第6話 走らない理由



「おっまたせー♪」

「なんで俺よりおせーんだよ?」


 三〇分後。朝ごはんをきっちりと食べた和葉重役出勤で玄関から登場。

 俺は渋い顔を歪ませ、自転車のサドルでタクシー運転手のように待機中だ。


「じゃあお兄ちゃん安全運転で全速爆進!」

「へいへいっと」


 後ろの荷台に小さなお尻を載せて、小さな拳を突き上げる和葉に、もうツッコむ気力もなく俺は自転車をこぎだした。


 自転車の二人乗りは禁止だけど、和葉は児童みたいなものだし、チャイルドシート枠だからまぁいいだろう。


 ちなみに身長は頑なに【一五〇センチ】と主張しているので確実に一五〇センチ未満だろう。


 俺と立って話す時にカカトを三センチ浮かせている事実は、俺じゃないと見逃しちゃうね。


「お兄ちゃんもっとスピード出してぇ♪」

「転んだ時に大惨事だからだーめ。お前の体に一生残る傷がついても責任取れないんだぞ?」


 信号機、車、段差、歩行者、全てに目配せをしながら、俺は背中の和葉をたしなめた。


「それよりちゃんと俺の肩につかまっとけ。落ちたら痛いぞ」

「はーい♪」


 笑いながら、和葉は俺の肩につかまらず、背中に抱き着いてきた。

 限りなくゼロに等しい胸の感触に、同情と不憫と憐憫の念を禁じ得ない。


 ――大丈夫、お兄ちゃんはお前の味方だよ。


 これからも和葉には優しくしてあげようと思う。

 商店街を避けて、遠回りになってもいいからできるだけ車と人通りの少ない道を選び、スピードを上げる。


 体力は使うけど、これが一番安全マージンを確保しつつ早くつく方法だ。


 ぱんぱんに張ってきた太ももを激励しながら俺がペダルを漕いでいると、背中の左側に、むにっと柔らかい重みが押し当てられた。


 十中八九、和葉のほっぺだ。


「ねぇ、お兄ちゃん……本当に高校で陸上しないの?」


 さっきまでとはうってかわった、おとなしい口調。借りてきた猫だって、もうちょっと元気がいい。


「ん? 昨日も言っただろ? 兄は陸上部引退したの」

「……お兄ちゃんが走るところ、見たかったなぁ……」

「……」


 返す言葉が無くて、俺は黙ってペダルを漕ぎ続けた。

 すると、俺の胸板に和葉の細い腕でぎゅっと食い込んだ。


「わがまま言ってごめん。でも、もしも他にやりたいこと見つかったら言ってね。あたしがガンバレーって言ってあげるから……」


 その言葉にも、俺は何も言えなかった。

 応援なんていらない。

 そんなことをされても、和葉を傷つけるだけだろう。


 しばらくすると、俺が去年まで通っていた母校が見えてきた。

 去年、と言ってもつい二か月前だ。


 それでもなつかしさを感じるのは、もうあの校門をくぐることはないとわかっているからだろう。


 塀の中からは、朝練に励む運動の声が聞こえ、身だしなみの整った優等生たちが玄関へ向かう姿が見えた。


「先生おはようございます♪」


 校門前に立つ生活指導の高木先生に、和葉はびしっと敬礼した。自転車の荷台から。


「ほほう、東山、教師の前で堂々と校則と道路交通法を破るとは蛮勇にも程があるぞ?」


 高木先生は柔道三段の力強くも軽やかな足運びで近づいてきた。


 ――やべ、もっと手前で下ろすべきだった。


「えぁっ!? え! いや! これは、ちが! えっとそうだこれは断じてチャリ通ではありませんサー! お兄ちゃん通学でありますサー! 校則にお兄ちゃんで通学してはいけないとは書いてありませんですサー!」


 滅茶苦茶な理屈の妹に辟易しながら、俺も苦し紛れに乗っかっておいた。

「そうです。和葉は自転車に乗っている俺に乗っているんだけなんです。だから自転車で通学したわけじゃないんです」


 棒読みしながら先生に勘弁してくださいよとすみませんのジェスチャーを取った。


「ああもういい、さっさと行け」

「よっしゃ! じゃあお兄ちゃん号いってきまーす♪」

「誰がお兄ちゃん号だ。早く行け」


 俺と先生に促されて、和葉は子猫のように無鉄砲な足取りで遠ざかった。


「お互い、手のかかる妹を持つと苦労するな……」

「わかってくれます?」


 無職の妹を養っているで有名な高木先生と、俺は横目を交えた。


「それはそうとお前、高校では陸上やっていないのか?」


 やや真面目な口調に、俺は申し訳ない気持ちで平静に返した。


「えぇ、もう陸上はやめたので」


 ――走るのは嫌いじゃない。でも……。


「……そうか」


 それ以上の追及は無かった。

 察してくれたのか、深入りはできないと遠慮しているのか。

 どちらにせよ、ありがたいことだ。


「ところで東山、お前鞄二つ使っているのか?」

「え?」


 振り返ると、和葉のお尻が乗っていた荷台に、猫のキーホルダー付きの可愛い学生鞄が置きっぱなしだった。


 玄関から、和葉が泣きながら走ってきた。


「お前も手のかかる妹を持つと苦労するな……」

「わかってくれます?」


 俺と高木先生は横目も交えず通じ合った。



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