第2話
兄にそういう気持ちを抱き始めたのは、いつだったか。
はっきりとした「きっかけ」があったわけではない。気づいたときには、もう遅かった――そんな類のものだ。
物心がついた頃には、すでに兄は特別な存在だった気がする。
家族だから、兄妹だから、そう言ってしまえばそれまでだけれど、それだけで片づけてしまうには、少しだけ重すぎる何かがあった。
どんなにわがままを言っても、
どんなに無茶をしても、
呆れた顔はしても、見捨てることはない。
気づけば、少し後ろを歩いていて、
転びそうになれば、当たり前のように手を伸ばしてくる、そんな兄。
――大丈夫だよ。
そう言われた記憶が、いくつもある。
声も、表情も、はっきり思い出せるくらいに。
兄は優しい。
それは事実だ。
だからこそ、周りからも慕われる。
学校でも、近所でも、誰に対しても分け隔てがない。
困っている人を放っておけなくて、
頼まれたら断れなくて、
自分のことは後回しにしてしまう。
そういうところが、みんなに好かれる理由なのだろう。
……分かっている。
兄が向ける笑顔は、特別なものじゃない。
誰に対しても同じ温度で、同じ距離感で、差し出されるものだ。
佳夜に向けられるそれも、
「妹だから」「家族だから」
ただ、それだけの理由で。
そう言い聞かせてきた。
それでも。
兄が他の誰かと笑っているのを見ると、
胸の奥が、少しだけざわつく。
それが嫉妬だと気づいたとき、
佳夜は、慌ててその感情に蓋をした。
いけない。
これは、いけないものだ。
家族に向けていい感情じゃない。
口にしてはいけないし、態度に出してもいけない。
だから、距離を取った。
ツンとした態度を選んだ。
わざと素っ気なくして、冷たくして。
そうすれば、この気持ちは消えてくれると思った。
――でも。
消えるどころか、
触れないようにすればするほど、
輪郭だけが、はっきりしていく。
兄が、誰かのものになるかもしれないと思うと、胸が締めつけられる。
自分のものにしたい、なんて。
そんなことを思ってはいけないのに。
兄は、誰のものでもない。
そして同時に、みんなのものだ。
優しいから。
誰にでも手を差し伸べるから。
自分に向けられるあの笑顔も、特別じゃない。
――そう、分かっている。
それでも。
あの笑顔が、
自分だけに向けられる日が来たら、と。
そんな想像をしてしまう自分を、
誰にも見せないまま、
今日も胸の奥に隠している。
***
あくる朝。
「おはよう、佳夜!」
リビングに入ると開口一番、兄が笑顔で出迎えた。
相も変わらず、無邪気すぎる笑顔。
佳夜は耳のあたりがじんわり熱くなるのを感じて、反射的に視線を逸らした。
「……おはよ」
声は低く、短く。
それだけ言って、俯き加減のまま冷蔵庫へ向かう。
兄の笑顔が、少しだけ眩しい。
朝の光のせいだ、たぶん。
「今日の朝はごはん、卵焼き、ベーコン、そしてお味噌汁だ。うん、王道の朝ごはんだな。しかし考えてみると、ベーコンがこの布陣に割って入れたことは相応の功績だと思わないか? 日本の和食に単身切り込もうとした勇気はモチロン、しっかりと名を連ねることに成功したんだからなぁ。そう、それはさながら四面楚歌で奮闘した項羽のごとく……あるいは転校生にして学園のヒエラルキーに立つのごとし――」
「……長い」
ペラペラと口の回る兄を尻目に牛乳を注ぐ。
「えぇ~でも面白いと思わないか?」
「聞いてないし」
そう返すと、兄は少しだけ肩をすくめて笑った。
佳夜は牛乳の表面にできた小さな波紋を眺めながら、内心で息を吐く。
まだ眠い。
頭も、半分くらいしか動いていない。
それに比べて兄は、もう完全に稼働中だ。
エプロン姿で、手際よく作業を進めている。
フライパンから、ベーコンの焼ける音。
カチカチと卵を割る乾いた音。
菜箸を持ち替えて、二つのフライパンを同時に操る姿。
(……慣れてるなぁ)
兄が家事をするようになってから、しばらくが経つ。
佳夜ももちろん手伝いをすることはあるが、朝の諸々はもっぱら兄の仕事に定着している。
最初はぎこちなかった朝も、今ではすっかりこの形に落ち着いた。
「ほら、座れ座れ。冷めるぞ」
ボーっとしていると、もう準備ができたらしい。
兄に促され、佳夜は無言で椅子を引く。
「いただきます」
「はい、いただきます」
声が重なった。
一瞬だけ、間が空く。
兄は特に気にした様子もなく、味噌汁をすすった。
佳夜もそれにならって、卵焼きを口に運ぶ。
(……)
甘すぎず、ちょうどいい味。
分かっていたけれど、やっぱり美味しい。
「どう?」
「……普通」
素っ気なく返すと、兄はにやりと笑った。
「それは最高評価ってやつだな」
「違う」
「はいはい」
軽く受け流されて、佳夜は小さくむっとする。
けれど、それ以上は何も言わず、黙々と食べ続けた。
兄の視線を感じる。
じっと見られているわけじゃない。
でも、ちゃんと気にかけられている感じ。
「なに」
視線を返すことはせず、目つきを強めてしまうと、兄はまたにやりと笑う。
「いや別に? 佳夜の食べる姿、好きだなぁと思っただけ」
「ゴホっ――!?」
兄の言葉に盛大にむせた。
好き……好きだなんて。
「大丈夫か」と兄はこちらのコップに牛乳を注ぐ。
誰のせいだと思っているのだろう。
「……へぇ。そうやって、学校の女の子にも言ってるんだ」
「がくっ。あのなぁ……いったいどうしたんだ、昨日からそんなことばっかり」
「別に、なんでもない」
あぁ本当、兄の恋愛事情なんて、妹にはなんでもないことだ。
「兄貴がそうやって、女の子を誑かしてるんだって思っただけ」
「誑かしてるって……、言っておくがな、情けないけどさ、お兄ちゃん彼女のひとりもできたことがないんだぞ? いったいどこの誰が誑かされるっていうんだ」
「……さぁ、案外近くにいるんじゃないの」
例えば、今目の前にいる人間だとか。
真っ最中なのだから、兄の言葉には説得力がない。
兄は拗ねたような佳夜の様子に、「これは聞かないな」と肩をすくめる。
そうしていつの間にか平らげていたのか、空になった皿をもって立ち上がる。
「そうだ、昨日言い忘れてたんだけど……来週、父さんが帰ってくるらしい」
「お父さんが?」と聞き返す代わりに、佳夜は眉を吊り上げた。
父親は今、ここから遠い海外で単身赴任をしている。
いったいどんな仕事をしているのかはわからないけれど、それなりに忙しいようで、年に一度帰ってくるかどうかというのが常だった。
「だからちょっとばかりご馳走にしようかと思うんだけどさ、佳夜は何か食べたいものとかある?」
「……なんでもいい」
「うーん、有用な意見をどうもありがとう」
兄は苦笑し、空になった皿を手にしてキッチンへ向き直る。
実のところ、兄が作るのなら本当になんでもよかった。
味の問題ではない。兄が台所に立ち、当たり前のようにこの家にいる。それだけで、十分すぎるほどだった。
佳夜はもごもごと口を動かしながら、テーブルの木目を見つめる。
(お父さん、か……)
別に。
帰ってこなくていいのに。
今の生活に――兄と二人だけの、この距離に、割り込んでくるのなら。
そんな考えがふと浮かび、佳夜ははっとして、小さく頭を振った。
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