第7話 排水くち

 僕があの音を初めて聞いたのは、確か2023年の秋だった。

 一人暮らしを始めて半年が経った頃、いつものように夜の台所で皿を洗っていると、排水口からかすかな水音が聞こえた。ポタ……ポタ……と、規則正しく滴る音だ。最初は水の流れだろうと思った。水道の蛇口は閉めているし、水の流れとは別の音のようにも感じた。


ある晩、何気なく耳を排水口に近づけたとき、はっきりとした声が聞こえた。

「いるの?」と、女性のような声だった。

その瞬間、背筋が凍りついた。


それからというもの、声は日に日にはっきりと、長くなっていった。

「まだ、乾いてる?寒くない?」

「誰か、助けて」

まるで排水口の底に誰かが閉じ込められているかのようだった。


怖くなって友人に相談すると、「気のせいじゃない?」と笑われた。

しかし、自分でも無視できなくなり、記録用の小型マイクを設置してみた。


後日、録音した音声を聞いた時の衝撃は今でも忘れられない。

遠くでかすかに囁く声がはっきりと聞こえたのだ。まるで水の中から漏れてくるかのように。


その声は、かつてこのアパートで起きた少女の失踪事件と繋がっていた。

調べてみると、2008年に9歳の藤宮心音(ここね)ちゃんが、この建物の排水管清掃中に行方不明になっていたことを知った。

彼女の姿は二度と見つからず、家族も苦しんだ。


録音機器に残った声は時折、心音ちゃんの名前を呼んでいた。

まるで彼女がそこにいて、助けを求めているようだった。


僕は絶望の淵に立たされた。

けれど、ある夜、夢の中で光が差す水底に少女の姿を見た。

彼女は僕に手を伸ばし、でも届かない。

その時、何かが変わった。


翌日、彼女の名前にちなんで、小さな銀の鈴を排水口に吊るした。

すると、その夜から声が変わった。


「ありがとう……暖かい……もう大丈夫……」


次第に音は消え、今ではほとんど聞こえなくなった。

鈴は今も排水口のそばで静かに揺れている。


これは怖い話かもしれない。だが、僕にとっては救いの物語だ。

声を聞き、応えたことで、閉じ込められた魂はやっと解放されたのだと信じている。


夜、台所で静かに聞こえる鈴の音は、今でも僕にこう語りかけている。

「もう、ひとりじゃないよ」と。

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