第38話 ワインは禁断の飲み物
食事を終えると部屋に戻った。
普段であればこのまま眠るが、今日はもう少し長い一日となるだろう。
なぜなら旅行といえば晩酌だからだ。
「本当にいいのか?」
「今日は特別だよ。せっかくぶどう農園に来たんだから楽しまないとね」
サフィラは小さく笑いながら、テーブルに一本のワインボトルを置いた。
そのラベルを見た瞬間、思わず息を呑む。
この農園で作られたワインだ。
カベルネソーヴィニヨン、メルロー、カベルネフランを混ぜて作られた、まるでフランスのボルドーのようなワイン。
見ているだけで思わず涎が垂れてきた。
思わず手を伸ばしそうになったところで、すんでのところで理性が働く。
――普通に飲ませてくれるのかな?
以前は彼女の指に垂らしたものを舐めるという屈辱的な飲み方しかできなかった。
なので今回も普通に飲ませてくれるとは限らないのだ。むしろ最大限警戒した方がいいだろう。
そう思って踏みとどまっていたのだが、
「我慢しなくていいんだよ?」
サフィラはそう言いながらボトルを開けると、ゆっくりとワイングラスにそれを注ぐ。
ジョボジョボと注がれる音がピアノの旋律のように聞こえて、思わず心が踊りそうになった。
「本当にいいのか?」
「遠慮しないで」
笑顔でグラスを差し出される。
俺は気がついたら手を伸ばしていて、グラスを受け取ると、鼻先で香りを摂取する。
「最高だ」
鉄っぽい香りがありつつも、程よい樽感とフレッシュな果実みを感じる。飲まなくても良いワインだと分かる。
「最高だよ」
「ふふっ。このワインはね、農園でも一番高いワインなんだよ。生産量も少ないから滅多に手に入らないの」
「まじで? いいの? そんな貴重なものを開けちゃって」
「もちろんだよ。だって今日は特別な日でしょ?」
上目遣いで言ってくる。
「特別?」
「初めての旅行だよ? 大切な記念日じゃん」
記念日かどうかはよく分からなかったが、今日は重要な日であることは間違いない。
「とにかく遠慮しなくていいんだよ。ほら、飲んで」
サフィラに促された俺はゆっくりとグラスに口をつける。
「はっ――⁉︎」
その瞬間、舌が震えた。
濃厚な果実味と深いタンニンが襲ってきて、衝撃を受けたのだ。
「うまい! うますぎるよこれ」
味がとにかく複雑だ。
口当たりはまろやかで柔らかく、しかし味は力強くエレガントな印象を受ける。黒系果実のカシス感もありながら、スパイスやハーブ、鉛筆の芯のようなニュアンスも感じられる。
それは一言では言い表せないほど上品な味わいだった。
そのあまりの美味さに感動していると、
「おかわりいる?」
「いる!」
「ふふっ、興奮しすぎだよ」
サフィラはクスクスと笑いながらも、ゆっくりとワインを注いでくれる。
俺はグラスを回し、香りの変化を楽しみながらも一口。
「最高だ。最高だよ」
その後もひたすらワインを堪能していく。
アルコール度数はそれなりにあるので、飲み進めるうちに視界がぐるぐるとしてくる。
――少しペースが早すぎたかな?
そう思いつつも止まらない。体内に魔力が宿っていることもあり、通常の肉体よりはアルコールの分解が早いからな。まだまだいける。
そう思いつつも、テーブル越しに見えるサフィラの笑顔がぼやけて揺れる。想像以上にダメージがあるらしい。
「……あれ?」
グラスを置いた瞬間、世界がぐらりと揺れた。
さっきまでただの酔いだと思っていたのに、これは明らかにおかしい。視界が二重にぶれて、足元が浮ついているような感覚がある。
「おかわりいる?」
サフィラの声が遠くから聞こえるようにぼやけていた。
それでも彼女は俺のグラスが空になるたびに、当然のようにワインを注いでくる。
このままでは襲撃があった時、まともに動けないだろう。
「ぶどう……ぶどうジュースが飲みたい」
必死に声を絞り出すと、サフィラは小さくため息をついた。
「仕方ないなぁ」
そう言って取り出したのはぶどうジュースの瓶だった。
俺はそれを受け取った瞬間、ごくごくと喉に流し込む。
「うまい……」
しかし異変は止まらない。
身体は燃えるように熱く、心なしか呼吸も浅い。
視界の端が霞み、指先の感覚が遠のいていく。
――まずいな。
これは眠気じゃない。別の何かである。また何か薬を盛られたのだろうか。
「うわっ……」
とうとう座っていられずに椅子から崩れ落ちた瞬間、サフィラが俺の体を支えてくれた。
「大丈夫。私が守るから」
彼女はそのまま俺の身体を抱きかかえて、ベッドへ運ぶ。
女の子にお姫様抱っこされるという屈辱的な状況にも関わらず、抵抗する余裕すらない。
それどころか意識はどんどん深みへと沈んでいった。
「サフィラ?」
布団をかけられて、瞼が閉じそうになりながらも何とか声を絞り出す。
しかし彼女は笑っただけだった。
……なんだろう。
その笑みはいつもの無邪気な笑顔とは違うような、どこか決意に満ちていて、何かを覚悟している。そんな瞳だった。
「サフィラ?」
「大丈夫。私が守るから」
再度名前を呼ぶと、彼女からも同じ言葉が返ってくる。
一見すると意味のない繰り返しだが、よく見ると彼女の笑顔は強張っていた。
「私が守る」
そう呟いた後、サフィラは背を向けて扉の方へと歩き出した。
「サフィラ!」
咄嗟に手を伸ばしたが、届かない。
彼女の背中が次第に遠ざかっていく。
――待ってくれ!
そう叫びたかったのに声が出ない。
それどころかゆっくりと瞼が落ちていく。
そんな状況の中、最後に見た彼女の表情はまるで戦地に赴く兵士のようだった。
こうして俺は深い眠りについた。
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