第1話 『――遥の夢、そして放課後へ』
■ 夢
夕暮れの尾道本通り商店街は、オレンジ色に滲んでいた。
屋根の隙間から差し込む光が、看板や路地の影を長く伸ばしている。
――でも、どこかおかしい。
音が、少しだけ遠い。
人の声も、足音も、風の音も、薄い膜を一枚隔てた向こう側にあるみたいだった。
私は、小さかった。
手も足も短くて、視界が低い。
膝が、ひりひりする。
擦りむいた傷が、じわっと痛む。
路地裏に座り込んで、私は泣いていた。
その時――
足音がした。
顔を上げると、紫色が視界に入る。
レザージャケットに、細身のパンツ。
少し茶色がかった髪と、綺麗な顔。
でも、その目だけは――
不思議なくらい、優しかった。
「どうしたの?」
声は、柔らかかった。
叱るでもなく、慌てるでもなく、ただ隣に来てくれた感じ。
私は、泣きながら言った。
「……ころんで……おつかいの……まんじゅう……」
潰れた包み。
砂と涙で汚れた服。
その人は、まず膝を見る。
それから、包みを見て――少しだけ笑った。
「痛かったね。でも、泣きながらここまで歩いてきたんでしょう? よく頑張ったわ」
どうして分かったのか、私は分からなかった。
ただ、その人は当たり前みたいにそう言った。
「……なんで……わかるの……?」
その人は、袖についた白い粉を、指で軽く払った。
「ここに付いてるでしょう。転んだ時についた砂糖よ。膝の傷も、歩いてきた人の転び方」
自慢するみたいな言い方じゃなかった。
ただ、見えたことを、そのまま教えてくれただけ。
私は、ぽかんとして言った。
「……おねえさん、すごい……」
その人は、少し照れたみたいに肩をすくめた。
「すごくないわ。困ってる子がいたから、声をかけただけ」
その言葉が、胸に残った。
⸻
家まで送ってもらった。
でも、手を引かれたわけじゃない。
少し後ろを、同じ歩幅で歩いてくれた。
近すぎず、遠すぎず。
(このおねえさん、すごくやさしい)
それだけで、胸がいっぱいになった。
お店に着くと、大人たちが慌てて出てきて、頭を下げていた。
よく分からないまま、奥の席に座らされる。
湯気の立つお茶。
甘い匂い。
「……あんこのまんじゅう、ちょっと……」
そう言うと、その人は別のお皿を寄せてくれた。
「じゃあ、こっち。栗の味がするの」
食べると、甘くて、ほっとした。
「……おいしい」
「よかった」
そう笑った顔を見て、私は思った。
「……おねえさんみたいになりたい」
その人は、少し驚いた顔をした。
「どうして?」
私は、潰れたまんじゅうを見て、胸に手を当てた。
「……ころんでても……泣いてても……やさしくしてあげられるひとに……」
しばらく、沈黙。
それから、その人は私の頭を撫でた。
「もう、その道の上にいるわ。転んでも、歩いて帰ろうとしたでしょう?」
その言葉が、胸に落ちた。
⸻
外は、もう夕暮れだった。
紫色のバイク。
エンジンの音。
「またどこかで会えたらいいわね」
私は、両手を振った。
「うん!!」
その人は、細い道の向こうへ走っていった。
私は、その背中を見ていた。
――絶対、忘れない。
⸻
■ 目覚め
「……っ」
私は、はっと目を開けた。
見慣れた天井。
午後の光。
胸の奥が、じんわり熱い。
(……また、あの夢)
子どもの頃から、何度も見る夢。
顔ははっきり思い出せるのに、名前だけは分からない“おねえさん”。
私は、ゆっくり息を吐いて、身支度を整えた。
⸻
■ 放課後、尾道本通り商店街
放課後の尾道本通り商店街は、昼とは少し違う顔をしていた。
アーケード越しに差し込む夕方の光が、床の石畳を柔らかく照らし、店先の提灯や看板に淡い影を落としている。
私は、沙月と美海の間を歩いていた。
左にいる沙月は、背が高くて、歩幅も少しだけ大きい。
紺がかった黒髪が肩口で揺れて、落ち着いた横顔はいつも通り静かだ。
制服の青いジャンパースカートも、沙月が着るとどこか大人っぽく見える。
右の美海は、その逆だった。
短めの髪が軽く跳ねて、歩くたびに赤いリボンが揺れる。
同じ制服なのに、動きが多いせいか、全体がいつも賑やかだ。
そして真ん中が、私――遥。
三人並ぶと、アーケードの人波の中でも、少しだけ目立つ。
同じ制服、同じ鞄。
でも、歩くリズムも、視線の高さも、微妙に違う。
私は、鞄の中でタブレットをぎゅっと握りしめていた。
(……今なら、いける)
そう思った瞬間、私は足を止めて振り返った。
「沙月! 美海!ちょっと来て!」
声が、思ったより大きく響いた。
⸻
■ 三人と一本の動画
「ちょっと遥、急にどうしたの?」
沙月が、眉をひそめながら立ち止まる。
「なになに? また動画? ミウ、今日はもうきゃわわな動画お腹いっぱいなんだけど?」
美海が肩をすくめて笑う。
この軽口、やっぱり好きだなと思う。
「違う違う! 猫でも犬でもない!」
私は慌ててタブレットを取り出した。
「バイク! 原付二種! これ、絶対見てほしい!」
沙月と美海が顔を寄せる。
三人の制服の青が、夕方の光に溶け合う。
再生ボタンを押すと、風の音が流れた。
画面に映るのは、向島の海沿い。
見慣れた橋、見慣れた道。
でも、走り方だけが――違う。
小さな赤いバイクが、滑るように進んでいく。
スピードは速くないのに、視界がぶれない。
まるで、道そのものと会話しているみたいだった。
「……景色、きれい」
沙月が、ぽつりと呟く。
「え、ここ向島じゃん! 完全にミウの庭なんですけど!」
美海が一歩前に出て、画面を指差す。
三人とも、自然と黙っていた。
⸻
■ 分からないまま、引っかかる
動画が終わる。
私は、無意識にもう一度再生した。
同じ風音。
同じライン。
でも、胸の奥がざわつく。
「……なんかさ」
美海が、画面を見たまま言う。
「一人じゃない時、あるよね。声、聞こえる」
「うん」
私も頷く。
インカム越しの声。
短い呼びかけ。
でも、誰なのかは分からない。
画面の端に表示される名前だけが、はっきりしていた。
――YU-MA。
「顔、出してるんだ」
沙月が少し驚いたように言う。
ヘルメットじゃない。
笑っている、少し幼い顔。
他の人は映らない。
声だけが、風の奥に混じっている。
理由は分からない。
事情も知らない。
でも――
(なんか、大事なところ、まだ見せてない感じ)
そんな印象だけが、心に残った。
⸻
■ ふいにこぼれた言葉
動画が終わった、その瞬間。
「……あたし、MT乗りたい」
自分でも驚くくらい、自然に言葉が出ていた。
「え?」
沙月と美海が同時に私を見る。
言ってから、少しだけ怖くなる。
でも、取り消せなかった。
「だって……こういう走り、してみたいじゃん」
口に出すと、現実が押し寄せる。
免許。
お金。
時間。
藤井堂の手伝い。
それでも――。
「……ミウも」
美海が、少し間を置いて言った。
「怖そうだけどさ。でも、楽しそうが勝った」
「美海、本気?」
沙月が目を丸くする。
「本気本気! だって、こんなん見せられたらさ!」
美海の声は軽いけど、目は本気だった。
沙月は腕を組み、少し考えてから言う。
「……私も、嫌いじゃないかな。こういう“きれいな走り”」
夕方の風が、アーケードを抜けて、三人のスカートを揺らした。
⸻
■ 小さな火が灯る
「じゃあさ」
美海が、いつもの調子で言う。
「まず調べよ。免許とかさ!」
「うん……」
私はタブレットを胸に抱いた。
まだ何も知らない。
この動画の人たちが誰なのかも、
この先、どんな名前で呼ばれるようになるのかも。
でも。
(あのおねえさんみたいに)
夢の中の背中が、胸に浮かぶ。
名前も知らない。
それでも、確かに心に残っている。
この放課後、尾道の商店街で生まれたのは、
ただの憧れじゃない。
走る側になりたい、という
小さくて、でも確かな火だった。
To be Continued...
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