第2話
緑川の西岸にある、小さな二階建ての一軒家。その少し南には、ギリギリ名古屋市内の、観光名所の渡虹橋。窓を開ければ、部屋に澄んだ空気が入る。身体に深く染み込ませるように吸うと、自然の香りが鼻腔をつつく。すずめの声も、家々の向こうに見える朝焼けも、雨も風も太陽も、みんな清々しい。
土を盛って作られた小さな堤防がある。堤防を川の側に降りると、狭いながらも桜並木と小路が造られ、ところどころにベンチがある。座っていると心地よい。春には人々が集うところを見て、傍を流れる水を感じる。ピンクの花を背景に、橋の真ん中で堂々とキスをするカップルですら、美しく見える。
朝五時の街は、眠っているような起きているような微妙な時間。僕はいつも一人、進んでゆく。常に一人の者が二人集まれば友達なんて乱暴なことは言わないけど、あの頃の美和さんの目は、僕と同じくらいかそれ以上に、死んでいた。
深夜だろうが未明だろうが関係なく、美和さんの部屋の蛍光灯は灯ったままで、ずっと勉強していた。窓が全開だから、彼女の様子は嫌でも分かる。
幸せなのかな。
ここに越してきた時からずっと同じ。あんな無機質な生活は、見ている僕も息が詰まる。
磯村家は不思議な家庭だと思う。父親は医者で、頭の中身は患者のことばかり。有名な脳外科の教授のもと、大学病院の医局で働いているそうだ。そして驚いたことに、まだその道では若い方なのに次期教授の座を狙っているらしい。近所のおばさん達の噂話を聞いて知った。母親の礼子さんは、娘の成績のことで頭が一杯。なんとしても娘を医者にしたいのだろう。そして当のあの子は、毎朝冴えない顔をして毎朝学校へと向かった。
いつか窓から話しかけよう。ずっとそう思っていた。僕が通った緑川中学に、あんな子はいなくて、だから少しだけ、少しだけ、気にしていた。訊いてみたいことが山ほど。
なんて、我ながらキモい。
それでも君は、僕を受け入れてくれた。
あの日の朝も、僕は走った。大通りを西へ、西へ。静かな空は太陽には似合わない。朝靄の中を切り裂くように、前へ前へと進んだ。
一日のうちで一番冷えた空気が頬にあたって気持ちいい。頭からつま先まで冴え渡るこの感覚こそ、生きている感じがするというものだろう。一度味わったら誰でも虜になると思う。昨日までと同じようで違って、毎日同じコースなのに毎日が新鮮だ。ショッピングモールの建物がそびえ立ち、向かい側は小劇場。この辺りに住む人々の生活が垣間見える。
ほんの僅かな一時でも、これが僕にとってのオアシス。もっと向こうへ行きたくても、それを許す時間がないことは分かってる。下ってきたばかりの坂を全速力で上る。大型スーパー、車屋、イタリアンレストラン、石材屋、銭湯。ここらで道は平坦になる。地域で唯一のコンビニ、和菓子屋、桜通線渡虹橋駅、土産屋、桜並木、そして勢いそのままに土手を登り、進んでいった。ガスや水道のメーターを足場代わりにして、窓から部屋に入る。学ランを羽織る。食パンをかじってリュックを乱暴に背負い、家を出る。鍵をかける。その時母は、もう仕事に行っていた。母さんは、ゴミに出した古いパソコンを回収したのが僕であるとは、まさか思っていないだろう。もうちょっとスペックの高いものを買えば良かったのに、なんて思いながらも、画面に向かって作業をしていると無我夢中になれて、これをタダで手に入れられた僕は幸せだと思った。
ただただ同じことを繰り返すだけの日々には飽き飽きして、もっと遠くの世界に行きたかった。でも結局、走ってから登校して勉強する、そんな日常は変わらなかった。でも、君と話すようになって、パソコンだって手に入れて、退屈だった日常を楽しいと思えるようになった。
僕らは何でも話す。学校のこと、家のことはもちろん、好きな芸能人の話とか、素敵な音楽の話とか、面白い映画の話、政治の評論だって。
僕の一日は、いつもこうして始まる。
いつも開けっぱなしの窓が、今朝は閉まっていた。僕が二回軽くノックすると、彼女は何も書いていないプリントを見せて、書いて、と言った。四年生に進級する、外部の高校を受験する、そういった選択肢が並んでいた。進路希望調査だった。
どうしても話したい時は閉めておく。わざわざ決めたわけじゃないけど、会う気になれないなら閉めてしまえば見られない。でも気にかけてくれて、僕も気にかけて、そうすれば彼女の話を僕が、僕の話を彼女が聞いてくれる、だから。人に自分の話をし、そして聞いてもらえるのは幸せだ。だって心が穏やかになれるから。何でも言える相手は、誰しも必要なんだと思う。
「こういうのは、自分で決めるべきじゃないか?」
医師になるという道を自分で決めたなら、どこの高校に行くのかも、自分で決めれば良いのに。でも彼女の母親の礼子さんは、「中学三年生として、受験がないとしてもきちんと勉強しなさい。」「公立中学の子は高校受験で頑張るから、追い越されちゃ駄目よ。成績が下がったら、何のために私立に入ったのか分からないわ。」「毎日励むのよ。あなたは跡取りなんだから。」と、口癖のようにプレッシャーをかけている。なぜ内部進学にこだわるのだろう。僕にはわからない。
「決めきれないの。ねえ、どうしたらいいかな。私の中ではもう受験するって決めてるんだけど、ほんとにそれでいいかな? 君ならどうする?」
はっきりした答えを出せないまま話をしているうちに、気付いたら話題は明るい方へと転じていた。誰それがカッコよくて、誰々がかわいくて、なんとかかんとか。よくわからないけど、彼女が楽しそうに話していたら、僕は嬉しい。
「でさ、その子なんだけど成績がいいから余計いらっとするの。顔良し、頭良し、何か欠点はないのかって。」
「それはただの妬みだろう。あんまり愚痴ばかり言うなよ、君の品位を下げる。」
「ここしか言える場所がないの。ちょっとくらいいいでしょ。」
「ちょっとどころではない気がするな。品位を下げてるぞ。」
「品位ねえ……」
「ん?」
「志望校のこと。」
「ああ……」
「私さ、親が決めた学校でレベルもよかったから、それだけで入ったって、言ったじゃんね。」
既に知っている話であっても、意外性は消えない。この美和さんが親の決めた学校というだけで進学先を決めてしまうなんて。
「私ね、もっと平和なところで、やりたいことをやりたい。」
「たとえば?」
「特に決まってないけど、なんていうか、狭いのよ。学校の中で全てを知った気になってる人ばっかりで、実際は何も知らないってことに気付きもしない。だからどうでもいい争いばっかりやってられる。くだらない諍いに巻き込まれるのはもうたくさん。親だって、医者をやってるってだけで偉そうにして、専業主婦がやたら気取ってて、気持ち悪い。」
「つまり周りに失望しているのか。」
「うん。もしかしたらそうなのかも。
ちょっと話逸れるけどさ、私が学校行く時間ってちょうど通勤ラッシュだから、いつもものすごく混んでるのよね。」
「七時台はそんなものだろう。」
「そうよね。頭では分かってるのよ。
でも、やっぱり気持ち悪いの、電車に乗ってるオッサンが。
単に気持ち悪いって言ってるんじゃないよ。いつも暗い顔して、立ってる人なんかは席が空いた瞬間だけ俊敏に動く。あの人たちのうちで、仕事にやりがいを感じて生き生きした生活をしてる人は、いったい何人いるんだろうって。あんなどす黒いオーラばっかり撒き散らされたらたまんないわよ。私はああいう人間にはなりたくない。」
「周囲の人間に何も与えない。」
「言えてる。
責任は誰が持つとかハンコは誰が何番目に押すとか、いちいち細かく決めて、そこから外れることが起きたら、腹を切るより先に他人の首を切って、首を切ったことがバレて叩かれたら、ようやく自分も腹を括る。」
「言うねえ」
「いいじゃない、誰も聞いてないし。いの一番に切腹する人はきっと、普段から爽やかなオーラ出してるでしょ。
あと他人が見て素敵だと思える人生送ってる人は、やっぱり充実感があるよね。」
「あと幸福感。」
「そうそう。充実感と幸福感。いい大人には必須だよ。」
気持ち悪い、か。
高校に入ってすぐの頃は、電車で通学するというだけで緊張していた。しかし、慣れた今は、周囲なんて気にも留めない。美和さんは周りを良く見ていて、鋭い感覚を持っているから、普通は見えないものも見える。
「でも、僕には少し、思うところがあって。」
自分の見解を率直に述べよう。
「確かに、不幸そうな人たちは、きっとやりがいなんてないんだと思う。でも、たぶんそれだけじゃない。家にはお父さんの帰りを待っている子供がいるかもしれない。恋人とか奥さんが、暖かいご飯を作って待っているかもしれない。人それぞれなんだ。何も楽しみのない人間は、その人たちよりもっと、死んだ目をしてると思う。
だから、社会というのは僕らが想像するよりずっと難しくて、疲れて、休みたいんだ。僕らがいつも週末を楽しみにするようにね。」
うん、きっとそうだ。僕だって前はそうだったから、きっとみんなも同じなんだ。
ジャカジャカと音を立てて自転車を漕いで、汗だくになって学校に着いた。
渡虹橋駅で地下鉄の桜通線に乗って三十分。そのあと自転車で十分。交通の便は少々悪いけど、僕はこの学校を選んで本当に良かったと思っている。
教室に入ると、数学の授業が行われていた。若い男性教諭は、僕が入室したことを無視して、確率について熱心に説明していた。しかし生徒たちは、パンを食べている奴から熟睡している奴もいる様相で、僕に気を留める奴など、いるはずもない。
校則がゆるいおかげで、遅刻したくらいで説教を聞かせられることはない。自由を謳歌できる。それでいて偏差値は県内の公立最高峰で、大学入試の実績もトップクラス。旧制中学の時代から地域で名を轟かせてきた。
僕は席につくと、隣の眼鏡女子が、親切に教科書を見せてくれた。
「おはよう。今ここね。」
「了解。センキュ。」
僕はタブレットを起動し、タッチペンを手にした。
しかし、頭の切り替えが上手くいかない。
さっき全力で自転車を漕いだせいだと一瞬だけ思った。
違う。僕は美和さんのことを考えている。
受験したら、優秀な美和さんなら合格できるだろう。凡人には難しい問題だって、美和さんの手に掛かればたちまち基本問題に変貌する。上位層の私立なら、中三の終わりには既に高校内容が全て終わっていると、以前聞いたことがあった。でも、美和さんの望みは、勉強とは別のところにある。
僕ならどうする?
彼女に何と答えようか。
必ず正しいと証明できる式を立てられる数学とは違って、このような問題には答えがない。僕の得意科目は数学なのに。
受験をしなくて良いが息の詰まる環境、または厳しい競争を乗り越えなければならないが、乗り越えれば息がしやすくなる。
僕の目には、美和さんの親は後者の存在を忘れているように見える。僕ならどうするだろうか。ただ、そもそも僕が美和さんなら、本物の美和さんとは、全く異なる今を生きていただろう。僕には見えないものを見て、僕にはわからない世界で悩み、努力している。
「では問の二四番を、今日は六月十九日だから、出席番号十九番。式と答えは?」
しまった、聞いていなかった。
「ほら、六十二ページの練習問題。P(C)=3/5×1/50+2/50×1/100=2/125。よって取り出された部品が不良品である確率は2/125!」
眼鏡女子が囁くのを僕は復唱した。
「オーケー、その通り。例題でやった通りだ。」
眼鏡女子が僕に微笑みかけてくる。助けてもらえてほっとした。僕は礼を言う。
「助かったよ。」
「いいえ。」
教科書を見て、僕は今答えたばかりの問題を自分で解いてみる。難なくできた。でも……君はなんて難しいことを考えているんだ。
「ねえ、何してんの?」
眼鏡女子が小声で訊いてきた。
「は?」
「いつも難しい顔してるくせに授業聞いてないから、気になって。」
「余計なお世話だ。ただし一つ言うなら、難しい顔をしているつもりはない。そう見えるならそうなのかもしれないが。」
「意味わかんない。」
眼鏡女子は呆れている。
「僕には数学よりも大切で難しい問題があるんだ。今取り組んでいるものは特に難解だ。教科書の問題について考える時間があるなら、僕はそっちに取り組むよ。」
「また赤点とっても知らないよ。もう今度は前みたいに助けないから。」
「二の舞にさえならなければなんでも良い。」
「またそう言って。この間は赤点いくつあったのよ。」
「前回は高校で初めてのテストだ。勝手が分からないんだから仕方ない。」
「いやいや、その調子でいたら留年するよ⁉」
何だよおせっかいメガネ。うるさいヤツ。
よし、決めた。
親の言うことなんか関係ない。
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