気化傷
祐里
未明
ああ、そういえば布団カバーを洗ったんだった。洗濯乾燥機に放り込んだまますっかり忘れていた。替えておかないと、あごや首に吹き出物ができてしまう。
よく思い出したね、私。もう年なのにすごい。心の中で称賛を浴びせるけれど、気分はよけいに下降する。だって私、ここから動けない。
それでも手だけは動いて、パソコンの前でキーボードを打つ。パンタグラフの静音仕様のはずなのに、カチャカチャカチャカチャ音を立てる。こんなんじゃメンブレンだっていいじゃない。
世の中にはキーボードの種類をいくつか知っている年増女だっている。
午前三時まで起きている主婦だっている。
子供一人あたり二万円支給、なんて政策が打ち出されると、こっそり気落ちする子無し女も。
ベタベタする塗り薬が付いた顔を触ってしまい、ティッシュで指を拭く。ささくれが気になる。寒さが体を覆う。皮膚が乾燥する。
気化熱、何だか嫌な言葉。熱は気化するのが当たり前みたいに言わないでほしい。私の熱は私だけのもの。勝手に持っていかないでほしい。
『肌をこすると表面の角質が剥がれて、水分が蒸発しやすくなります』
へぇ。毒にも薬にもならない女性誌のページに、感心なんてしていないのに呟く。眉毛用の小さなハサミでささくれを切ったら、指についた塗り薬のせいでハサミが少し滑ってしまい、ちょっとだけ痛い思いをした。
そうして、肌、と考え、皮膚、と心の中で言い直した。
傷付いていないわけじゃない。
何に傷付いたかはもう忘れたけれど、傷はまだ残っている。見ないようにしているだけ。年を取って痛みに鈍感になっただけ。傷があってもなくても、どうせ死に向かうだけだ。みんなそう。
真っ暗な世界の、静かな住宅地の、乾燥した冷たい部屋の、パソコンの前で手だけ動かしている女の、ささくれは適切に処理されなかった。
塗り薬のせいなのか。かじかんだ手のせいなのか。不器用さのせいなのか。ハンドクリームが安物だからなのか。世の中を構築するほんの小さな原因と結果ですら、私は把握できていない。
何で付いた傷だったのか忘れてしまっても、傷付いていないわけじゃない。
私は黙っていないといけない。何もしてはいけない。乾いた布団カバーを洗濯乾燥機に取りにいくのは許されるだろうけど、動けない。
気化熱じゃなくて気化傷ならいい。冷たい空気が傷を奪っていけばいい。何もできない女から、勝手に持っていってしまえばいい。
夜は、まだ明けない。
気化傷 祐里 @yukie_miumiu
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