第4話 『納車の日、はじめての公道』
■エンジン音が「自分のもの」になる日
納車の日は、思っていたよりも静かだった。
朝の尾道は、観光客もまだ少なく、国道沿いの空気には、ほんの少しだけ潮の匂いが混じっている。
MOTO ONOMICHIの前に立った瞬間、遥の胸は、理由もなくぎゅっと縮んだ。
(……ここからなんだ)
シャッターが半分開いた店内。
オイルの匂い。
金属の擦れる音。
その奥から――
ドゥン……ドゥン……
低く、一定のリズムで響くエンジン音が聞こえてくる。
心臓が、それに合わせて跳ねた。
(……あれ、あたしのだ)
そう思っただけで、手のひらがじっとり汗ばむ。
店員が、青いバイクを押して現れた。
GSX-S125。
あの日、展示スペースで立ち尽くした時と同じ色。
なのに、今日はまるで違って見える。
「……ほんとに、あたしのバイクだ……」
声に出した瞬間、ようやく現実になった。
⸻
■三台、並ぶということ
少し遅れて、残りの二台も姿を現す。
無駄のない黒――CBF125R。
少し懐かしさを感じる赤――GN125E。
三台が並ぶと、店先の空気が変わった。
「……三台並ぶと、ちゃんと“始まる”感じするね」
遥が言うと、
「性格が分かる」
沙月が即答する。
「え、どういう意味!?」
美海が身を乗り出す。
「説明しなくても分かるでしょ」
沙月は肩をすくめる。
三人で笑う。
けれど、笑いの奥には、共通した緊張があった。
公道を走る。自分のバイクで。
その一行の重さを、全員が感じていた。
⸻
■遥の、最初の一歩
遥はヘルメットを被り、深く息を吸った。
キーを回す。
セルを押す。
キュル……ドンッ
腹の底に、振動が落ちてくる。
(……教習車と、全然違う)
音も、鼓動も、生き物みたいだ。
怖い。
でも――
それ以上に、嬉しい。
「……いける」
クラッチを握り、ゆっくり戻す。
半クラ。
バイクが、ほんの少し前へ出た。
「……進んだ……」
たったそれだけのことが、胸をいっぱいにした。
“動かしている”じゃない。
“一緒に動いている”。
そんな感覚だった。
⸻
■沙月の、確かめる走り
沙月は、最後まで静かだった。
キーを回し、エンジン音を聞き、アクセルの遊びを確かめる。
(……想定通り)
クラッチ操作は、教本どおり。
一つずつ、順番を間違えない。
「沙月、余裕そう」
遥が言うと、
「余裕じゃない」
沙月は即座に否定する。
「慎重なだけ」
けれど、その声には、わずかな高揚が混じっていた。
⸻
■美海の「いつもの道」
一方、美海は少し違った。
赤いGN125Eのセルを押した瞬間、肩から力が抜けたのが、遥にも分かった。
「あ……この音」
懐かしむような声。
(……あ)
遥は気づく。
美海にとって、これは“初めて”じゃない。
バイクの音。
港町の朝。
向島の生活音。
「ミウ、行ける気する」
美海は自然に言った。
「え、もう?」
遥が驚くと、
「だって、この道――」
美海は前を指す。
「向島行く道じゃん」
⸻
■尾道渡船という、最初の試練
目的地は、向島。
尾道渡船の乗り場に着くと、
小さなフェリーが、何事もない顔で待っていた。
「……これ、乗るの?」
遥が呟く。
「うん」
美海は即答する。
「ミウ、何回も使ってる」
係員の合図で、バイクのまま乗船。
床板が、ガタン、と鳴った。
(……バイクで船……)
頭が追いつかない。
でも、美海は迷わない。
立ち位置も、降りる順番も、全部分かっている。
(……地元なんだ)
それが、少しだけ羨ましかった。
⸻
■向島の風
フェリーを降りると、空気が変わった。
潮の匂いが強くなり、道は生活の中に溶け込んでいる。
美海の赤いバイクは、迷いなく進む。
「ここ、小学校の通学路」
何気ない一言。
でも、その走りは安定していた。
道と、喧嘩していない。
(……すごい)
遥は思う。
美海は“速く”ない。
でも、“馴染んでいる”。
沙月は、その後ろを一定の距離で走っていた。
(……三人三様、か)
⸻
■止まって、実感する
少し走って、広めの路肩に停まる。
エンジンを切ると、急に静かになった。
「……生きてる」
遥が言う。
「当然」
沙月が返す。
「ミウ、めっちゃ楽しい!」
美海は満面の笑み。
遥は空を見上げた。
(……ここからだ)
免許を取って、バイクを選んで、今日、初めて走った。
「もっと走ろ」
遥が言う。
「うん」
「当然」
三人は頷いた。
それだけで、十分だった。
⸻
■美海の声に導かれて
少し走って、三人は路肩にバイクを停めた。
エンジンを切ると、潮風の音が一気に戻ってくる。
胸の奥が、まだざわざわしていた。
(……ほんとに、走ったんだ)
遥がそう実感していると、美海がヘルメットの中で弾んだ声を出した。
「ねえ、せっかく向島来たんだからさ」
遥と沙月が同時に美海を見る。
「このまま、高見山行かん?」
「……高見山?」
沙月が聞き返す。
「展望台あるんだよ。ミウ、小さい頃から何回も行ってる場所」
その言い方は、観光案内というより――
**“自分の庭を見せる”**みたいな、自然さだった。
「初公道で山はどうなん?」
遥が不安半分で聞くと、
「大丈夫大丈夫。道もそんなにきつくないし、ゆっくり行けばいいよ」
その言葉に、妙な説得力があった。
(……美海が言うなら、大丈夫かも)
遥は、そう思ってしまった。
⸻
■登り道と、呼吸
高見山への道は、想像していたより穏やかだった。
センターラインは薄いけれど、
舗装は素直で、見通しも悪くない。
美海の赤いGN125Eが先頭を走る。
迷いのないライン取り。
沙月は一定の距離を保ち、
遥は二人の背中を追う。
(……山道、怖いと思ってたのに)
アクセルを開けすぎない。
クラッチを雑に扱わない。
一つ一つ、教習所で覚えたことを思い出しながら、
遥は“呼吸するみたいに”バイクを動かしていた。
カーブを抜けるたび、
木々の隙間から、海がちらりと見える。
(……あ)
その度に、胸が少し軽くなる。
⸻
■高見山展望台
展望台の駐車スペースに着いたとき、
三人はほとんど同時にエンジンを切った。
静かだった。
風の音と、遠くの船のエンジン音だけ。
木製のデッキ。
並べられたベンチ。
視界を遮るもののない、開けた空。
遥は、思わず足を止めた。
「……なに、これ……」
眼下に広がるのは、
きらきらと光る瀬戸内海。
穏やかな水面に、島影が幾重にも重なっている。
太陽の反射が、銀色の道みたいに伸びていた。
沙月も、言葉を失っていた。
「……写真で見るのと、全然違う」
美海は、少し誇らしげに笑った。
「でしょ。ミウ、この景色好きなんよ」
ベンチに腰掛けると、
潮風が制服の裾を揺らす。
写真で見た通りの場所。
でも、自分の足で、バイクで来たという事実が、
景色の意味をまるで変えていた。
⸻
■「走った」って、こういうこと
遥は、手すりに近づいて海を見下ろした。
(……あたし、ここまで来たんだ)
免許を取って、バイクを選んで、初めて公道を走って、山を登って――
その全部が、一本の線で繋がった気がした。
「ねえ」
遥が言う。
「バイクってさ……速く走るためのもんだと思ってた」
沙月が静かに頷く。
「……私も」
「でもさ」
遥は、もう一度海を見る。
「こうやって来れるの、すごくない?」
美海は、ベンチに座ったまま足をぶらぶらさせた。
「ミウはね、“帰ってこれる”のが好き」
「帰ってくる?」
沙月が聞く。
「うん。走って、見て、また戻ってこれる場所があるってこと」
その言葉に、遥は胸がじんとした。
(……あ)
それは、今日初めて分かった感覚だった。
バイクは、どこかへ連れていくものじゃない。
“戻ってくる場所”を、ちゃんと知るためのものなんだ。
⸻
■三人で見る、最初の景色
しばらく、誰も喋らなかった。
ただ、海を見ていた。
遥は、心の中でそっと思う。
(……ここが、あたしの“はじまり”だ)
名前もまだ無い。
肩書きも無い。
でも――
確かに、走った。
確かに、見た。
美海が立ち上がり、振り返る。
「そろそろ下りよっか。夕方になると、道混むから」
沙月が頷く。
「……うん。帰ろう」
遥は、最後にもう一度だけ振り返った。
高見山展望台。
風と光と、静かな海。
(……また来よう)
今度は、もっと慣れてから。
もっと遠くまで走れるようになってから。
三人はヘルメットを被り、
それぞれのバイクに跨る。
エンジン音が、順番に重なった。
――これが、三人の“最初の景色”だった。
To be Continued...
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