第2話 『限定解除講習、はじめてのクラッチ』

■湿った空気と、三台のマニュアル


 向島運転免許センター裏手の教習コースには、梅雨の名残りの湿気が溜まっていた。

 朝まで降っていた雨の気配が、まだ地面に残っている。アスファルトはところどころ色を濃くし、空気はじっとりと肌にまとわりついた。


 遥は、白線の向こうを見て――思わず足を止めた。


 三台のバイクが、整然と並んでいる。


 小型二輪用の教習車。

 125cc、マニュアル。


 スクーターとは、まるで違う。


 (……これ)


 タンクの形。

 足元にあるペダル。

 左ハンドルに伸びる、クラッチレバー。


 “操作するバイク”が、そこにあった。


 「……うわ……」


 自分でも驚くほど、小さな声が漏れる。


 「なんか……急に“本物”って感じしない?」


 横を見ると、沙月が腕を組んだまま頷いた。


 「するね」

 淡々とした声。

 「スクーターとは別物」


 「だよね!?」


 遥は思わず身を乗り出す。


 (今日から、これを触るんだ)

 (クラッチ……使うんだ)


 胸の奥が、じわじわ熱くなる。


 一方で――


 「ミ、ミウ……」


 か細い声が背後から聞こえた。


 「ちょっと……怖くなってきた……」


 振り返ると、美海がヘルメットを胸に抱えたまま立っていた。

 明らかに、表情が強張っている。


 「クラッチってさ……」

 不安そうに言う。

 「離すタイミング間違えたら、エンストするやつだよね……?」


 「そうだけど」

 沙月が即答する。


 「エンストって……止まるんだよね……?」

 「止まるね」

 「……止まるの、怖くない……?」


 遥は苦笑する。


 「ミウ、まだ走ってないから」

 「それが逆に怖いんだけど!?」


 沙月が視線をバイクから逸らさずに言った。


 「美海、大丈夫」

 「……なにが?」

 「乗れなくても死なないから」

 「その言い方が一番怖い!!」


 遥は思わず吹き出した。


 でも、分かる。


 (……美海だけじゃない。あたしだって、ドキドキしてる)


 そんな三人の前に、講師の中年男性がのんびり歩いてきた。



■AT限定解除組、集合


 「はいはい。今日はAT限定解除組だね」


 軽い口調で言いながら、講師は三台のバイクを指差した。


 「原付乗ってるなら大丈夫。まずはクラッチの基本からやろうか」


 その瞬間――


 「あの!」


 気づいたら、遥は手を挙げていた。


 「クラッチって、このレバーですよね!?」


 「お、おう……そうだけど」


 「動画で見たやつです!!」


 講師が一瞬、固まる。


 「……動画?」


 「はい!赤のGROMで、橋を“スッ”て走ってるやつです!」


 沙月が小さくため息をついた。


 「遥、先生困ってる」


 「え、だって有名じゃん?」


 「教習所で前提にする話じゃない」


 そこへ、美海が便乗する。


 「先生!ミウもそれ知ってます!」

 「そうなん?」

 「あれ、めっちゃ気持ちよさそうで……きゃわわな猫動画はもうお腹いっぱいだけど、あれは別枠です!」


 講師はついに苦笑した。


 「……まぁ、元気あるのはええことよ」

 パン、と手を叩く。

 「じゃあ、跨ってみようか」



■初めての半クラ


 三人はそれぞれ、教習車に跨った。


 遥は自然と前のめりになる。

 ハンドルを握る手に、力が入る。


 (これ……)

 (“乗る”って感じ……)


 隣を見ると、沙月は背筋を伸ばし、姿勢は完璧だった。

 けれど、左手だけが少し強張っているのを、遥は見逃さなかった。


 (……沙月も、緊張してる)


 一番分かりやすいのは、美海だ。


 足が、はっきり震えている。


 「ミウ……足ついてるのに怖い……」


 講師が説明を始める。


 「クラッチは“半クラ”が大事」

 レバーを指で示す。

 「この“つながる瞬間”が分かれば、エンストは減る」


 「その瞬間!」

 遥が即座に反応する。

 「回転が“ふっ”て落ちるとこですよね!?」


 「はいはい、分かった分かった」

 講師は苦笑しながら言った。

 「じゃあ、実際にやってみよう」


 遥はアクセルを少し開け、

 クラッチを、ゆっくり戻す。


 ブルルルル……。


 車体が、わずかに前へ動いた。


 「――っ!!」


 思わず声が裏返る。


 「進んだ!」

 「……進んだね」

 「すごっ!!あたし今、バイクしてる!!」

 「それは最初からバイク」


 沙月の冷静なツッコミに、遥は笑った。


 次は沙月。


 慎重に、慎重に――


 ガクッ。


 「……あ」


 エンスト。


 沙月は一瞬目を伏せ、それから小さく息を吐いた。


 「……理屈は分かってるのに」

 唇に、悔しそうな笑み。

 「手が、追いつかない」


 「普通普通」

 講師が穏やかに言う。

 「最初はみんなそう」


 最後は、美海。


 アクセルを開けすぎ――


 「うぎゃっ!?」

 「おっと!」


 バイクが前に出かけ、講師が慌てて支える。


 「美海!!」

 「美海!!落ち着いて!!」


 美海は涙目でハンドルにしがみついた。


 「む、無理……!」

 「無理じゃない」

 「クラッチむずい!!」

 「まだ始まったばっか」

 「ミウ、スクーターが良かったかも……!」


 その言葉に、沙月が少しだけ表情を緩める。


 「大丈夫」

 「……?」

 「私もさっきエンストした」

 「……ほんと?」

 「同類」


 その一言で、美海の肩が少し下がった。


 「……じゃあ、ミウも……もう一回……」


 遥は胸を張る。


 「あたしもそのうち絶対コケるから!」

 「励まし方雑すぎ!!」

 「一緒にコケよ!?仲良し!!」

 「仲良しの使い方!!」


 笑い声が、教習コースに響いた。



■夕焼けと、小さな達成感


 講習の最後、三人はゆっくりとコースを一周した。


 遥は顔が熱い。

 楽しくて、悔しくて、満足で。


 沙月は汗をかきながらも、表情は穏やかだった。


 美海は完全に疲労困憊。

 それでも、笑っている。


 講師が頷く。


 「三人とも、合格ラインは越えとる」

 「ほんとですか!?」

 「後は慣れ。練習すりゃすぐ上達するよ」


 遥は思わず拳を握った。


 「……今日で、人生変わった気がする」


 沙月は静かに微笑み、

 美海は少し目を潤ませる。


 「……怖かったけど」

 ぽつりと。

 「でも……めっちゃ楽しかった……」


 「でしょ?」

 遥は夕焼けを見上げる。

 「これで走ったら、もっと世界変わるよ」


 オレンジ色の光が、教習コースを染めていく。


 三人の影は、

 小さなマニュアルバイクの隣で、ゆっくりと伸びていった。


 To be Continued...

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