第4話
嗚呼、まただ。
頭が痛い。それは決して、机に突っ伏して寝ていたからではない。
イブプロフェンを口に放り込み、窓の外を見上げる。街はまだ眠っている時間だが、名二環を走るトラックのヘッドライトには切れ目がない。
ベッドに移り、もう一度眠りにつこうとする。全身の全ての細胞が鉛に変わってしまったかのように身体が重い。でも、やはり眠れない。どうせ眠ろうとしたって無理なのに、何をやっているんだろう。
うんと力を入れて体を持ち上げ、机に向かって、姿勢を正した。目の前のパソコンを払いのけて、引き出しから原稿用紙を一枚取り出す。
書くことはもう決めている。憂鬱が脳を埋め尽くしているけど、それでも僕は、美和さんに喜んでほしいと思っている。
僕は美和さんの力になりたい。僕は何もできなくなんかない。もう子供じゃないんだ。
「いよいよ模試の日がやってきましたね。緊張と不安でいっぱいになっていることと思います。今までたくさん頑張ってきたことは、知らず知らずのうちに、力になっているはずです。努力している姿は、受験の神様がきっと見てくれていたと思うよ。
最後の最後まで、決してあきらめず、油断せず、全力で臨んでください。
君の努力が実ることを望んでいるのは、君と僕だけじゃないです。僕も含めて、みんな、君の力にはなれません。でも、美和さんなら合格する、AAAを取れる!
僕は信じています。
全力で応援してる。」
窓をくぐって美和さんの部屋に失礼する。絶対に起こさないように、抜き足差し足、彼女のスクールバッグを手に取る。問題集の適当なページに、今書いたばかりの原稿用紙を四つに折りたたんで挟んだ。使い込んだこれは、きっと試験の前に見直す。
僕は部屋に戻る。
なぜか胸の奥にこみ上げるものがあった。両手で顔を覆う。泣きたいのに涙は出てきやしない。パソコンを元の位置に戻し、作業を開始する。
しかし、やっぱり集中できない。
こうなってしまえば仕方ないから、僕は着替え、窓から外に出る。
農道を、澄んだ空気を味わいながら、歩く、ゆっくりと。
そうしていればいつしか、夜は明ける。
オレンジ色に染まる大空。龍の形の雲は、自分はカメレオンだと言うかのように色を変えていく。
このままどこかへ行きたい。世界中を旅したい。こんなに美しいのだから、家にいるばかりなんて、もったいないじゃないか。
そうだ、せっかくなら、美和さんも一緒に。
どこへ行っても、僕らならやっていけるはず。
走ろう。
やっぱり、早く帰るんだ。君と繋がるあの場所へ。
大丈夫。大丈夫だよ、僕らは。
名二環を走る自動車は、トラックばかりだったのが変わり、一般の車が多くなっている。コンビニ前の不良はもう退散している。
今日も朝が来た。
「おはよう。ちょっといい?」
いつも通りの口調で、美和さんは質問した。
「ああ。」
「この問題、教えて。」
「……これ、分からなかったのか?」
「昨日の夜、またうなされてたでしょ?」
「大丈夫だ、大丈夫。」
「どう言えばいいか分かんないけど」
「それより自分の心配をしろ。」
「あ、やっぱ、そうだよね。頑張らなきゃ。もう戻るね。」
美和さんは僕の方を気にしながら窓を跨ぐ。再び一人になった部屋の真ん中で、僕は大の字に寝転がる。布団などは敷かず、直にフローリングで。全身が痛いけど、痛いと思えるのはここに生きている証拠。そのまま僕は目を閉じる。
窓を閉められる音が、聞こえてこなかった。
今日も学校に行き、パソコンに向かい、作業をする。
部長先輩は僕を見ても無視する。せっかく打ち解けられた前原も。僕は様子が変だろうか。
しまった、忘れてた。あいつも応援してること、伝えなきゃ。
いくつかの視線を感じ取りながら、でも今日は何も話さないままで、昼が来て、また夜が来る。地球は動き、一日が進んでゆく。人間が定めたタイミングを過ぎれば明日になる。どうせ明日もまた、今日と同じ。なんだか昔に戻ったみたいだ。朝になれば、同じなんかじゃない、もっといい日が来ていることを願う。
どんな特別な朝でも、カラスはいつも通りに鳴く。
美和さんと言葉を交わす。
頑張って。いってらっしゃい。いってきます。
武運を祈る。
僕はただ悶々としているだけでも、空の色は移り変わってゆく。
当たり前だけど、普段は気にしないからか、当たり前じゃないような気がする。
「どうだった?」
「まあ、ぼちぼちかな。」
「君ならきっと大丈夫。」
美和さんがいつもの明るさを持っていないのは、気のせい?
「出来たよな。」
「……」
「出来たよな?」
「手紙入れたの、君だよね? ありがとう。感動した。」
「喜んで貰えたなら、何より。」
「久しぶりに、本当に、感動した。」
フッと頬がほころんだ。
「そんなに? たったあれだけなのに。」
「試験中なのに、泣きそうで、集中が……」
「集中出来なかったのか?」
「そんな大袈裟なことじゃないよ。」
「ごめん。」
「ううん。いいの。そうじゃないんだって。」
「ん?」
「嬉しかったから、いいの。謝らないで。」
美和さんが、にっこりと優しい笑顔を浮かべた。
「でも、ちょっとまずいかもね。」
「親?」
「そうだよ。啖呵切ったんだもん、結果がついてこなかったらどうなることやら。」
「その時は、ここへ来ていいよ。」
「じゃあ、真っ先に君を頼ろうかな。」
「逃避行とかは?」
「それも楽しそう。」
「どこがいい? やっぱり東京?」
今の日常が終わる時、僕たちは笑っているだろうか。
それから、夏休みを気ままに過ごした。
部の仕事が終わり、部長先輩が企画してくれた慰労会だ。いつも通りのコンピューター室に集合したあと、教室に移動して、お菓子をみんなで食べまくる。
そういえば、自転車を全速力で漕いだのは久しぶりだ。早朝でなくても、空気が湿っていても、風を切るように進んでいると、生きているという感じがするみたいだ。
僕がコンピューターの戸を開けると、住田先輩も部長先輩も前原もすでに到着していた。先輩は先輩同士、後輩は後輩同士でつるんでいる中に、学年の壁を越えた三人がいる。
「そういえば、前に言ってた受験生はどうなった?」
「ああ、結果待ちだよ。」
先輩は作り笑いを浮かべている。
「あ、俺、煎餅持ってきたんで。どうぞ。」
前原はリュックから醤油煎餅を取り出し、一番に部長先輩へ差し出した。先輩は喜び、かけらをつまんで食べ始める。本当は、ここは飲食禁止だけど。
高級な店のものなのだろう、紙製のパッケージには金色の文字が印刷されていて、重厚感がある。しかし、中身は原形を留めないほど、割れていた。
「美味い。」
君はきっと大丈夫。大丈夫。
昼過ぎには帰路に着いた。お菓子なんていくらでも食べられる。それはつまり、お菓子で腹は満たされない。
渡虹橋の駅に着いて地上に上がると、街灯が点けられるほどの土砂降りだった。周囲の家々も、窓から灯りが漏れている。
傘を持っていないので、濡れるしかなかった。
増水した緑川を横目に、自宅へと近づいていく。そこで僕は気がついた。
美和さんの家は真っ暗だった。
そっと近づいて、漏れ聞こえる声に耳をすませる。
「AAだ。残念だったな。」
「私は諦めない。」
「馬鹿なことを言うな。落ちたら俺の顔に泥を塗ることになるんだぞ。」
「お父さんにとっては、メンツが全てなんですか。」
「病院での立場に傷がつくんだぞ。そうなったら、美和の将来に関わる。」
「私、言ったよね。自分の将来は自分で決めるって。美和ちゃんと私は、一心同体なのよ。」
「お前って奴は! 世の中は甘くないってことくらい分からないのか? 朝丘くらい余裕じゃなきゃ、先が思いやられる。」
「私は諦めません。」
「美和、もういいんじゃない?」
「私の居場所はここじゃない! 美和ちゃんだって絶対怒らない、私が私のための選択をしても、あの子ならわかってくれる。」
「つべこべ言うな。お前は、失敗したんだ。」
「まだ始めてもないのに、失敗も何もないわよ。」
「そんなに不満があるなら、お前がここにいる理由はない。」
「美和ちゃんのためでしょ⁉」
「何年も前のことだ。そろそろ忘れろ。」
「美和ちゃんはお父さんにとってそんな風に思われていたのね。忘れようと思えば忘れられるのね。よくわかったよ、美和ちゃんがあんなに苦しんだのは、こんな家だからよ!」
「嫌なら出ていけ」
「喜んで出ていくわ!」
「ちょっと、あんまり大声出さないでちょうだい。」
「近所に聞こえるから? どうでもいい。どうせ私には、近所なんて関係ない。いつまで周りを気にするの?」
「ねえ、あなた、何してるのよ。」
「あはは、『あなた』って、急に美和じゃなくなったのはどういう意味? 私を美和にしたのはあなたじゃない!
私は、美和ちゃんや花織のために、ここに来た。あんたたちのためじゃない。」
は?
僕が立っているここだけ、時が流れていないみたいだ。
美和さん、それは、何の話?
聞き耳を立てるなんてできない。頭の中を整理しようと、それだけで精一杯。
鼓動が静まる間もなく、リュックを背負った君が現れる。
なぜ?
「あれ、そこにいたの? 今日お楽しみ会じゃなかったっけ。思ったより早いね。」
「昼までで終わりだ。」
「お帰り。」
「なあ」
「聞いてたんでしょ。」
「カオリって?」
「さあ?」
にこにこ笑って、僕の言うことがさっぱりわからないみたいな顔して。
「とぼけないでくれ。」
「誰だと思う?」
「……」
「おい何か言えよ。」
「今日泊めてくれない?」
「花織がどう関係するんだよ、あの子は」
「死んじゃったね。
私と、苗字、同じだね。
私はいったい何者なんだろうね。
知りたいよね。私が怖いよね。
でも私は教えたくない。だって、私が何もしなければ、全部丸く収まるんだよ? そうすればみんな幸せだよ? 一番良いじゃん。君は不幸せになりたいの?」
「そういうことじゃなくて。」
「じゃあどういうこと?」
「どうって……」
「私には会いたい人がいるから。
これでいいの。
じゃ。ばいばい。」
これ以上深入りするなと、言われているみたいだ。
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