第3話

「進路、なんて書くか決めたか?」

「君の意見を聴いてから書こうと思ってるんだってば。」

「君は受験すべきだ。」

 美和さんは何も言わない。

 もしかして、もうひとつの方を彼女は期待していたのか?

 いや、まさか、そんなことはないだろう。

「そう……」

 彼女はぼそりと呟いた。

「じゃあ、私が受験することで周りに迷惑がかかったとしても? もし仮に親が許してくれないのには大きな理由があったとしても? 私しか、受験して得する人がいなかったとしても?」

 噛み締めるように、でも一息に君は言う。

「やりたいからやるんだろ。だったら、細かいことは後でなんとかすればいい。大丈夫だよ。」

「わかった。

 同じ意見なら安心した。

 やりたいからやる。それが一番だよね!」

 君は微笑みを浮かべた。

「でも、親に認めてもらうのが大変だよ。」

「君の熱意はきっと伝わる。惰性で過ごしている人より、目標をもって取り組む意思のある人の未来は、きっと明るいと思う。」

「カッコよ!」

 なぜ囃し立てるんだ?

「やめろよ。君の好きなようにすればいいと思っただけだ。その方が君はいいだろ。」

 人をイジるときの鉄則をこの人は知らないのだろうか。相手がボケた時こそツッコミを入れるべきだろう。

「相談してきたのはそっちだろ。僕は聞かれたことに答えただけ!」

「それであのセリフは出ないよ。」

「別に、普通だろ。」

「わかってないなぁ」

「何が」

 僕は語気を強めた。

「女!」

「いや、女って、女なら充分わかってる。だって、保健でさんざん習っ」

「はいはい、分かった分かった。」

「聞いてないだろ!」



 太陽が完全に沈んだ。夕方決まったばかりの思いを、美和さんは話す。

「ねえお母さん。私、朝丘高校を受けることにした。」

 楽しいだけで済む日々は終わる。

 僕が答えを出したらすぐに行動に移して、そのバイタリティの強さには頭が下がる。

「え? ちょっと、あなた……何を言ってるの?」

「私、受験する。」

「冗談じゃないわよ! あなたが天陽に入れるように私がどれだけ苦労したか!」

「頼んでない。」

「バカね。あなたは跡取りなのよ。」

「自分の将来は自分で決める。」

「そう言って、落ちたらどうするのよ。ちゃんと考えているんでしょうね。」

「簡単じゃないわよね。それは重々承知してる。でも、私、ここじゃないって思うの。」

「何を言ってるのよ。」

 礼子さんは怒り、呆れ、思い通りにならない苛立ちをぶつけているみたいだ。

「入学した時はあんなに『素晴らしい学校よ』って言ってたのに、あなた、忘れたの?」

「悪い学校だとは思ってない。でも違うの、そうじゃない。」

「どういうこと?」

「息が詰まるの。ネット上の評価なんか当てにならない、公式に出ている言葉が一番参考になるって、お母さんはあの頃言ってたよね。確かにそうだと思うけど、入学してみたら実情は違ってた。学校に反対する子はいないし、あ、そりゃそうだよね。あの学校に行きたくて行ってるんだもん、良い学校だって言うに決まってるわよ。」

「それでも、行くべき学校でしょう? レベルが低いところは、論外だわ。」

「偏差値が高いとか進学実績が良いとか、くだらないよ。

 行事は盛り上がらないし、ことあるごとに競争させられるから、クラスの子たちは全然仲良くならない。」

「あなたは特進クラスじゃない。高度な勉強をするための場所なんだから、当然でしょ。」

「中学時代も高校時代も、人生に一度しかないの。勉強ばっかりの十代なんて嫌。ワイワイガヤガヤとバカみたいに騒いでこそ高校生じゃない。私だって楽しいスクールライフを送りたいっていう願いはあるの。勉強なんて、それに比べたらどうでもいいわ。」

「勉強なんてどうでもいい。

 あなた、言ったわね。

 学校は勉強するところなのに、勉強ばかりは嫌だなんて。勉強して賢くなって、そして医学部に進む。それがあなたの約束された将来でしょう。

 なんて馬鹿なことを……

 あなた、愚かよ!」

「ちょっとくらい聞いてくれたっていいじゃない。

 私が私の将来を決めるの。私以外、私の将来の選択には関係ないの!」


 母に話をしても、まったく聞く耳を持ってくれなかった。微塵も期待していないが、同じ話を父親にもする。僕は美和さんの気持ちを、そうプロファイリングした。

 あまりに大きい声で言い合っているし、美和さんは自室の部屋の窓を全開にしていて、会話は全部聞こえている。


「はあ? 朝丘高校を受験する? お前は何を言っているんだ。」

 やはり、今度は男の声だ。

「そのままのことよ。私は受験する。」

「わざわざ天陽を受験させた意味がなくなるだろ。」

「大切なのは私が何をしたいかじゃないの? 天陽じゃなきゃいけない?」

「お前は医者になるんだ。天陽なら授業もサポート体制も充実している。そのまま進級しろ。」

「少子化の影響でレベルは落ちてる。学校の雰囲気だって良くない。毎月何人が相談室行きになってるのか知ってる? カウンセリングの申し込みが増えて、学校はスクールカウンセラーを追加で雇ったのよ。あと三年もこんなところにいるなんて、頭が痛くなる。」

 一気に捲し立てている。

「そんなことで逃げようとするとは、言語道断だ。」

「そんなことって言ったわね。あんたなんか、どうせわからないでしょう。ああ違う、わかろうとしないんだ。」

「おい、お前はどう思う。」

 礼子さんも部屋にいるらしい。

「話そらさないでよ。お父さんに訊いてるの。」

「俺にはまだ仕事が残っているんだ。すぐ病院に戻る。お前の話はまた今度だ。」

「嘘つき。家で仕事することなんてないじゃない。」

「親を嘘つき呼ばわりするとはけしからん。」

「家でしか威張れないからって、その態度。気持ち悪いからやめてくれない?」

「今の生活があるのは誰のおかげだ!」

「もういいわよ!」

 そのまま、近付いてくる足音がする。


 バン! と扉を開けてすぐ閉めて、やはり僕のところに来た。


「うち、もう壊れてる!」

「つらいな。」

「そう言ってくれるのは君だけだよ。」

「応援してる。」

 何と言えばいいのかわからない、沈黙の時間が流れる。

「こんなところ、出ていきたい。」

「まだ諦めるには早いと思う。」

「説得は続けるよ。でも提出期限は近いし」

「だから諦めるのか?」

「諦めたくはない。」


 突如、スマホが磯村家の不和に似つかわしくない、軽快な音楽を奏で始めた。電話だ。

「なに?」

「部長先輩だ。

 ごめん、ちょっと出る。」

 僕は彼女を、肩書きそのまま、部長先輩と呼んでいる。

「文化祭で流すフラッシュの件、今年も例年通りパソコン部が作ることになるから、明日の部活で一年生にはいろいろと説明するわ。全員強制参加よ。あんたはすぐサボるから、いいね? 私、ちゃんと言ったからね?」

「はい、聞きました。了解しました。」

「本っ当にサボらないでよ。めちゃくちゃ大変なんだから。去年も一昨年もその前も、毎年部員総出でやるのよ。」

「こんな厳しいとは知らずに入っちゃったんスよ。選択ミスでしたね。」

 先輩が吐いた息の「フフッ」という音が聞こえてきた。

「バカ言ってんじゃないよ。」

 こう話していると、眼鏡女子にガサツさと、そしてキャリアウーマンの雰囲気を足せば部長先輩になる気がしてならない。

 参ったな。帰りが遅くなってしまう。美和さんといる時間が減るではないか。

 できる限り君のそばにいたい。僕なら君の隣にいられるし、力になれる。パソコン部は文化祭準備で負担が大きいとは噂に聞いたが、本当だったらしい。こんなことなら、生物部に入って、毎朝早くからウサギの世話をする方が良かったかもしれない。


「ごめんごめん」

「誰から?」

「部長先輩」

「……え、部活やってたの⁉︎」

「ああ。パソコン部。」

「帰宅部だと思ってた。いつも帰り早いから。てっきり、その辺の専門書とかも全部趣味だと思った。」

「最大限サボれる部にしたんだけど、やっぱり文化祭はどこも忙しくて。『明日はサボらないでよ!』ってさ。」

「え、部長って、女子?」

「そう。しかもめっちゃ仕事できる。」

「大変じゃん。

 私のことはいいから、仕事はちゃんとやった方が良いよ。」

「両方やる。それに忙しいのは準備だけだし。全然大丈夫。」

「へえ、当日は暇なんだ。

 いろんなクラス見て回る?」

「ああ。それに、一般公開もあるんだ。

 もしよかったらだけど、あの、ほら、学校見学も兼ねて」

「行く! 行きたい! いつ?」

「十月の二週目。」

 僕は表情筋に何の指令も送っていないのに、勝手に動いていやがる。僕は美和さんとは反対側を向いた。

「ちょっと、ねえ、なんで壁見てるの?」

 半笑いで聞かれた。

「ニヤけてる?」

 そうだと言いたいところだが、言わない。

「え、まさか泣いてる? なんで?」

 違うよ。

「君、意外と涙もろいもんね。あ、もしかしてやらしいこと考えてる?」

 おい、そんなわけないだろ。茶化すにも、正しいやり方と間違ったやり方がある。

「こんなところに女の子がいたら想像しちゃうよねえ、もしかして図星かな?」

「馬鹿か!」

 しまった!

「やっぱりにやけてる。」

 嗚呼、見られた。自分としたことが振り返ってしまった。

「私が来るのが嬉しいんでしょ?」

 美和さんは一拍置いて続ける。

「来年はお客さんじゃない。頑張る。ね!」



   2.


 朝の日課であるランニングは、夏休みだろうと関係なく、毎朝五時から行う。ソファで寝ている母を尻目に、顔を洗う。服装も化粧もばっちり決め、高い能力をもつ女性社員が、まさか家ではこんな姿で寝ているなんて、誰が想像するだろうか。起こさないようにそっと外に出て、僕は夏の朝に触れる。

 六時に家に戻ると、母は既にいなくなっていた。

 美和さんの部屋に向かって呼び掛ける。あと一時間もしたら、美和さんは出発だ。彼女の朝は僕と過ごす時間になっている。とはいえ話すのは勉強のことばかりだ。

「動滑車が三つあったら、この紐にかかる力は6分の1になるってことでいいよね? なんかこの問題、どうしても合わないんだけど。」

「この因数分解、もしかしてたすき掛けを二回やらなきゃいけないやつ? それ高校内容じゃん。別に解の公式でも無理じゃないけどさ。」

「『北緯66.6度の場所では、夏至の日に太陽の日周運動はどのようになるか。解答欄に合わせて図示せよ』だって。うわー、こんなの忘れちゃったよ。」

 そうして二人で勉強しても、受験を許されなければ意味がない。娘の行動を見て、態度は少しずつ軟化している。次の模試でAAA判定だったら許すと言ってくれた。

 僕は十時から部活がある。

 美和さんの勉強をみて、彼女が残していく難問を片付け、そして電車に乗る。各団体が発表で使うものとして依頼してくるため、パソコン部が制作するファイルの数は、部員数のおよそ三倍だ。分担は、全員参加させられた時に決まった。多いし面倒だし、部長先輩改め鬼先輩と呼んでやろうか。

「どこまで進んだ?」

「半分くらいっすかね。」

「そう。ちょっと見せて。」

「あ、大丈夫です。問題なく、かつ順調に作れてますから。」

「ふうん、目が泳いでるけど。ま、がんばれ。」

 右の口角だけが上がっている。怒ってるやつだ、これ。

「来週リハあるから。配線と段取りの確認、忘れずにね。」

 鬼の言う通りには無理だ。こうなってしまったら仕方ない。

「おい、どこまで進んだ?」

「最後のひとつが、あと半分ってところだ。」

「僕の分もちょっとやってくれない?」

「ああ、いいよ。」

 僕には小学生以来やっと友達らしいものが出来た。同じ部でクラスは違う、前原だ。彼は定期試験で学年一位の座を獲り、さらには入学式の首席挨拶も担当していたため、既に校内の有名人だ。同じ中学からここに進学した者曰く、僕は柔らかくなったらしい。僕自身としては心外だ。いつも思い出すことは変わらない。

「三好ってさ、彼女いるのか?」

 前原は僕に質問した。そんなこと、急に聞かれると戸惑う。

「その反応は、いるってことだ。そうか、お前もリア充なんだな。」

「彼女欲しいのか?」

 画面からは目を離さないこの友人に、僕は僻まれている気がした。

「僕だけに言わせるのはずるいぞ。」

「実は最近な……」

 椅子をぐるりと回し、体ごとこちらに向けてくる。

「何だよ。さっさと言え。」

「お前は幸せそうだな。」

「妬みかよ。」

「無駄口叩く暇あったらキーボード叩いて!」

 鬼先輩の怒号が飛んできて、僕たちは体を画面に向ける。

「これ、いつになったら終わるんだよ。」

「あと一週間くらいだろうな。」

「……長い。」

「何だって?」

「今、中三の子の勉強をみてるんだ。親が許してくれないから、何としても結果で本気を証明しないと。なかなかレベル高くて大変なんだよ。」

「高校受験に反対してるのか?」

「中高一貫だから。」

「それで?」

「模試の結果がAAAなら受けていいって言ってくれてな、朝丘志望で、こんなの、たぶん親も無理だと思って言ってるだろ。それで、模試が今度の日曜だ。」

「もうすぐだな。」

「何とかして頑張って貰いたいんだ。だから早く帰って一緒に勉強したいんだよ。」

「ノロケかよ」

 やれやれ、とでも聞こえてきそうだ。

「絶対に落ちないなら許すなんて、それは無理だろう。あの子、天陽中で、父親は立派な脳外科医で、絵に描いたようなエリート一家が本当に存在するんだなって。

 前原はAAA取ったことある?」

「あるぜ。」

「うわ。マジかよ。僕はどんなにラッキーでもAAまでしか取れなかった。」

「たまたまだよ。頭の調子が良かったってだけだ。」

「その時、何点だった?」

「満点。」

「満点⁉」

「ああ、相当ハードル高いぜ。」

「うわあ……」

「お前が弱気でどうすんだよ。一、二問なら間違えても大丈夫だぞ?」

「それでも充分レベル高いから。」

「お前は無理だったかもしんねえけどさ、その子はやるしかないんじゃないか?」

「確かに。」

「俺も応援してるから、その子に伝えとけ。」

 なんか、いい奴だな。頭も性格も良いなんて、欠点はないのかよ。

 あっ、これは、口には出さないようにしなくちゃ。

「そういえば、住田先輩が盲腸になったって聞いたんだが、大丈夫なのか?」

 前原は話を続ける。

「よく知らないが、大丈夫だろ。盲腸なんてさほど深刻な病気でもないしな。」

「手術したらしいぞ。これ見ろ。」

 彼はPCの画面をこちらに向けた。

「江口先輩から頼まれた。『住田くんは少しの間休むからお願い。』ってな。」

 さすが前原、部長にも信頼されている。

「一日も早い復帰を祈るよ。」

「苦労はよく分かる。」

「ん? 盲腸なったことある?」

「いや、まあ、長く休んだことなら。まだ耳の後ろに痕があるけど、大したことじゃないから。」

 みんな苦労してるんだな、思う。でも口には出せなかった。前原なりに謙遜しているのだろう。

「そう、治ってよかったな。」

「そんなことはもういいから、お前のせいで俺の仕事が増えたんだ、早くやれよ。」

 続く言葉はなくなった。鬼に睨まれた気がした。


 家に帰れば再び勉強。美和さんが模試で一点でも多くもぎ取れるように、僕は早く家に帰らなければ。このチャンスを活かさない手はない。

 美和さんがこちらに来て、帰ったら自分の作業をする。今の生活ルーティンだ。

 ノートパソコンに向き合っている間に、時刻は深夜になる。



 カタカタカタ

 木霊する音と、夜の静寂。



 彼女が僕の部屋にいる。

 いや、違う。インテリアが僕の部屋ではない。ここはどこだ?

 熊の絵があしらわれた壁掛け時計、小学校四年生の図工で作ったペン立て、市販の計算ドリル。

 ああ、そういうことか。

 僕はまた、花織の部屋にいる。

 花織は窓から地面に飛び降りた。

 住宅街を一息に走り抜け、渡虹橋駅へ向かう。エレベーターはちょうど彼女の目の前で行ってしまった。地下へ潜る長い階段を、君は一段飛ばしで駆けてゆく。

 花織は機械をスムーズに操作し、切符を購入する。そこで君と僕は合流する。

 ホームに降りるとタイミングよく電車が来た。始発駅だから、走り始めるまで少し時間がある。

 小学生って、あんなだったっけ。

 もっと大人だったと思うけど、さらに大人になったら子どもに見える。そりゃそうか。子供用のリュックサックを背負い、子供用の運動靴を履き、手には買ったばかりの子供用の切符を持っているのだから。

 紙製の切符には「渡虹橋→栄」と印字されている。まだ定期券を持っていなかった頃、それもほんの数か月前まで、あれを機械に通していた。


 新瑞橋で降りて、名城線のホームへ移動する。今度は乗ったらすぐに走り出した。そういえばあの日は、笑う花織を見てホッとしたっけ。


 僕は花織について行った。てっきり地下街かデパートで行ってショッピングするのだと思っていたが、違った。彼女は改札ではなく、反対側のホームへと移動する。来た道を戻るなんてと、行き先を間違えたのかと訝しんだ。それでも引き止めることはなく、ただ後ろをついていく。使い慣れないホームを見た僕は、なんだかそわそわしている。

 今、僕は彼女たちの後ろにいる。

「ねえ、喉乾いた。どんなのでもいいからお茶買って来てくれない?」

 彼女は小さな僕に百二十円を手渡す。

 自分もちょうど喉が乾いてきたところだった。周りを見渡しても自販機は見当たらないので、彼女にはその場で待っているように言い、僕はその場を離れた。


 やめろ。行くな。おい、なんで何も言わない!


 地下街まで移動してやっと見つけた自販機で、僕は麦茶を二本買う。両腕に抱えて、彼女が待っているはずの場所へと引き返す。しかし、花織は見当たらなかった。先にホームへ行ったのかと思い、僕もそちらへと向かっていく。

 名城線左回りのホーム。そうか、ここにはガードがないんだ。自分にとっての当たり前の物がないだけで、こんなにも不自然に感じるものだろうか。


 おい、お前、なぜ何も感じない。電車のホームにガードがないなんておかしいだろ。そのくらい分かるだろ。


 その時、いよいよ不協和音が響き渡る。終わった。

 実に不快な音だ。僕は花織の行方を追っていた。さぞ驚いているだろうと心配して。混乱する駅で、どうせお前なんか何もできない。辺りをキョロキョロ見回している。

 一向に見つけられない。

 右手で流れてきた汗を拭ったとき、「そこの君」と後ろから呼び掛けられた。振り返ると、見知らぬスーツ姿のサラリーマンの足元に、何かの物体がある。先端は五つに分かれ、せっかくの色白が、真っ赤になっていた。

 これは誰かの腕だ。腕が飛んできたのだ。

 それの親指の付け根には、大きなホクロがある。

 花織のものか。


 ⁉︎


 恐ろしくなって、小さな僕は駆け出した。何も考えられず、何でもいいから電車に乗って、この場を離れようとした。雑踏の中を走り、向こうから来た人にぶつかり、罵声を浴びる。東山線藤が丘行きに飛び乗った。

 栄、新栄町、千種、今池。周囲の乗客の視線をひしひしと感じる。息を切らして乗車した僕の目線は、あまりの不安感に動き回っている。花織が好きなアイドルグループが写った広告が貼られているのを見た。電車は妙にゆっくりと走る。心の中で運転手を急かした。

 早く、早く……!

 ふと手元を見ると、麦茶は一本になっていた。


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