夏の日のこころ

いかのおすし

夏の日のこころ

 さらさらと水の流れる音を聞く。


 私は適当な石に腰掛けて、本を片手に小川の流れを見つめていた。サンダルを適当に足に引っ掛けて、左足のサンダルはひょいと投げ出したから、パステルブルーは草に囲まれて露に濡れている。


 小さな川の向かいでは、眼鏡をかけた少年が同じように石に腰かけて、でも私とは違って熱心に文字を追いかけている。


 私が朝早くに家を抜け出し初めてから、今日で三日目。彼はいっつも気づけば向かいに座っている。


 おじいちゃんが死んだ。

 リフォームしないままの、見た目だけは古く立派な畳の家。蝉の大合唱と深い緑に囲まれた田舎の家で、おじいちゃんは眠るように終わりを迎えた。老衰だった。


 このことを母から聞かされた時に浮かんだのは、おじいちゃんは、もうこれっきり私の中学卒業を見届けるこは無いのだという、どこか他人事な哀れみだった。


 夏の間だけ訪ねるおじいちゃんとの思い出はあんまりないないけれど、それでも一つだけは今も記憶に残り続けている。


 両親が祖父母に家の手伝いをしたり忙しくしている時、私はひとりぼっちになった。たいていは、広い畳の部屋でいとことボール遊びでもしているのだけど、年上のいとこが宿題だの忙しくし始めると、おじいちゃんのいる小さな書斎に顔を出した。


 埃っぽい部屋に、大きな窓から気持ちの良い日差しが差し込んでいる。妙に気持ちがざわざわして、そっとまぶたを下ろしたくなる空間だった。


 大きな窓のそばに置かれた椅子にゆったりと腰掛けて、おじいちゃんはいつも同じ本を読んでいた。大して分厚いわけでもない、古い本を。一頁に長い時間をかけて、私が欠伸をこぼすころにようやく紙を捲る音がする。


 臙脂色や深緑の背表紙に、金で小難しい文字が書かれた本棚は私にとっては退屈で、暇を持て余した私はおじいちゃんに話しかけた。


「おじいちゃん、何読んでるの?」


「なんだろうなぁ」


 決まっておじいちゃんはこう返した。釈然としない返事に、いつも小さな不満を覚えた。けれど他に関心を持たない私は、ふらりと書斎に顔を出すたびに「何読んでるの」と尋ねるしか無かった。


 それから幾年かして、それなりの分別を得た私はおじいちゃんには、本が読める視力がとっくに無いことを気づいた。

 本当はもう小さな文字は追えないのに、じっくりと本の中に目を凝らす。だから私は、同じように問いかけたのだ。


「おじいちゃん、何読んでるの」


 「なんだろうなぁ」と言ったおじいちゃんは、本当に何を読んでいたのだろうか。文字の奥に、一体何を見ていたのだろう。


 葬儀が終わって、ふと書斎の扉の前に立った私は、そんなことを思い出した。薄っぺらいのに消せない思い出を胸に、らしくもない感傷に浸ったままドアノブに手をかけて、こっそり重たい扉を押す。


 ――薄暗い


 大きな窓は分厚いカーテンで閉じられていて、触れた椅子は冷たい。記憶の中にある穏やかな書斎はもうどこにもなくなってしまったことに気付かされた。


 おじいちゃんがいない事実を受け入れるように視線を落として、誰も座っていない空っぽの椅子を見下ろす。一冊、座面の上にぽつねんと置かれていた。「こころ」と題された、おじいちゃんがいつも読んでいた小説だった。


 読めない文字を追いかけた理由、答えを知らない私は、本の中にそれを求めた。

 そうして、小さな頃は退屈にしか思わなかった、埃を被った「こころ」と題された小説を片手に、毎朝家を抜け出している。


 書斎の、おじいちゃんの椅子で読む気はどうしても湧かなかった。代わりに、書斎の大きな窓から見える、家の裏手の小川の隣で読むことにした。


 幼い頃の直感の通り、私はちっとも内容が理解できなかった。読めない文字、知らない言葉、見たことの無い漢字。もう中学生だ、という意地があったがまだ中学生でしか無かった。


 理解しようと何度か立ち返って、読書に慣れてない頭を捻って、いつも結局「おじいちゃんはどうしてこんな本を読んでたんだろう」思いを馳せては投げ出す。


 かれこれ三日も読んでいるというのに、十ページも進んでいない。「はぁ」と溜息ひとつ吐いて小説を膝の上に置く。腕を高く上に突き出して体をほぐすと、対岸の少年に視線を向けた。


 朝靄の中でじっとボロボロの本に見入っていて、まるで周りの音が聞こえていないようだ。眼鏡の奥の瞳は、本の中に何かを探すように忙しなく動いている。まばたきは全然しない。一文字たりとも見逃したくない強い意志が感じれた。


 私よりも小さな子供が、よく文字を追うことに集中してられるなぁとぼんやりと考える。この際、自分も中学生になったばかりという事実は棚に上げた。


 前のめりに題名のない本を読み込む少年の前に、さらさらと小川が流れている。少年はちっとも周りに関心がないようで、水の流れにも対岸にいる私にも目もくれない。


 この時私は退屈だった。加えて、おじいちゃんとの思い出が、少し手を伸ばせば取り出せるような浅いところに置かれていて、ちょっぴりと幼い心だった。


「ねぇ」


 おじいちゃんに問いかけたように、対岸の少年に声をかける。


「何を読んでるの」


 ぱっと少年が頭を起こした。眼鏡の奥の理知的な光を宿した瞳が、ちらりと私の姿を写して迷惑そうに細められる。


「言いたくない」


 てっきり答えは返ってこないと思っていた私は、少年が返事をしたことにすっかり驚いてしまって二の句が継げなくなった。ぽかんとして動かなくなった私に痺れを切らして、少年が言う。


「……そっちは?」

「おじいちゃんの、いつも読んでた本」


 自分の言葉を聞いて、もっと上手い説明のしようがあったと後悔する。少年は少しだけ眉を下げて「そ」と一言だけ返すと再び本の中に潜ろうとする。


「待って、」


 衝動的に引き止めて、なんと言えばいいのか分からなくなる。すっかり回らない頭で、心に浮かんだ言葉は、ずーっと頭の中を巡っていたこと。それが飾るのことも見直すこともできないまま口から外へ出ていった。


「おじいちゃんは、この本の中に何を探していたと思う?」


 パッと、少年は目の色を変えた。ありありと浮かんだのは軽蔑だった。

 剥き出しの嫌悪に射すくめられて、心臓がドキリと音を立てる。


「そんなもの、分かるわけないだろ」


 胸に詰まった感情が破裂するのを無理やり押さえ込んだ、苦しくって低い声。


 ぴしゃん、と葉から雫の落ちて水面に映る少年の姿が揺らぐ。


「大して読めもしない本を毎日必死に読んでると思ったら、そんな意味の無いことをしてたのか」


 じっと手元の文字に視線を落として、振り絞るような低い声だった。


 ――どうしてこんな酷いことを言うのだろう。


 薄っぺらくても、大して言葉を交わさなくても、おじいちゃんは私の大切なおじいちゃんだったのに。

 ようやく中学生になったばっかりで、制服姿も、高校生になった姿も、まだ見せられてなかったのに!


「どうして、どうしてそんな酷いこと言うのよ!あなたに私のことの何がわかるって言うの!」


 三日かけて、十ページしか進んでなくったって、話の内容がちっとも理解できなくったって、私はおじいちゃんの気持ちを必死に探してるのだ。


「そんなに難しい内容がわかることが偉いの? 本って、新しい気持ちに出会う為のものでしょう!」

「あぁ、そうだよ。だから君がやってることは無意味なんだ。本に書かれてるのは本のことだけ、君のおじいちゃんの気持ちなんてこれっぽちも書かれてるわけ無いんだから!」


 売り言葉に買い言葉。私もすっかり涙が止まらなくて、それでも少年の言葉に反発したくて対岸に向かって叫び続けた。少年もまた、意地になって私の言葉を否定する。


「――じゃあ、なんであなたは本を読んでるの!」


 衝動的に立ち上がって、サンダルを脱いだ足の裏にひんやりとした柔らかな土の感触。くるぶしを擽った草の露が足を濡らした。それでも、構わなかった。


 少年の方がずっと博識で、ずっとずっと頭が良かった。

 私の個人的な気持ちは全部撥ね付けられて、こころに残っているものは無くなってしまった。だから、少年がずっと大事に抱えている本を指さした。


「ねぇ!」


 黙りこくった少年に、答えを問い詰める。

 少年のじっと本を抱えて俯いた表情が、くしゃりと紙を丸めたみたいに歪んだ。


「あにの、日記なんだ」


 震える声が、ポツポツと私の鼓膜を揺らす。


「死んじゃったんだ、兄さん。それで」


 溢れる感情が荒れ狂う頭で、何とか言葉を紡ごうとはくはくと口を開いて、どうにもならなくなって顔を覆って泣き崩れた。

 

「ねぇ――」


 あまりにも痛い姿に、思わず駆け寄りたくなって小川のせせらぎを聞く。二人を隔てる小川は私たちの心の叫びをまるで意に介さず、泰然として平静を保って流れていた。


「あなたも、探してるの」


 うん、と自分より一回りも小さい頭が頷いた。

 

 ――ああ、この少年もそうなのだ


「知らないうちに、兄さんは死んじゃって。理由なんて少しも分からない。日記になら答えが見つけられると思って」


 朝靄がだんだん晴れていくと、柔らかな日差しに水面がちらちらと反射して、宝石をばらまいたみたいに輝く。


「でも、わかんないんだ。少しもわからない」


 黒縁の、四角い眼鏡の奥のまるっこい瞳が、水面のようにきらきらと光を弾いていた。


 少年はどれほどあの日記を眺めたのだろう。

 きっと長い時間、何度も、内容を全て覚えてしまうほど、じっと読み込んでいたに違いない。見てきたわけでは無いけれど、なんとなくそう思う。


 だというのに、少年は無意味だと罵った。


 ぎゅうっと寄せられた眉や、一文字に引き結んだ口、水面にぼんやりと浮かんで揺られている。私の姿も、水の流れを受けて歪んで写っていた。


 ――そうだろう。わかるわけがないのだ。


 かき乱された心が凪いでゆく、冷めた理性が無慈悲な答えを導き出す。


 少年は、兄の日記を読んだって兄のこころが分からなかった。ならば、私は。おじいちゃんが書いたわけでもない小説の中に、おじいちゃんのこころは一言だってありはしない。おじいちゃんの読んでいた小説を読むことに少しも意味は無いのだ。


 ほんとは知っていた。


 死んでしまった人間は何も語らない。


「でも……」


 そうじゃない気がするのだ。


「必要だよ。答えが無くったって、私たちのために」


 胸から真っ直ぐに言葉が駆け出した。無意味だと叫んだ思考がはたと動きを止める。私はぼんやりと少年の瞳が瞬きをするのを眺めた。


「……そうかもしれない」


 言った少年は、自分でも意外そうに口を手で抑えた。ぱっちりと目が合えば、困ったように目尻を下げた。視線を彷徨わせて、やがて伏し目に小川を眺める。だらりと力を抜いた左腕を垂らして、右手に日記を抱えている。


 何の気なしに私も少年に倣って視線を落とした。


 悠々と、昨日と少しも変わらず小さな音を立てて、私と少年の間に流れる小川。


 覗き込んだ私と少年の姿が揺れていることに気づいた。


 死者は何も語らない。


 文字の中に答えは無い。


 無意味なことは百も承知。


 それでも――


 四日目。今日もいつものように適当な石に腰掛けて、読むのも一苦労な文字を追いかけていく。そのうち、教科書よりも小さな文字に目が疲れて、小説を膝に置く。ぎゅっと目を瞑りながらぐぐっと空に手を伸ばした。


「ふぅ」


 脱力して膝の上の「こころ」に視線をやる。川辺のひんやりとした空気が、酷使して熱っぽい頭を覚ましてくれた。微かに流れる空気が首筋を撫でて快い。


 昨日一気に読み進めたから、この調子でいけたら夏休み中には最後を見届けられそうだ。


 思い浮かぶ言葉。「おじいちゃん、何読んでるの」「なんだろうなぁ」本を手に取って実際に読んでも、分からない。


 それで構わない。遠く隔てられた私とおじいちゃん。理解できないからと諦めた時、私の中でおじいちゃんは本当に冷たくなってしまうのだろう。


 深々と息を吸う。少し湿気った、涼しくて清い空気が肺に染み入った。ふらりと投げ出した足に背の低い草がくすぐったい。


 ちらりと対岸に目を遣る。青々とした木々に囲まれて今日も少年が日記を読んでいた。けれども、背は丸まってない。懐かしそうに目を細めては文字を追いかけていた。


 ――私ももう少しだけ


 せめて、日が昇るまで。

 今ここにいる、私のために。


 


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夏の日のこころ いかのおすし @Natane333

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