第二話「スイートピー」
背後で、扉が静かに閉まった。
思わず振り返る。
そこに立っていたのは、翠雨だった。前髪に隠れて表情は見えない。けれど、昨日よりも、明らかに沈んだ気配だけが伝わってくる。
「……おはよう、ございます」
私が声をかけると、翠雨がわずかに顔を上げた。前髪の隙間から、一瞬だけ目が見えた。
赤い。泣いていた——?
「......」
翠雨は何も答えず、足音もほとんど立てずに部屋の隅の席へ向かった。
部室の空気が、ひと段階、重くなる。
「ま、気にすんな。いつものことだから」
小月が、肩をすくめる。
「それじゃ、改めて歓迎するよ。これでひとまず、人数不足による廃部は回避だ」
「安心するには早いですね。月次信頼度評価で切られた部活の話は、珍しくありません」
「現実的だなぁ」
話についていけず、私は口を開いた。
「……私は、何をすればいいんですか?」
「簡単に言えば——部活動の評価を集めるんだよ。月に一回、まとめて査定される」
評価。
その言葉は、嫌になるほど分かりやすかった。大会。結果。順位。
じゃあ、真相研究部は? 学園の謎を暴く。それが目的のはずだ。
——でも、評価するのが学園だったら?
喉の奥が、ひくりと鳴った。自分たちの不都合を暴く部活に、「よくできました」なんて、付くはずがない。
「それは後で考えましょう。それより小月。例の『試験』の準備は、できているんですね?」
「バッチだよ。昨日の夜に全て終わらせた」
小月は、待ってましたと言わんばかりに胸を張った。
「では、始めましょう」
柊の声は、相変わらず落ち着いている。
「さて、新入生には今から入部試験を受けてもらいます」
入部試験?
「心配しないでください。命に関わるようなものではありませんから」
柊が、少し眉をひそめる。
命に関わらない。
——逆に言えば、危険はある、ということ?
「ただし、失敗した場合、入部は認められません。そうなると、貴方達は二日以内に別の部活を見つける必要があります」
淡々とした口調。でも、その言葉には、妙な重みがあった。
「内容は簡単です。この学園で起きている『異常』を二つ、見つけてください」
異常。
昨日の葛城朝晩のこと?
「小月が学園のどこかにヒントを隠しています。でも——ヒントを見つけなくても構いません。観察眼があれば、答えは自然と見えてくるはずです」
柊は、そう言ってパソコンに向き直った。
「水茜にも行ってもらいましょう」
その言葉に、翠雨がわずかに反応した。椅子から降り、何も言わずに扉へ向かう。そして、カチャリと音を立てて扉が閉まった。
……随分と、話が早い。
「行ってしまいましたね。彼女なら大丈夫でしょう」
柊は、不敵とも取れる笑みを浮かべた。
「ルールは、今日の完全下校時間である二十時までに答えを持ってくること。誰と組んでも構いませんよ」
そう言い残し、彼女はパソコンに向き直った。話は終わり、という態度だった。
「心配すんな。ちょこっとムズいかもしれないが、観察する目さえあれば大丈夫だよ」
私はそのまま、部室を後にした。
◇ ◇ ◇
この学園は、無駄に広い。居住区、校舎、部活動スペース、ショッピングエリア。
この中から、異常を二つ。制限時間は二十時まで——あと十一時間半。
まずは、先に動いた翠雨を探す。単独行動より、情報を持っている可能性のある相手と組む方が、効率はいい。
——と思っていたが、案外すぐに見つかった。
部活棟の入り口、そのすぐ脇。木陰に、翠雨は立っていた。
ぼんやりと前を向いているけれど、視線は定まっていない。
「……先輩、協力してください。退部は、避けたいですから」
返事はない。
「制限時間は二十時までです」
「……関わらないで」
短く、切り捨てるような一言。
「何を言って……」
言葉が、続かない。彼女の目が、あまりにも冷たかったから。
「私、普通にあなたのことが嫌い」
淡々とした声。感情をぶつけるというより、事実を並べているみたいだった。
「Fランクだから?」
思わず、聞いていた。
「違う」
翠雨は、即答した。けれど、それ以上は何も言わなかった。
「あなたを見ると……思い出すの」
視線が、一瞬だけ揺れた。
「忘れたい、何かを」
その声は、震えていた。
「信用できない。だから、離れた。それだけ」
理由を聞いても、答えてくれないだろう。その声が、すべてを拒絶していた。
「でも、異常は見つける。……私もそれが目的だから」
切り捨てるような言い方なのに、筋は通っている。
「……あっ」
引き止める言葉は、浮かばなかった。
翠雨は、そのまま私とは真逆の方へ歩き出した。背中は、すぐに人混みに紛れて見えなくなった。
◇ ◇ ◇
私は、校舎周辺を歩き始めた。
「異常を見つける」。
具体的には、何を探せばいいのか。
昨日の葛城朝晩のような、明らかなシステムエラー? それとも、もっと見えにくい何か?
小月が「ヒントを隠した」と言っていた。でも、柊は「観察眼があれば見つかる」とも言った。
つまり——ヒントは補助。本当に大切なのは、この学園で「何が起きているか」を見抜くことだ。
◇ ◇ ◇
食堂付近を歩いていた時、違和感に気づいた。
植え込みの一角。葉の光り方が、妙だ。
他の葉は、自然な光の反射。でも、あの一箇所だけが——テカテカしている。
近づいて、指で触れる。冷たい。プラスチック。
周囲の葉は、ちゃんと土と水の匂いがする。ここだけが、不自然だ。
その葉の裏に何かが書かれているはずだ。汗ばむ手で、そっとひっくり返す。
『信頼される者は、信頼されない者を見下ろす』
——これが、小月の隠したヒントか。
信頼される者。つまり、高ランクの人間。
信頼されない者。つまり、Fランクのような存在。
「見下ろす」——これは、物理的な意味だろうか。それとも、精神的な?
この学園では、ランクが高い者ほど高い場所に住む。Sランクはタワーマンション。Fランクは地下。
文字通り、「上」から「下」を見下ろす構造になっている。
でも、このヒントが指し示しているのは——場所じゃない。
「人」だ。
高ランクでありながら、低ランクを積極的に「見下ろす」人間。
中学の時、私はそういう人を知っている。
優しい笑顔で、いつも「心配です」と言っていた人。
保健室で、「無理しなくていいのよ」と声をかけてきた人。
その言葉の裏で、クラス全体を——。
もし、彼女がこの学園にいるなら、それは相当まずいことだ。
◇ ◇ ◇
——キーン、コーン、カーン、コン。
チャイムが、空気を切り裂くように鳴り響いた。
『校舎A棟に集まっていない新一年生は、至急移動してください。クラス発表を開始します』
急かすような放送の声が、学園中に流れる。
——クラス発表。
心臓のあたりが、ひくりと跳ねた。
今から? もう?
スマホを見る。十二時三分。
……もう、始まってる。
私は、慌ててプラスチックの葉をポケットに押し込んだ。
A棟へ向かって、私は走り出した。
◇ ◇ ◇
着いた頃には、十二時十分を過ぎていた。
すでに人だかりができていた。掲示板には紙が何枚も張り出されている。
一年生は五クラス。A組から順に視線を滑らせる。名簿は、五十音順。
横曽根。「よ」は、ほぼ一番下だ。
下段まで目を走らせて――あった。
B組
横曽根和花
ひとまず、息をつく。
そうだ。
この学園に、そしてこのクラスに――彼女はいるだろうか。
サ行の欄――。
あった。
一年B組
心臓が、嫌な音を立てた。
同じ学園。しかも――同じクラス。
偶然?
それとも――。
入学前のアンケートを思い出す。
「過去に関係のあった人物」の欄。
私は、全て「なし」と書いた。
でも――もし誰かが、私の名前を書いていたら?
学園が意図的に、同じクラスに配置したとしたら?
一つ目の異常。
「信頼の上に立つ者が、信頼されない者を見下ろす」
その構造を、最も自然に体現している人物。
白崎阿佐美。
——では、もう一つは?
他のクラスにも中学の同級生がいるかもしれない。
そう思って、隣の紙へ視線を移した、その時。
C組
翠雨水茜
……え?
翠雨。真相研究部の——先輩、だと思っていた人。
けれど、その名前は「一年C組」の欄に記されている。
待って。じゃあ、あの人は——
「……同じ、一年生?」
思わず、声が漏れた。
小月の言葉を思い出す。「部長と副部長は二年。俺と水茜は……まあ、色々あってさ」
曖昧な言い方だったから、私が勝手に先輩だと思い込んでいただけだ。
翠雨は、私と同じ一年生。
たったそれだけの事実なのに、肩の力が、わずかに抜けた。
そして私は彼女を「先輩」と呼んでいた。
勝手に決めつけて、勝手に呼んで。
もし彼女が不快に思っていたとしたら?
——考えても、今は仕方ない。
複雑な気持ちを抱えたまま、私はB組の教室へ向かった。
◇ ◇ ◇
私は、すでにできあがっているグループの後ろに続くようにして、教室に入った。
中は、思ったよりも広い。席は五列五段、全部で二十五席。
私は一度、息を整えてから、空いている席を探した。
——ここが、これからの場所だ。
「おい、見ろよ。このクラスに——Fランクがいる」
威勢のいい男子生徒の声が響いた瞬間、教室の空気が、ぴたりと止まった。
学園アプリでは、一定範囲内にいる生徒のランク分布が表示される。ただし、わかるのは人数だけ。誰がどのランクかまでは表示されない。
私は、手元のスマホに視線を落とした。
Fは、一人。この教室にいるFランクは、私だけだ。
私はそそくさと、教室の隅の席に腰を下ろした。できるだけ、目立たない場所。
目立てば、きっと始まる。誰がどのランクかを探る、あの空気。
そうなれば、私はまたいない人間になる。それでも、悪くない。どうせ同じ結末に行き着くなら、早い方が楽だ。
「あら……横曽根さんではありませんか?」
斜め上から、やけに丁寧な声が降ってきた。
——私を、知っている?
恐る恐る顔を上げる。
紫色の長い髪。そして——値踏みするような視線。
見覚えはある。なのに、決定的な何かが思い出せない。
「あら……まさか。わたくしのこと、忘れてしまったのですか?」
口元だけが、綺麗に笑った。
「悲しいですわ。あなたに、あんなに"優しく"してあげたのに」
声は柔らかい。けれど、言葉の一つ一つが、刃物みたいに研がれている。
私に、優しくした人間? そんな存在、いるはずがない。それなのに——胸の奥が、嫌な音を立てた。
忘れている。思い出せないのではなく、思い出したくない何かを。
「中学三年のとき。あなた、よく保健室にいましたでしょう?」
——その一言で、景色が歪んだ。
「わたくし、心配して声をかけてあげたはずですわ。誰も来なかったから。あなた、いつも一人でしたもの」
優しい口調。けれど、そこにあなたの気持ちは含まれていない。
思い出す。ベッドの横。カーテン越しに落とされた、同情と好奇心が混ざった視線。
「無理しなくていいのよ、って。そう言ったでしょう?」
——違う。あれは、泣きそうだったんじゃない。逃げ場がなかっただけだ。
「まさか……忘れるなんて。助けてあげた側としては、少し寂しいですわ」
私は、何も言わなかった。
この人は、悪くない。少なくとも、そう信じている。だからこそ——私の傷は、存在しなかったことになる。
この品がある口調。紫色の髪。
——思い出した。
彼女こそ、白崎阿佐美。
隣のクラスの学級委員長。学校が「模範」として扱っていた生徒だ。
そして同時に——彼女は、自分のクラスを内側から壊した人物でもある。
「それにしても——」
白崎が、ふと視線をクラス全体に向けた。
「このクラス、いいですわね」
私は、息を呑んだ。
「一人だけFランクがいるなんて、分かりやすくて」
口元が、綺麗に笑う。
「みんな、すぐに仲良くなれそうですわ。ね? 横曽根さん」
——背筋が、凍りついた。
この人は、また同じことをするつもりだ。私を使って。このクラスを——。
「あら、どうかしましたか? 顔色が悪いですわよ」
優しい声。冷たい目。
白崎は、満足そうに微笑むと、自分の席へ向かった。
◇ ◇ ◇
一つ目の異常——白崎阿佐美。
彼女の存在そのものが、この学園の「信頼度システム」の歪みを体現している。
でも、もう一つの異常は?
私は、スマホを取り出した。
昨日のことを思い出す。葛城朝晩のマイナススコア。
初日で−100。システムエラーだと学園側は言っていた。
でも——本当にそうなのか?
私は、学園のSNSを開いた。
昨日の投稿を遡る。
『葛城朝晩、信頼してたのに裏切られた』
『あいつのせいで巻き込まれた』
『二度と会いたくない』
——これは?
投稿者のプロフィールを確認する。
全員、新入生。一年生。
でも、これだけで−100には、ならない。
もっと、何かある。
私は、学園アプリのヘルプを開いた。
「信頼度ポイントについて」
「送り方」
「受け取り方」
——そして、一番下。
「信頼撤回について」
ページを開く。
『一度送った信頼ポイントは、原則として取り消せません。ただし、重大な信頼違反があった場合、「信頼撤回」機能を使用できます。
撤回すると、送ったポイントが回収されます。
さらに、対象者には「ペナルティ」が付与されます。
例:10ポイント送信 → 撤回 → 対象者は−20ポイント』
——これだ。
葛城朝晩は、入学前に複数人から信頼されていた。
でも、何かが起きた。
そして、入学初日——複数人が一斉に「信頼撤回」を実行した。
答えは、出た。
白崎阿佐美と、葛城朝晩。
一人は「加害者」として。もう一人は「被害者」として。
どちらも、この学園の異常を体現している。
スマホの画面を閉じる。
二十時までに、この答えを真相研究部に持っていけばいい。
けれど——本当にこれでいいのか?
白崎阿佐美の名前を提出すれば、彼女は気づくだろう。
そして——。
クラスでいじめられるかもしれない。退学させられるかもしれない。
それでも、提出するしかない。
だって、自分の選択に悔いを残すつもりはないから。
教室の後ろから、視線を感じた。
振り返ると、白崎がこちらを見ていた。
笑顔で。
その笑顔の意味を、私は知っている。
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