第7話 新生活

新米Ωには勉強の連続だった。


 客商売は面白かった。客や仕入れ先との会話も打てば響くようにコツを掴んだ。賄いも素晴らしい。人生で一番、食生活が充実している。ロザリーには学生時代に得る事のなかったΩの知識をあれこれ教えてもらい、子育て、妊娠出産、家事の知識まで身に付いていった。私立の優秀校の首席としては、経理の知識は無かったがあっという間に覚えた。今ではサイラスが帳簿をつけるより、早くて正確だ。


 地味な見た目で目立たなかったはずなのに、透明感と色気が出て来てしまい、男女構わず意識されるのが大変。客はまだしも、付き合いの続く取引先とかだと気まずくならない様に断るのが難しい。Ωの人権は低いが、オドオドする態度をやめたら、いきなり馬鹿な事をする人間はいなくなった。ただ、力も無く武術の心得もないし、そんなに大柄ではないので複数で襲われたりする事を考えると、夜間外を歩く事がなくて助かっている。


 ロザリーの予想通り、ロザリーの出産とジュードの発情期ヒートは重なった。レストランが休みの間、ジュードはアパートに籠っていた。突然の発情期ヒートには抑制剤を飲むことも必要だが、体に負担がかかる。できるだけ自然に任せないと、時期の予想も出来なくなる。何しろまだ数回しか発情期ヒートを経験していない、新米Ωなので。


 ロザリーの二番目の子供はナサナエルと名付けられた。男の子だ。元気で、泣き声も大きい。最初のうちはジュードがいても、大人三人でてんてこ舞いだった。アビゲイルも最初からジュードに懐いてくれて、一生懸命お手伝いをしようとしてくれる。この街でこの家族と知り合えたのは本当に幸せなことだった。叶うことなら、自分にもこんな家族が出来たらいいのにと少し思った。沢山は願わない様にしよう、叶わない時に失望が大きいから。


 ナサナエルが生まれて暫くすると、港に大きなクリスマスツリーが飾られて、クリスマスマーケットが始まった。サイラスと二人でツリーを運んで店とサイラスの自宅のリビングに飾った。

「君はいいの? アパートにも置いたらいいのに」

 サイラスは言ったが、荷物は極力増やしたくない。ジュードは首を振った。

「目に焼き付けておくよ。こんな景色を見られて、幸せな家庭の様子を見られて、本当に感謝してる」


 もう直ぐクリスマスというある日。レストランは定休日。買い物帰り、港でぼーっとクリスマスツリーとクリスマスマーケットを見ていた。すっかり日が落ちるのが早くなり、もう今は十六時過ぎると暗くなる。そろそろアパートに戻らないと。大きな客船が港から出ていくところだった。あの船が見えなくなるまで……もう少しだけ。


 ふと、横のベンチを見ると、頭を抱えている男性がいた。大きなため息が聞こえて、

「あぁ、もう……」

 と言う小さな声がした。


「あの……」

 声を掛けたジュード。顔を上げた男性は端正な顔の眉を顰めていた。

「どうかされたんですか?」

 聞いたところで、何も役に立たないかも知れない。けど、無視もできなかった。

「明日、大切な契約があるんだ。家業の関係で。祖父が起こした商売なんだけど、商売の初めに、ある男を助けたら礼と言ってくれた万年筆があって、大きな契約にはこれを使えば上手くいくって言われたのを代々信じていて……。それが使えない様なんだ」

 男性は鞄から、高級そうな万年筆を取り出した。

「文具屋に持って行ったんだが、うちでは直せないと。中でインクが乾いて詰まっているらしい。水に漬けると、握りの細工の方が持たないとかで……。メーカーに持ち込むしか無いらしいんだが、明日の契約には間に合わない。そんな万年筆一本、どうでもいいと思うだろうが創業以来のジンクスなんだ。ほんとにもうどうしようもない」


 男性はおそらくは自分の気持ちを纏めるために話している様だった。ジュードに期待して、と言うわけではなく。


 『詰まる』『詰まりを取る』

 唯一僕にもできそうな事だった。

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