払い戻し②

眼下で、村が死んでいく。


 坂本は山の中腹にある古道のガードレールにへばりつき、呆然とその光景を見下ろしていた。地滑りのような黒い濁流が、扇状地にある集落をゆっくりと、しかし確実に塗りつぶしていく。家々がマッチ箱のようにひしゃげ、神社の大鳥居が飴細工のようにねじ切れて沈んだ。


 悲鳴はもう聞こえなかった。泥の粘度があまりに高く、飲み込んだ瞬間に全ての音と呼吸を封じ込めてしまったからだ。それは災害というより、巨大な捕食活動だった。村が長年、地下に押し込め、見ないふりをしてきた「穢れ」そのものが、主人の寝首をかいたのだ。


「……はは、ははは」


 坂本の口から、乾いた笑いが漏れた。ざまあみろ、とは思えなかった。あれは、人間が触れてはいけない領域の現象だ。自分は、そのスイッチを押してしまったのだ。


 その時。ふと、視線が吸い寄せられた。黒一色に染まった村の中心、かつてあの葬儀場だった屋敷の屋根の上。奇跡的にまだ沈んでいない瓦の上に、白い影が立っていた。


 少年だった。


 地下で泥に溶けて消滅したはずの、あの少年だ。


 距離にして数百メートルは離れているはずだ。闇夜だ。肉眼で見えるはずがない。  だが、坂本の網膜には、まるで双眼鏡で覗いたかのように鮮明に、その姿が焼き付いていた。


 少年は、白い拘束着を風になびかせ、裸足で瓦の上に立っていた。その体は透き通り、背後の炎や月明かりを透過させている。もはや肉体を持たない、純粋な「概念」としての存在。


 少年は、滅びゆく村を見下ろしていたのではない。こちらを見ていた。山の上にいる、たった一人の生還者である坂本を、真っ直ぐに見上げていた。


 その顔に、苦痛の色はなかった。かといって、復讐を遂げた歓喜もなかった。  あるのは、無邪気で、残酷なほどの空虚な笑顔。


『……ありがとう』


 声が聞こえた。鼓膜ではなく、脳の皺に直接指を突っ込まれて文字を書かれるような、不快で冷たいテレパシー。


『おかげで、ぜんぶ壊せたよ』


 少年が右手を掲げた。その指先が、村全体を指し示し、そしてゆっくりと、坂本の胸ポケット――あのクレヨン画が入っている場所――へと向けられた。


『あとは、まかせたよ』


 任せた?  何を?


『種まき』


 少年はニッコリと笑った。その瞬間、少年の輪郭が墨汁のように崩れ、足元の黒い泥の海へと溶け込んでいった。彼は消えたのではない。拡散したのだ。この土地の地下水脈へ、川へ、そして海へ。


 そして、その「核」となる部分は、今も坂本のポケットの中で熱を帯びている。


 ゾクリ、と坂本の全身に鳥肌が立った。


 自分は助かったのではない。選ばれたのだ。あの村人たちが言っていた「生贄」としてではなく、もっと質の悪い、この呪いを外の世界へ運ぶための宿主として。


「……う、うわあああああ!」


 坂本は絶叫し、ガードレールを乗り越え、反対側の車道へと転がり出た。逃げなければならない。この村から。あの少年の視線から。そして、自分のポケットの中にある「それ」から。


 だが、どれだけ走っても、ポケットの重みは消えなかった。まるで、心臓がもう一つ増えたかのように、ドクン、ドクンと、規則正しいリズムを刻み続けていた。



 翌朝。  


 隣町の県道沿いで、泥だらけで呆然と歩いていた男が保護された。男は一言も喋らず、ただ上着のポケットを強く握りしめていたという。


 九久理村の土砂災害は、大規模な地滑りとしてニュースになった。生存者はゼロ。原因は、長雨による地盤の緩みと発表された。地下に広がっていた巨大な空洞や、子供たちの死体については、一切報道されなかった。数万トンの土砂が、全てを永遠に押し隠してしまったからだ。


 唯一の目撃者である男――坂本健司を除いて

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