払い戻し③

東京の夏は、あの村よりも暑く、そして騒がしかった。アスファルトからの照り返し。室外機の唸り。行き交う人々の喧騒。


 坂本健司は、新宿の人混みの中を歩いていた。すれ違う人々は皆、スマホを見つめ、あるいは談笑し、自分たちの足元にある「日常」がどれほど脆い地盤の上に成り立っているかなど、知る由もない顔で歩いている。


 あれから三ヶ月が経った。


 九久理村の消滅は、大規模な土砂崩れによる自然災害として処理された。死者・行方不明者百十二名。生存者は一名。坂本は警察やマスコミの聴取に対し、「何も覚えていない」と繰り返した。恐怖で記憶が飛んだふりをしたのだ。本当のことを話したところで、精神異常者として隔離されるだけだ。それに――。


「……チッ」


 坂本は舌打ちをし、ポケットの中を探った。指先に触れる、蠟のような感触。  黒いクレヨンの塊。


 捨てられなかった。いや、正確には「捨てようとするたびに、強烈な生存本能がそれを阻止した」のだ。川に投げ捨てようと腕を振れば、関節が外れるほどの激痛が走った。ライターで焼こうとすれば、自分の指の方を火に近づけてしまった。この呪物は、坂本という「宿主」を認識し、絶対に離れないよう寄生しているのだ。


 坂本は、古い雑居ビルの三階にある自分の事務所へと戻った。以前は閑古鳥が鳴いていたフリーライターの事務所。しかし今は、電話が鳴り止まない。


「はい、坂本です。……ええ、連載の件ですね。お受けします。……ギャラ?言い値で結構ですよ」


 仕事が舞い込むようになった。それだけではない。


 先週は競馬で万馬券を当てた。昨日は商店街の福引で特賞を引いた。人生が、不自然なほど上向いている。まるで、誰かの幸運を吸い上げているかのように。


 坂本は電話を切り、デスクの上のパソコンに向かった。画面には、ニュースサイトが表示されている。


『都内のマンションで火災、一家四人が焼死』

『地下鉄ホームで突き落とし事件、犯人は「誰でもよかった」と供述』

『有名女優が謎の自殺、遺書には「黒い影が見える」と記述』


 ここ数ヶ月、東京で奇妙な事故や事件が多発していた。そのどれもが、坂本の事務所や自宅から、半径数キロ圏内で起きている。


「……また、一杯になったか」


 坂本は引き出しを開けた。そこには、あの画用紙が入っていた。


 黒いクレヨンの渦巻き。しかし、その絵柄は以前とは変わっていた。


 かつてはただの円だったものが、今は複雑に分岐し、まるで東京の地下鉄路線図のように広がっている。そして、その黒い線は、画用紙の縁を超え、引き出しの底板にまで浸食を始めていた。


 坂本は理解していた。自分は今、あの村の「地下施設」そのものになっているのだ。


 自分の幸運は、周囲の人間から吸い上げたもの。そして溜まりすぎた「厄」は、こうして周囲へ「事故」や「事件」という形で排出しなければならない。そうしなければ、あの時の岩田や田所のように、自分自身が破裂してしまうからだ。


「……すまないな」


 坂本は誰にともなく呟き、一枚の封筒を取り出した。和紙でできた、鼠色の封筒。  あの日、自分の元に届いたものと同じ色。


 坂本は筆を取り、墨を含ませた。手は震えなかった。むしろ、何かに操られるように滑らかに動いた。


 宛名を書く。昨日、偶然カフェで隣に座り、楽しそうに旅行の計画を話していた女子大生の住所。彼女が落とした学生証を見て、覚えてしまったのだ。

 彼女は運が良すぎた。幸せそうすぎた。だから、少し分けてもらわなければならない。バランスを取るために。


『請求書』


 表書きにそう記し、中には一枚の紙を入れる。場所は、指定しなくてもいい。  この手紙を開けた瞬間、そこが「入り口」になるのだから。


「これが、種蒔きか」


 坂本は歪んだ笑みを浮かべた。罪悪感はあった。だが、それ以上に「生き延びなければならない」という本能と、体内の「黒い泥」が求める快楽があった。

 自分はもう、人間ではないのかもしれない。

 あの少年が最後に言った「ありがとう」の意味。それは、閉鎖的な村の中に留まっていた呪いを、こうして無限の人が住む都会へと解き放ってくれたことへの感謝だったのだ。


 ピンポーン。


 インターホンが鳴った。宅配便だろうか。坂本は封筒を懐に隠し、立ち上がった。


 玄関のドアを開ける。そこには誰もいなかった。ただ、廊下の冷たい床に、子供の足跡のような濡れた染みが、部屋の中へと続いていた。


『ねえ』


 背後から声がした。坂本が振り返るより早く、小さな冷たい手が、坂本の右手――封筒を持った手――を握りしめた。


『もっと、かいて』


 坂本の意識が暗転する。東京という巨大な苗床で、黒い花が満開になる夢を見ながら。

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