまい。もし事故が起こったとしても、運転している方の過失だ。私はちゃんと、歩行者が歩いていいところを歩いていただけなのである。歩行者がいるのに、スピードを緩めない方が悪いのである。
なんなら「轢いてくれないかな」ぐらいの気持ちで歩いていた。
風呂掃除の際も、汚れ落ちが良くなるだろうと勝手に思い込み”混ぜたら危険!” を混ぜた。掃除し続けていたら目がシバシバしてひどく咳き込んだのでこれは危なかった。
どうせ死ぬから別にいいんだけど。
そうやって何かあれば「死ぬからいい」で誤魔化して細々と生き続けて今に至る。
嫌なことがあれば「やっぱり死ねばよかった!」と後悔し、仕事で今後の計画の話をされると「あー、私その頃まで生きてる自信ないわぁ~」と心の中で悪態をついていた。
しかし、残念ながらまだ死んではいない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます